問診
朝日が、真鍮の門扉で二度屈折してこちらへ届く。
商人街の煉瓦は継ぎ目まで磨かれ、焼きたてのパンの匂いに、遠い鍛冶場の焦げた鉄が一筋だけ縒り込まれていた。
馬車が速度を落とす。蹄の間隔が、ゆっくりと開いていく。
「到着です」
御者の声。
従者が先に降り、手を差し出す。その手を取って、石畳へ降りた。
三階建て。白壁に金の装飾、扉には家紋。
執事が扉を開け、深く腰を折る。
「お待ちしておりました。王立芸術古物院の……」
「ごきげんよう」
唇の端を、決めておいた角度だけ上げる。目元は、決めておいた温度だけ緩める。
「呪物特別顧問の、ミセリコルデと申しますわ」
声を、相手の警戒の隙間へ滑り込ませる。魔力は足さない。所作と言葉の運びだけで、人はたいてい気を許す。
執事の肩の線が、目に見えてほどけた。
警戒は、解けた。仕事は運びやすくなるだろう。
絨毯は深紅、手すりは磨き込まれた樫、壁に並ぶのは先代と先々代であろう肖像。
調度のひとつひとつが同じ声で家の財を語り、そして同じ手入れの行き届き方で当主の性分まで語っていた。
読めるものが、多い家だ。
応接室で、二人が立ち上がる。
男は四十代半ば、髪に白がわずか。装飾品を一切つけない上等の衣。成金の匂いがない。
ただ、目の下の隈が、この数日の眠りの浅さを刻んでいた。
妻は同年配。髪をまとめただけの淡い青のドレス、赤い目。
身支度に手をかける気力は、もう残っていまい。
「お初にお目にかかりますわ」
裾をつまみ、膝を折る。背筋はまっすぐ、顔だけをわずかに傾けて。
「ミセリコルデと申します。……大変な状況と、伺っておりますわ」
男が、長く息を吐いた。
「来ていただいて、ありがとうございます。私はローレンス。妻の、エレインです」
エレインさんの声が、細く揺れた。
「息子が……息子が、おかしいんです」
「どのように、でしょうか」
扇子を閉じ、膝へ置く。真剣に、けれど圧にはならないよう。小さな事でも、遠慮なく零してもらえる面を作る。
「三日前から、様子が。肌が青白くなって、部屋の灯りが暗く見える、と」
「灯りが、暗く」
「蝋燭を何本ともしても、暗い、と言うんです。それに……誰もいないのに、囁き声が聞こえる、と」
「それは……お辛かったでしょうね」
声には共感を、内側では手札を並べる。
光の減衰。呪いによる知覚の歪みか、光源そのものへの干渉。囁きは精神干渉、音声の魔術、あるいは身体の一部の転送。肌の白化は、幽体の関与を疑わせる。
死霊術か、幻術か。今ある札から絞れるのは、その辺りだろう。
「昨夜が、いちばん悪かった」ローレンスさんが続ける。「息子が、私たちに、襲いかかろうとしたんです」
「まあ」
扇子を口元へ。驚きの形を上に置く。下では、驚いていない。幻聴を伴う進行、錯乱による加害——珍しくもない筋書きだ。
「教会の神官は、お呼びになりまして?」
エレインさんが、小さく頷いた。
「悪霊憑きではない、と。祓いの儀式も、効きませんでした」
でしょうね。それで済むなら、わたくしが呼ばれる理由がない。
「承知いたしましたわ」
立ち上がる。
「まず、ご子息にお会いしても? お加減を、この目で拝見したいのです」
二人が顔を見合わせ、目だけで頷き合う。
「……お願いします」
寝室の扉の前で、ローレンスさんが立ち止まった。
「この中に……」
その先が、続かない。
頷いて、扉に手をかける。
ゆっくりと、押し開けた。
——空気が、変わる。
外より、明らかに暗い。窓は開いているのに、光がこの部屋に入ることを拒まれている。
ベッド脇の蝋燭が三本、その炎は小さく、頼りない。
