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金彩亭の個室

ディナーのイラスト

夕刻の石畳

杖の先端が地面を叩く。機械仕掛けの時計のように、一定のリズムで音を出す。

商人たちの声はもう遠い。馬蹄の音も消えた。残るのは、セレネ川の水音と、魔法灯が一つずつ点灯する微かな唸りだけ。
西の空は琥珀を溶かしたような色をしていて、建物の影が石畳を這う。私の低い背丈でさえ、影は長く伸びている。


朝7時から呪物鑑定。防護呪文を二重に張っても、詛いの残滓が腕に這い上がる感覚が消えない。
10時から鑑定書作成。二度書き直した。RACAの鑑定書は正確さだけでなく、文章の「品位」まで求められる。理解できる魔術師だけ読めればいいと思う、面倒。
マーガレットさんとの面談は予定の倍。彼女の視線は解剖刀のように鋭く、私の答えの裏側まで切り開こうとする。
セシルさんへの引継ぎは雑談で延び、ロゼさんの「偶然の」抱擁攻撃のおまけ付き。
解放されたのは18時過ぎ。

足裏が悲鳴を上げている。12センチのハイヒール。低身長のエルフが対等に扱われるには、視覚的な「格」が必要。美しいが、拷問器具に近い。

すれ違う商人に会釈を返す。微笑みの形を作る。貴族の真似事は、もう呼吸と同じだ。唇の端が震える。疲労が滲んでいる。仕方ない、演技にも限界がある。

金彩亭まであと少し。川面がオレンジ色の街灯を反射して、黒い水に光の破片をばら撒いている。
空がオレンジから紫へ。もうすぐ完全な夜。星がいくつか瞬き始めた。

早く寝たい。だが空腹のまま寝ると翌朝は地獄だ。頭痛と倦怠感。経験則で学んだ。
だから金彩亭へ。

境界線

木造二階建ての建物。古いが手入れは行き届いている。窓から漏れる光。
肉を焼く香ばしさ、エールの麦の匂い、焼きたてパンの小麦、暖炉の樫の煙——この組み合わせを知っている。「帰還」の合図。
中から笑い声。グラスの音。賑やかだが騒がしくはない。オスカーさんの人選が良いのか、店の雰囲気が荒くれ者を遠ざけるのか。

深呼吸。8秒吸って、8秒吐く。
顔の筋肉を定位置へ。微笑みの形。

扉を開ける。鐘が鳴る。澄んだ音。


「いらっしゃい、顧問さん」
オスカーさんの声。だが今日は眉が下がっている。口角は上がっているのに、目が笑っていない。
おそらく気づかれてる、商人は騙せても、彼には見抜かれる。

「……こんばんは」

「今日も遅くまでお疲れ様。2階の個室、空いてるよ」

「……ありがとうございます」
喉の奥が温かくなる。多くを語らずに最適解で返してくれる。

会釈。優雅に。気力で動く。せめて感謝を示さないと。


階段を上る。従者が先導する。12段。
下からRACA職員たちの声。「今日の練習キツかったなぁ!」遠い世界の話のように聞こえる。

2階の廊下は静か。奥へ向かうごとに、1階の声が遠ざかっていく。真鍮のプレート「葡萄酒の間」。

扉を開ける。魔法灯が自動で点く。温かい光。
従者が扉を閉める。
カチャリ。
その音が、世界を二つに断ち切った。

解除

手を上げる。合図。
従者が外套を外す。肩から重量が消える。浮遊感。
肩の力が抜けていく。氷が溶けるように、顔の筋肉が定位置を離れていく。
素顔。誰にも見せたくない顔。

指輪を外す。外した順番に、テーブルに並べて置く。食事の時に、大きな指輪は邪魔でしかない。盗まれる心配のない金彩亭なら、これでいい。
杖を立てかける。もう支えはいらない。背筋を伸ばさなくていい。優雅に歩かなくていい。ただの疲れた女でいい。

椅子に座る。背もたれに体重を預ける。椅子が軋む。背中に優しい曲線。

今日もよく演じた。
マーガレットさんの前では「有能な特別顧問」。評価も上々。他の職員が対応できないものを処理しているので当然。
——私はただ長く生きて、長く学んだだけ。それでも、人間の街では若い天才。

セシルさんの前では「親しみやすい同僚」。励ましの言葉。彼女の顔が明るくなった。
——ただ、私なんかを信用してはいけない。あの子は悪意を知らなすぎる。

ロゼさんの前では「守られるべき妹」。抱擁を受け入れた。
——守られるべき妹じゃない。洗脳と精神操作しかできない、嫌われるべき魔術師。

でも、この空間では。演じなくていい。罪悪感を背負う必要はない。

「主人、疲労」
従者の短い言葉。

「……ええ」

「休息、必要」

「もうすぐ、ご飯が来るわ」

窓を向く。
外は暗い。星空には半月。欠けた側が闇に溶けている。

従者は入口そばで待機。時々こちらを見る。心配しているのか。感情があるのか分からない。……いや、ないはず。

目を閉じる。視界が暗闇に沈む。
カーテンが風になびく音。1階の笑い声、川のせせらぎ、調理する音。
聞き流すだけでいい、会釈も笑顔もいらない。

配慮の形

コン、コン。強くノックして、間を置いて、小さめにもう一度ノックする。ヘレンさんのノック。

「どうぞ」

扉が開く。
トレイを持ったヘレンさん。湯気。野菜のスープに、パン。暖炉の煙のにおい付き。

「顧問さん、お食事をお持ちしました」
明るい声。だが私の顔を見て表情が曇る。心配そうな目。

「ヘレンさん。いつも、ありがとうございます」

料理が並べられていく。陶器がテーブルに触れる温かい音。

野菜たっぷりのスープ。いつもより量が多い。優しい人たち。
焼きたてのパン。まだ温かい。バターも付いている。
サラダ。軽め。レモンとオリーブオイル。
ハーブティー。ラベンダーとカモミールの香りがする。
小さなクッキー二枚。……注文していない。紅茶のお供、ということだろうか?

