名前
三
展示部門から鑑定の依頼が来る。第三王朝期の留め金。魔法的装飾の判定と、来歴の照合。
書類は簡潔で、余計なことが一行も書かれていない。
本館を出て、渡り廊下を抜ける。美術館三階、展示準備室。
冬の斜光が窓から入って、床に長い帯を落としている。
ソフィアさんは背を向けていた。
「顧問さん」
振り返らずに、そう言った。手元の作業を止めていない。
「留め金は、卓の上に」
卓へ向かう。留め金を取り上げ、ルーペを当てた。
石の据わりが浅い。抜いた跡がある。後から別の石が嵌められていて、それも一度、外されている。
用意はしてきた。
あの日、この方は511号室の床に膝をついた。従者の手を見るために。
部門長が客人の前で床に膝をつけば、普通は後から詫びが来る。詫びが来れば、こちらは受け流す。
受け流し方は三通り考えてある。
どれを使っても、この方の面目は保たれる。
「顧問さん」
もう一度、名を呼ばれた。
「油は、来月の三日にお持ちしますわ。三日でよろしいかしら」
「……ええ」
「関節は十七ございますでしょう。左手だけで40分いただきましたから、全部となると、少なくとも十回は」
手が動き続けている。声も、途切れない。
「ですから、月に一度で、一年と少し。ちょうどよろしいかと思いましたの。急ぐものでもありませんし、急いではいけませんわ。ああいうものは、一度に見てしまうと、二度目が薄くなりますから」
数えている。
十日かけて、この方は十七の関節を十回に割った。
そして膝のことは、一度も出てこない。
出てこないのは、忘れたからではないだろう。この方は四十分を分単位で覚えている。
数えられるものはすべて数えて、数えたものの中に、あの膝が入っていない。
出来事として、積もらなかったのだ。
用意した三通りが、行き場を失って手元に残っている。
ルーペを下ろした。
「石は、二度替わっています。二度目の石は、外された跡だけが残っていますね」
「ええ。わたくしもそう見ましたわ」
「持ち主が変わるたびに、石だけが……?」
「そういうものですのよ。留め具は残りますの。石は替わります」
手は止まらない。背も向いたままだ。
「留め具のほうが、地味ですのにね」
名
「あの子の、お名前は?」
ソフィアさんの手が、止まった。
初めて、この方の作業が止まるのを見た。
「……名前?」
「ええ」
ソフィアさんが、こちらを見る。灰白の目が、留め金でも瓶でもなく、この顔を見ている。
人の顔を最後に見る方だ。順番が来たということだろう。
「あの子に、名はございますの」
喉の奥で、一度、止まった。
「……訊いたことが、ありません」
言ってから、聞こえた。自分の声が、外から。
十年、隣にいる。
命令を出した。報告を受けた。破損を直させ、外套を掛け、宿を移り、国境を三度越えた。
十年分の指示と応答が、全部そこにある。
その中に、一度も。
ソフィアさんは、しばらく黙っていた。
それから灰白の目を、手元へ戻した。
では、二人とも、同じですわね」
声が、いつもより低い。
同じ。
この方は三日で解いた。こちらは十年で解いていない。それを同じと言った。
——ああ、そうか。
この方の尺度に、経過した時間は入っていない。入っているのは、訊いたか、訊いていないかだけだ。
三日も十年も、訊いていない側では同じ場所に立っている。
正しい。
正しさが、こちらの言い訳を一つずつ剥がしていく。忙しかった。必要がなかった。訊けば答えるのだから、訊かなくても同じことだ。
剥がされた後に、何も残らない。
「三日に、伺いますわ」
「……はい」
部屋を出た。
座
渡り廊下の石が、冬を吸っている。
足の裏から冷えが上がってくる。上がってきて、どこにも乗らずに抜けていく。
従者が三歩後ろにいる。
いつもの距離だ。十年、この距離が縮んだことも開いたこともない。
本館へ戻る。階段。
五階まで、あと二層。
あの夜から、棚の二本はそのままだ。
片方は減っていく。片方は封が切られない。毎晩、並んで立っている。
欲しがる機能は実装されていない。
実装されていないものが動いているなら、それはどこから来たのか。
ソフィアさんが持ってきたのは油だ。油に、そんな効能はない。
ならば、前からあった。
掻き立てる者が、十年、いなかっただけだ。
掻き立てたのは、この方ではない。
金貨で払っていれば、あの体は何も受け取らなかった。給料と呼んだから、受け取る側が生まれた。
呼び方が、はまる場所を作った。
——ということは。
足が、止まっている。
従者も止まった。三歩後ろで。音はしない。十年、この背後には音がない。
訊く夜と、訊かない夜が、この階段の下に両方ある。
どちらを降りても、あの子は三歩後ろにいるだろう。降りた先で違うのは、こちらが何と呼ぶかだけだ。
十年、呼ばなかった。
従者、と呼んできた。役目の名だ。役目の名で呼ばれ続けたものが、役目のことしか言わなくなるのは、当たり前ではないか。
訊かなかった。
それでも、三歩後ろにいてくれた。
心を読める。
読めるのに、この体だけは読めない。読めないから、訊くしかない。
訊くしかない相手が、十年、いちばん近くにいた。
——わたしは。
手すりに掌を置いた。石が、熱を吸っていく。冬の石は、いつまでも返さない。
振り返った。
前髪の奥の微光が、こちらを向いている。平時の紫。消えかけている。
待っている。訊かれるのを、ではない。指示を待っている。十年、そうしてきた形で。
口を、開いた。
「あなた」
音が、出た。
従者、でも、了解、でもない語が、この階段に落ちた。
微光が、揺れた。
紫の底で、色が変わりかけて、止まる。焔が芯まで届く前の、あの明るさに。
次の言葉は、まだ出ていない。
出ていないのに、階段の石はもう冷たく、冬はもう短く、こちらを見ているものには、名がある。