横たわる少年は、十代の後半だろうか。顔は色を失い、肌の下に紫の血管が透けている。
呼吸は浅く、規則正しく、そのくせ生気だけが抜けていた。
影が、おかしい。少年の影は、蝋燭の炎とは逆へ伸びている。ここにない、もっと強い光源の側へ。
呪いが、彼を芯にして開いている。
……蝕みが、深い。あと幾許かで、この子は人でなくなる。
一歩、踏み込む。床板が、足の下で低く応えた。
「少しだけ、お時間をくださいまし」
振り返り、二人へ。「診立てを行います。ここで、お待ちいただけますか」
無言の承諾。その顔は、部屋の暗さより暗かった。
肺を、八つ数えて空にする。八つ数えて、満たす。
少年から半歩退き、床に膝を折り、両手を合わせて、天響語でそれらしい祈りを低く連ねはじめた。
この所作に、意味はない。目的は別にある。
彼の内から漏れるものを——感情を、精神の澱みを、命の傾きを——読み取るためだ。神託を授かった体を装えば、思考を探る術を保護者の前で堂々と使える。
時間の輪郭が、ほどけていく。呼吸の音だけが、規則正しく続いた。
——視える。
紫の糸が、彼の魂に巻きついている。囚人を縛めるように幾重にも縒られ、肉のない場所へ食い込んでいる。
糸の先は、次元の裂けめへ。その向こうに、深い闇。無数の腕が蠢き、囁きが谺していた。
「もっと……近くへ……」
深淵の底から這い上がる、歪んだ音。知らぬ言葉のはずが、意味だけが直に届く。理屈でなく、本能の側の扉を叩いてくる。
縛められた魂の縁から、二つの色が滲み出していた。
ひとつは、恐怖。
凍土から掘り出された古い遺物のような、命を拒む冷たさ。指を近づければ、触れる前に体温を奪われそうな質感。
ひとつは、渇き。
抑えの利かない欲求が、恐怖のすぐ隣で脈を打っている。何かを飲まねばならない、という強迫が、糸と同じ色をして絡んでいた。
閉じた瞼の奥に、意識がまだある。薄れかけて、けれど、消えていない。
そちらへ、そっと触れる。
読むのではない。触れる。指の腹で、湿った紙の厚みを確かめるように。
——飲みたい、という熱。すぐ裏に貼りついた、冷たい怯え。そのさらに底で、もっと深くへ、と誰かに繰り返し撫でつけられた跡。彼自身の思考と、外から縒り込まれた思考の、縫い目がまだ生きている。
異界の囁きに縛られ、それでも、抗っている。
……縒った糸の元さえ断てれば。まだ、間に合う。
診察は済んだ。次は、家族へ告げる番だ。
合わせていた手を解き、立ち上がる。
「……いかがでしたか」
ローレンスさんの声が、揺れている。
柔らかい面を作り、真剣さだけ芯に残す。
「応接室で、お話しいたしましょう」
診断結果
対面に、二人が座る。期待と不安が、同じ顔の上で綱を引いていた。
扇子を膝に置き、背を伸ばす。
「結論から、申し上げますわ」
驚かせぬよう柔らかく、けれど言葉に目方を載せて。
「ご子息は、悪霊憑きではございません」
エレインさんの呼吸が、途切れる。
「これは、召喚術の呪いですわ」
「召喚術……?」ローレンスさんが眉を寄せた。
「悪しきものが、次元の扉を開いて、ご子息を手招いている——と、申し上げるべきかしら」
扇子を、ゆっくり開く。「裂けめを通して語りかけ、魂へ手を伸ばしております」
「異界の……」エレインさんの顔から、また色が退いた。
「囁きは、幻聴ではございませんの。現に、話しかけられておりますわ」
扇子を閉じ、膝の上で一度だけ止める。
「あちらの者が、ご子息に何かの儀式を強いております。おそらくは、ご自身の魂を差し出すような」
「それで、どうすれば」ローレンスさんが前へ出た。
「まず、因となっている品を、探さねばなりませんわ」