「今日は特別に、スープ多めにしましたよ。ゆっくり食べてくださいね」

「……ありがとうございます」
感謝。安堵。わずかな罪悪感。いつも気を遣ってくれる。なにも返せないのに。

ヘレンさんの表情が柔らかくなった。
「何かあれば、呼んでください」

扉が閉まる。また二人だけ。

解放された時間

スープの湯気。野菜の甘い香り。ニンジン、ジャガイモ、セロリ、タマネギ。

スプーンを手に取り、ゆっくりとすくう。
一口。
温かい。舌に熱が広がる。
野菜の甘み。ジャガイモがほくほくと崩れる。長時間煮込んだのだろう。セロリのさわやかさ。塩加減が絶妙。

美味しい。

もう一口。ゆっくりと。味わうように。

パンを手に取る。小麦の香り。少しだけバターを塗る。溶けてパンに染み込む。
一口齧る。
焼けた香ばしさ。バターの塩味が甘みを引き立てる。


時々窓の外を見る。
完全な夜。星が無数に。月も高い位置に移動している。

スープ、パン、サラダ。ゆっくりと、一口ずつ丁寧に。
レタスのシャキシャキ。トマトの酸味。キュウリの爽やかさ。


この時間が好きだ。
演じなくていい。ここだけは、少しだけ楽になれる。


RACAは仕事の場所。「特別顧問」として尊重されている。だがそれは演技の結果。素の私を誰も知らない。知られたら……嫌われ、遠ざけられる。
ホテルは寝るだけの場所。「家」ではない。誰も待っていない。

でもここは、少しだけ楽になれる。

それで十分だ。多くを望んではいけない。これだけでも贅沢なのだから。
私には贅沢すぎる。


「……今日は大変だったわね」

「主人、頑張った」

「ありがとう」

「主人、強い」

「強い……。多分、弱い……と思う」
首を横に振る。あの子の励ましに、同意しきれない。

強いわけがない。ただ演じているだけ。
いつか崩れる。いつかバレる。いつか——
逃げ出さないといけない。


ハーブティーを一口。
ラベンダーとカモミールの優しい香り。リラックス効果、本当に効くのか分からない。
でも、そう感じる。それでいい。ヘレンさんの気遣いだ、効果があると思う。

少し楽になった。

食事を続ける。
最後の一口まで丁寧に。
クッキーも。サクサクとした食感。バターの香り。甘さ控えめ。

循環

食事が終わった。
皿は空。スープの最後の一滴まで。

ハーブティーを飲みながら窓の外。
完全な夜。街灯が、規則正しく並んでいる。まるで、暗黒の板を留める釘のよう。
セレネ川も暗闇。月明かりに照らされた水面がゆらめいている。

少し楽になった。

お腹が満たされると心も軽くなる。
単純だ。
食事だけでこんなにも変わる。疲労が和らぐ。
体が温まっている。スープの温かさがまだ残っている。足先まで血が巡っている。

でも明日も、また演じなければならない。
「有能な特別顧問」「親しみやすい同僚」「守られるべき妹」。
全て演技。
全て嘘。
全て仮面。
……だが必要な仮面。これがなければ生きていけない。

いつまで続けられるだろう。いつまでバレずに——
いや。考えるのはやめよう。今はただこの温かいお茶を味わおう。この静寂を楽しもう。
明日のことは明日考えればいい。

ハーブティーを飲み干す。最後の一滴まで。
カップを置く。カツン、と優しい音。


もう帰ろう。

石畳へ

立ち上がる。
椅子が軋む。体が重い。疲労はまだ残っている。当然だ。一食では消えない。

指輪を着ける。右手の小指から順番に。
耳飾りを確認。軽く触れる。位置を整える。
歩行杖を手に取る。銀の装飾。握り慣れた感触。安心する重さ。

深呼吸。
栄養で顔の筋肉を動かす。

壁の鏡。顔を確認。
口角を上げる。目尻を下げる。優雅な表情。
いつもより薄い。もう夜だから。許される。

扉を開ける。
従者が先導。

階段を下りる。手すりを掴む。慎重に。
私からすると段差が大きい。


オスカーさんとヘレンさんが手を振っている。

「お疲れ様。また明日」
温かい笑顔。

「ごちそうさまでした」
優雅に微笑む。会釈して店を出る。

鐘が鳴る。チリン。


夜風が頬を撫でる。
星が綺麗。無数の星。月はまだ昇っている。西の空に傾いている。

従者と二人、静かに歩く。
石畳を踏む音。カツ、カツ、カツ。この音が好きだ。

今日も何とか終わった。

明日もきっと演じ続ける。完璧な仮面。笑顔。優雅な所作。全て。
でも金彩亭の個室では、少しだけ素の自分でいられる。

少しだけ楽になれる。
それで十分だ。多くを望まない。

これだけでも贅沢なのだから。