染みない

封を持ってくる人

扉が、鳴らなかった。

気づいたときには開いていて、ソフィアさんが廊下の光を背に立っている。木箱を抱えている。
灰白の目が部屋を一度で検めて、それからこちらに落ちた。


羽根ペンを置いた。インク壺の蓋を閉め、鑑定書に文鎮を据える。
急がず、待たせず。
まだ仕事の途中である、という提示として。

「ごきげんよう、顧問さん」

「ごきげんよう」
微笑む。決める前に、もう決まっていた。この顔は、いつのまにか手続きを飛ばすようになっている。

箱に目を落とす。小ぶりだが造りが丁寧だ。表面に草木の彫刻。ノミの入り方が浅く、一本ずつ彫ってある。

「少し、お時間よろしいかしら」
問いの形をしているが、これは問いではない。この方が「よろしいかしら」と言うとき、答えはもう決まっている。

頷いた。扇子を、腰帯に差す。

扉が閉まる。
錠の落ちる音。


従者の駆動音が変わった。低い基音に、細い高音が混じる。摩擦ではない。
10年で覚えた音だ。警戒。

「今日は、特別なものをお持ちしましたの」
灰白の目が細まる。
競売台に置かれた出品を見る目だ。品ではなく、こちらの反応を測っている。

「まあ。楽しみですわね」
右手が扇子の要へ行く。社交の手だ。
左手は腰帯に添えたまま動かない。


箱が机に据えられた。書類を丁寧に寄せ、中央に。
留め金が外れる。

小瓶が、10本。
1本ずつ布に巻かれ、羊毛が詰めてある。エルフ語の手書きの札。
隙間がない。美術品を運ぶときの梱包の文法だ。

「エルフ工房の、特製の油ですわ」

1本を取った。琥珀色。光にかざすと、粘度の高いものに特有の、遅い透明がある。
蓋を開けた。
樹脂の甘さが先に来る。次に、冷えた金属。その奥に、古い土地の植物。

——封を切った墓室の、最初の一息。
あの匂いを、この方が選んで持ってきたわけではない。工房の調合が、たまたまそうなっているだけだ。
分かっている。
分かっているのに、鼻の奥だけが先に、どこかへ行っている。

「配合が分かりませんでしたから。全種類お持ちしましたの」

箱を見渡す。
琥珀、乳白、薄緑、透明、淡黄。5種、各2本。瓶ごとに粘度が刻んである。
工房が、卸す相手を選んで秘してきた調合だ。それが今、机の上で蓋を開けられている。


従者が近づいた。

横に立つ。
前髪の奥の光が、瓶を1本ずつ、上から下へ検めていく。軸受の音が細くなった。

金属の体が、前へ傾いている。


ソフィアさんが琥珀を持ち上げた。光にかざし、ゆっくり傾ける。内壁を伝う速度を目で測っている。
「静けさの精度が、上がるはずですわ」

従者が動いた。
差し出された琥珀ではなく——乳白を、自分で取った。

灰白の目が、鋭くなる。
「……当たりですわね」

稼働音の周期。関節の可動域が示す摩耗の癖。そこから粘度を逆算したのだろう。
魔道具の残滓から術師の流派を割り出すのと、同じ仕事だ。

従者が蓋を開ける。前髪の奥の光が、表面を走る。


数秒。


「……感謝」

指が、扇子の要から外れていた。

この従者の語彙は、指示への応答か、状況の報告か、そのどちらかだ。了解。待機。危険。
訊かれれば返る。訊かれなければ返らない。

誰も、訊いていない。

給料

引き出しを開けた。財布に触れる。
金貨を1枚、2枚と——
「おいくらでしょうか」

ソフィアさんが手を振った。優雅に。しかし明確に。
「お金は結構ですわ。RACAの備品ですもの」
微笑む。そして続けた。
「この子のお給料と思って、受け取ってくださいまし」