扇子で口元を覆う。「日頃お使いの品の中に、まぎれております。ご子息のお部屋を、検めても?」
二人が目を交わし、頷いた。
「……どうぞ」
犯人捜し
再び、二階へ。今度は寝室の隣、書斎を兼ねた私室だ。
ローレンスさんが扉を開け、エレインさんと並んで敷居の手前に留まる。従者を伴い、部屋へ入った。
整った部屋だった。書斎机、本棚、寝台、衣装箪笥。棚は商いと地理の書が多く、娯楽の本も数冊。机には使いかけのインクボトルに、予備ものがいくつか。
よく筆を執る人だ。勤勉、と見ていい。
自慢の息子に刃を向けられた——夫人があれほど乱れる理由も、この几帳面な部屋が裏書きしている。
窓の外に街並み、揺れる帳。だが、空気が重い。
誰かの吐息が染みたような、肌にまとわる粘りがある。
ある。呪物が、ここに。探る術を張るまでもない。魔力が空気を圧して、その圧が肌で分かる。
それでも、瞼を下ろす。周囲の空間を、意識で撫でていく。気の流れ、温度の綻び、感情の澱み。
——ある。書斎机の、引き出し。強い情動の澱が、そこ一点に凝っていた。
恐怖、渇き、悔い。三つが小さく渦を巻き、抽斗ひとつの中で嵐を煮詰めている。
「……ございますわね」
敷居のローレンスさんが、声を上げた。
「何か、見つかりましたか」
「ええ。そこに、隠されておりますわ」
引き出しに手をかけ、引く。古い木が、抗うように鳴った。
そして——黄金の杯。
表面に、深紅の染み。血ではない。召喚術由来なら、異界の液の残りだろう。
刻まれた銘は不規則に歪み、見る角度を変えるたび、文字が身じろぎするように映る。
細かな亀裂が走り、その奥から虚空が覗いていた。杯の内側に、別の世界がひとつ折り畳まれているかのように。
皮膚が粟立つ——前に、確信だけが先に来ていた。これだ。
術を張らずとも分かる。邪悪な魔力が、封を持たずに溢れ出している。
「……どうです」ローレンスさんの声が、遠い。
「はい。これが——」
——背後で、気配が動いた。
振り向くより早く、体が向きを変えている。糸を手繰る指が、来るものの手応えを先に拾っていた。
少年が、立っていた。
寝室の扉は、閉じていたはずだ。なのに、彼はここにいる。
足音もなく、けはいもなく。影が実体を得たかのように。おそらくは、杯が寝室から引き寄せた。
触れずして、なお呪いの掌の上。もう呪いが、体の一部になりかけている。そう見るほかない。
瞳孔が、開ききっている。焦点は、どこにも結ばれていない。瞼が上がっているだけだ。
……操られている。糸の先で、手足だけを動かされる人形。
蝋燭の炎が縮む。窓の光が歪み、部屋が翳っていく。彼を芯に、闇が輪を広げていた。
地の底から突き上げる、低い震え。空間に、裂けめが口を開ける。紫の光が、そこから漏れた。
深紅の腕が、伸びてくる。指は五本、関節もある。人の腕に似て、けれど確かに人のものではない。
皮膚に紫の紋様が浮き、脈打つように明滅していた。
その腕が、少年の肩へ触れる。
彼の口が、開いた。
「生贄に……渇きを、満たせ……」
声ではない。音だ。幾つもの声が重なり、谺を引いている。人の喉から出る類のものではなかった。
敷居の向こうで、エレインさんが悲鳴を呑む。ローレンスさんが妻を引き寄せ、退がる足音。
少年が、机のペーパーナイフを取った。
拾い上げ、盗賊が短刀を構えるように握る。急所を突くことに特化した握りだ。
豪商の子には、あまりに手馴れた——実戦の匂いのする構え。糸を引く者の手癖が、そのまま借り物の腕に出ている。
動きは鈍い。だが、確かに踏み込んでくる。
(——間に合う)
片手を、彼へ向けて開く。視線を、その目に縫い留める。
肉体を動かす意志と、肉体そのものを、切り離す術。麻痺。
……対人に用いるのは、本来ご法度の呪文だ。
隠れ蓑に、天響語をひとつ、低く落とす。
「我、繋ぐ。留まれ、留まれ、留まりて在れ」
閉じた音を三度畳んで、最後の一句へ累ねる。開いた手のひらと、刻む硬い音。傍目には、神官が悪しきものを御している絵に見えるだろう。重い縛めほど、神の威が映える。
少年の体が、そのまま固まった。
ナイフを握った姿勢で、関節を留められ、呼吸の間合いまで一定に均される。
異界の腕が、退く。裂けめが、音もなく閉じた。紫が薄れ、部屋の光が本来の場所へ戻っていく。
蝋燭の炎が、また丈を取り戻した。
息を、長く吐く。肩が下がる。
呪いの主が、諦めるのが早くて助かった。
「もう、猶予はございませんわね」
「息子……!」ローレンスさんの、絞り出す声。
向き直る。二人の肩が波打っていた。エレインさんは幽鬼にでも触れられたような顔で、夫に支えられ、辛うじて立っている。
敷居の執事も、頬が細かく痙攣していた。目を背けたい、けれど自分だけは逃げるわけにいかない——責に押された顔だ。
「今は、小康ですわ。寝室へ、お運びいただけますか」
執事が静かに頷き、少年を運んでいく。
できるだけ、凪いだ声で。
「これより、この呪物の詳しい鑑定に入ります。いま少し、お時間を」
ローレンスさんが、声を揺らして答えた。
「……お願いします」
引き出しの中の杯へ、目を落とす。
溜息が、音を立てずに漏れた。
詳細鑑定
ただの呪物ではない。
冒険者が生涯にひとつ出会えるかどうかの、貴重な——いや、貴重という語で評価するのは悩ましいほどの、圧倒的なおぞましさ。
手袋を検めてから、杯を引き出しから取り上げる。
金属を通して、凍てた感触が指へ届く。命を拒む冷たさが、手袋の内で指先から腕へと這い上がってきた。
そして、震えている。規則正しい拍で、杯そのものが。召喚に応じる何かの、脈のように。
両手で持ち、裏返す。底の銘が、暗がりの中でも縁だけ淡く光っていた。
掘り込みの縁で光が脈打ち、文字が身じろぎして見える。
目に、知恵の力を集める。あらゆる言葉を解くための、知の神の祝福。
祝福という硝子越しに、銘の意味が像を結ぶ。
「狭間より注がれし渇望、飲む者は深淵に沈む——」
声が、部屋に落ちる。これを刻んだ者は、何を思っていたのか。
警告だ。
使うな。飲むな。深淵に沈むぞ、と。
誰かへ、確かに伝えようとしていた。
けれど、遅かった。杯には力が宿り、呪いはとうに動きだしている。
おそらく、解く術は最初からなかった。警告は幾百年前に刻まれ、その言葉ごと、世から擦り切れていった。
扇子を開き、口元を覆う。呼吸が、水面のように均されていく。
——この銘を彫った人の願いを、わたくしが継がねば。
これを、封じねば。
鑑定を、続ける。呪いの筋を、見極めねばならない。
肺を空にし、ゆっくりと満たす。意識を、杯へ。
——視える。
杯の周りに、紫のオーラが渦を巻いている。
召喚術。それも、次元の狭間を往還する高等の術式。
繋がった先は——あの腕と、あの一声から察するに、破滅と腐敗の界層。大外れの引きだ。
杯そのものは、召喚術のみ。
注がれた液を飲むことで、内側からあちらの色に浸されていく仕掛けだろう。
行き着く先は、あちらの住人。破滅と腐敗のクリーチャーへの、緩慢な変化。
彼は、まだ連れ去られてはいない。異界の腕も、肩を叩くのが精一杯だ。
……まだ、間に合う。
立ち上がり、杯を手に取る。
告知と選択
応接室へ戻る。対面に座った二人の顔には、この数日ぶんの疲れが刻まれていた。