財布を持つ手が、止まった。

給料。
備品、と呼びながら、給料、とも言う。
矛盾しているように見えて、この方の中では、ほつれていない。

構築体は作品であり、同時に働く者でもある。
働けば対価が生じる。
対価が金貨でなく油の形をとるのは、受け取る側の必要に合わせただけだ。

道筋は見える。見えるのだが、その道筋を、この方はどこから手繰ってきたのだろう。


ソフィアさんの目は、従者を見ていない。
瓶を見ている。従者が手にした、乳白の瓶を。

——机が、遠い。
手を伸ばせば届く位置にある。伸ばした。届いた。
距離は変わっていない。変わっていないのだから、遠いのはこちらの側の目盛りだ。

「……ありがとうございます」
財布をしまう。頭を下げた。社交の角度より、少し深く。

「月に一度、お届けしますわ。補充が難しいでしょう。わたくしなら仕入れられますもの」


申し出の重さを測る。
工房への伝手。25年の取引。継続的な供給。
糸は、こちらの側から絶てない位置に張られている。

断れば、油が切れる。切れれば関節が鳴る。鳴れば、誰かが気づく。
ソフィアさんが気づいたように。あの方は3日で解いた。3日だ。

次に気づく者が、讃辞から入るとは限らない。

「……よろしくお願いします」
出てから、語尾に気づいた。

「ええ、もちろん」


従者が瓶を両手で包んでいる。
蓋を閉じ、胸の前で抱える。金属の指が曲面をなぞる。染みのない写本を検めるときの、触れるか触れないかの圧で。

関節を整える音が、低くなった。

ソフィアさんが箱を閉じる。留め金がかかる。
「残りもお試しになって。用途で使い分けると、よく利きますわよ」

「はい」
箱を受け取る。10本の重さが両腕に収まる。
底に紙が見えた。配合の一覧か、使い方の指示か。

ソフィアさんが扉へ向かった。振り返る。
「作品は、大切になさらなくては。こんなに美しい子は」

従者が、頭を下げた。
深く。静かに。


扉が閉じる。
足音が廊下を遠ざかっていく。

箱を見た。


この方が敵か味方か、まだ解けない。
だが、従者が頭を下げた。危険でも待機でもなく、礼の姿勢を選んだ。

「……今夜、お使いになりますか」

頷きが返る。

上機嫌

夜。窓の外は暗い。
暖炉の焔が銀の装甲に乗って、継ぎ目の影が細く流れる。

紅茶を淹れた。長く座るほうの椅子に沈む。
従者は部屋の中央で、外装を外していく。


整備は本人の仕事だ。手順は本体に入っている。
こちらに整備は務まらない。魔法の知識がどれだけ積み上がっていても、歯車の目に合った圧の掛け方は術式の外にある。

順序は決まっている。
外装、胸当て、上から下へ関節を17。最後に可動域の確認。
一度、測ったことがある。全体で42分。日によって前後するが、誤差は1分に満たない。


乳白の蓋が開く。あの匂いが、部屋に移る。

指先で取り、肘の歯車へ。ひとつずつ。
金箔の剥落を補修する手つきに似ている。急がず、過不足なく。

高域の摩擦が消えていく。

——上機嫌だ。
茶がまだ口の中にあった。飲み下すのを、忘れていたらしい。

上機嫌。
その判定はどこから出た。


速度を測る。同じだ。
順序。同じ。肘、肩、手首、指。10年、この順で崩れたことがない。
可動域の確認回数。左右3回ずつ。同じ。
姿勢の角度。同じ。
発光。平時の紫。微光。同じ。

同じだ。
照合できる項目は、すべて一致している。

それなのに、上機嫌に見える。


見る側が変わったのだろう。ソフィアさんに解かれた日から、この体を毎日、別の角度から見ている。
角度が変われば像は変わる。像が変われば、そこに無いものを読む。鑑定の初歩だ。
歪んでいるのはこちらだと、そう置いておけば済む。

置いておけば済むのだが。

時計を見た。43分。

1分では何も言えない。誤差の内側だ。

カップが軽い。
減った分を、いつ飲んだのだったか。


この従者は欲しがらない。
10年、一度も。命令を実行し、警戒を維持し、必要な報告を返す。
そういう機構として作られている。欲しがる機能を実装したという話は、製造の記録のどこにもない。

ないものが、動いている。


もの言いたげ、という言い方が近い。何も言っていないのに。

紅茶を、口に運んだ。冷めている。
焔の音だけが残っている。

淀む

背へ回った。

連結部は自分では見えない。手だけで探る。10年、そうしてきた。
こちらは椅子から、その背を見ている。

見ている、という言葉が、今夜は正しくない。
検めている。

灯りを引き寄せた。膝を床に落とす。
従者は動かない。前髪の奥の光が、こちらの手元を追う。

背の連結は7つ。上から順に、歯車の列。
1つ目、2つ目——歯先が丸めてある。摩擦を減らすための処理だ。

3つ目。角が立っている。

丸めていない。丸め忘れではない。ここだけ、意図して角を残してある。
そして、角が立ったまま、摩耗していない。

10年、この背に何度手を触れたか分からない。埃を払い、外套を掛け、留め具を直した。
見ていなかった。

油が、そこで止まっている。
ほかの列には引かれていくのに、3つ目の縁で溜まって、動かない。歯の隙間へ入っていかない。

——見てしまった。10年、隣にあったものを、今夜になって。

設計されていて、稼働していない機構が、一つある。
底に何かが澱んでいるのが分かる。汲み上げる術がないだけだ。

従者の手が、その列で止まった。ほかの列より長く。
それから離れ、次へ移った。


訊かなかった。
訊けば、返る。返るのは報告だ。報告できることなら、この従者はとうに報告している。

作業が終わる。外装が戻る。
腕を回し、膝を曲げ、首を左右に。駆動音は、ほとんど聞こえない。

「……良好」

「そう」

従者が瓶を持って、寝床の脇の棚へ行った。

使いかけの乳白を置く。
それから、箱からもう1本、乳白を取り出した。
封を切らないまま、使いかけの隣に立てた。

2本が並んでいる。1本は開いていて、1本は開いていない。

予備なら箱に戻せばいい。箱には残り8本ある。


用途のない所持。
呪物を持ち込む者に、最も多い型だ。使わない、売らない、手放せない。理由を訊くと、答えられない。
鑑定書には「執着の兆候あり」と書く。

「……お休みなさい」

「……了解。主人も」

灯りを落とした。


棚の上で、2本の輪郭だけが窓の明るみを拾っている。
片方は、蓋の縁が濡れている。片方は、乾いている。


この従者が、いつからそこに置くようになったのか。
思い出そうとして、思い出せるはずがないと気づいた。今夜が最初だ。

最初のものを、見ていた。