口角を優雅に上げ、杯を卓へ置く。
金属が天板に触れた、その一拍を待っていたかのように——空間が歪んだ。
杯の上に、裂けめが開く。紫の光が漏れ、深紅の手が伸びてくる。
指は細長く、獣の爪。皮膚は紫。人のものでないことは、疑いようもない。
手が、罅の入った壜を傾け、注ぐ。
琥珀の酒が、杯を満たしていく。泡立ち、甘い香りが立つ。だが香りの芯に、腐った肉の匂いが縒り込まれていた。
上等の麦酒。鼻の鈍い者が評すれば、そうなるのだろう。
エレインさんの呼吸が止まり、ローレンスさんが身を退いた。
「これが、因ですわ」
扇子を開き、口元を覆う。
呪いの作動条件までは、読み切れていなかった。良い頃合いに動いてくれたものだ。
「……あれは」ローレンスさんの声が、揺れる。
「腐敗と破滅の界層の、給仕、でしょうね」
扇子を閉じ、杯を指す。「この杯は、持ち主が望めば——いえ、望まずとも、折にふれて酒を注いでまいります」
「中を、空にいたしますわ。祝いの席には、程遠い酒ですもの」
杯を手に取る。こういう呪物にありがちな、もうひとつの仕掛けを見せておこう。
杯を傾ける。琥珀の縁が、卓布へ落ちかけた——その刹那。
杯の下、酒と卓の間に、黒い口が開いた。
裂けめだ。虚空が覗き、重力が捻れる。
酒は、卓布を汚す前に吸い込まれていく。糸を引いて、闇の底へ消えた。
そして——声。
異界の言葉が、空気を介さず、意識へ直に流れ込む。
「許さぬ……我が酌を、無下にするとは……」
甲高い金属の擦れが、両耳の奥で鳴りやまない。脳を細い針で探られる不快が走り、同時に、見えない手が頭を左右から締めにかかる。
読み通りすぎて、拍子抜けした。召喚術の呪物は、たいていケチだ。
今回のように与えてくる型は、むしろ稀だ。そして、与えたものを意にそぐわぬ用途で使えば、激昂する。
……狭量なこと。いえ、呪いに寛容を求めるのが、そもそも筋違いか。
エレインさんが、耳を塞いでいる。ローレンスさんも頭を振り、鳴りを追い払おうとしていた。
裂けめが閉じる。圧が退く。
残ったのは、空になった杯だけ。
「……消えた」ローレンスさんが、安堵を吐き出す。
「命に背いた罰ですわ」
静かに告げる。「この杯は、酒を飲む以外の使い道を、許しません」
杯を卓へ戻す。
「捨てようとすれば、怒り、罰を下します」
エレインさんの顔から、色が抜けた。ローレンスさんが、拳を握る。
「つまり、飲む以外に、道は……」
「ございません」
「注がれたら飲むか、不快な説教を賜るか」
沈黙が、重く落ちる。
杯を裏返し、底を見せる。
「底の銘を、ご覧くださいまし。狭間より注がれし渇望、飲む者は深淵に沈む——古き言葉で刻まれた、警告文ですわ」
エレインさんが、小さく呻いた。
「これを……息子が……」
扇子を閉じ、その尾で卓の縁をなぞる。
「注がれるのは、異界の酒。この世では飲めぬ銘酒でしょう。しかも、無償で」
杯を、また卓へ。
「ただ、代償として、身があちらの色に染まっていく。捨てるにも、あの叱責がついて回りますの」
「それで、どうすれば」ローレンスさんが、前へ出た。
「治しようは、二つございますわ」
背を伸ばし、扇子を閉じる。
「ひとつ。高位の神官による、完全な治癒。顔色まで、すべて元に戻ります。ただし——教会がひとつ建つほどの、お布施が要りますわ」
ローレンスさんの呼吸が、止まる。
「これだけの祈りを唱えられる神官も、限られております。供物も特殊で……すぐに取りかかれるかは、心許のうございますわね」
視線を、窓の外へ流す。
「もうひとつ。こちらは、即刻取りかかれます。高度な解呪を能くする者が、目の前におりますの」
扇子で、自分を指す。
二人の目が、わずかに開いた。
「ただし、呪いを断つのみ。弱った精神まで、癒すことはできません」
扇子で口元を覆う。
「元に戻るには、時と……ご本人の意志が、要りますわ」
「どのくらい……?」エレインさんの声が、途切れかける。
「早くて、数月。ときには、数年」
エレインさんから、血の気が引いた。
沈黙が、長く伸びる。
二人を、まっすぐ見る。
「幸い、まだ、すべては染まっておりません」
視線を、少年の部屋の方へ。
「わたくしの術で糸を断てば……お体は、時をかけて戻っていかれますわ」
扇子を開き、ゆっくり扇ぐ。
「ご家族の支えが、あれば」
ローレンスさんとエレインさんが、顔を見合わせる。目で、何かを確かめ合っている。
やがて、ローレンスさんが口を開いた。
「……費えは」
「8000ゴールド。呪物の引き取りと、わたくしの出張の分も、込みですわ」
二人が、また目を交わす。
エレインさんの声が、歪む。
「息子は……本当に、治りますか」
淑女の微笑みを、形づくる。
「悪夢、学びの遅れ、面変わり——しばらくは、続きますわ。手練れの冒険者でも、数年は苦しむ深さです」
「けれど」
二人を、正面から見据える。
「ご家族が支えれば、必ず、戻られます」
ローレンスさんが、深く息を吐いた。
「……分かりました。お願いします。今すぐ、治療を」
妻の手を、握る。
「承知いたしましたわ」
立ち上がり、扇子を取る。
「では、寝室へ、参りましょう」
治療
寝室の扉の前。
振り返り、二人へ告げる。
「お立ち会いくださって、構いませんわ。むしろ、ご家族の想いが……祈りの力になりますの」
柔らかな面を作る。
二人が、小さく頷いた。
扉を開ける。
部屋へ入り、二人が続き、執事も静かに入室する。
「エレイン様は、あちらの椅子へ。ローレンス様は、奥様のお傍に」
壁際の椅子を指す。
二人が従い、執事は扉の近くに控え、従者は反対の壁際へ退がった。
ベッドの脇へ腰を下ろす。
両手を、少年の額へ。
息をしていない者に触れたような冷たさが、手のひらに移ってくる。生気が、ひどく薄い。
夫妻と執事の視線が、背に集まる。
……奇跡を、こしらえねば。
瞼を、下ろす。
深く吸い、静かに吐く。意識が、凪いでいく。
演出を、始める。
発光の小術。造作もないが、神々しさだけは立つ。
淡い金の光が、身のまわりを包んだ。
背後で、エレインさんの息が詰まる。
天響語で、それらしい祈祷を唱えはじめる。歌うように、正しい律で、正しい高さで。
部屋の空気が、わずかに震えた。音節が空間へ染み、聖なるものが満ちていくように——見えるだろう。
周囲には、神への祈りにしか聞こえない。
そのまま、意識だけを、解呪の術式へ集める。祈祷の律とは別に、もうひとつの構造を組み上げていく。
「放さない……深淵が、待つ……我らの、餌食……」
囁き。幾つもの声が、重なっている。
額に置いた手から、熱が伝う。
組み上げが、成った。祈りの言葉を、静かに閉じる。
ここからは、隠さない。
縛めを解く術は——魅了を、呪縛を、変身を解く白い術は——後ろ暗さを、ひとつも持たない。心を縛る側に立つわたくしが、唯一、縛られた心を解く側へ回れる術。
だから、囁かない。一語ずつ刻んで、空間へ打ち込む。
「我、断つ。ひとつ露わに、ひとつ露わに、断ちて在れ」
覆いを断ち、露わにする。文字や呪縛の覆いを断つ核が、そのまま、心の覆いを断つ側へ音階を上げていく。末尾の一句が、断ったものを二度と戻らぬ場所へ縫い留める。神託の覆らなさが、そのまま解呪の確かさに化ける。
金の光が、両手から溢れた。
光が、少年を包む。温かく、優しく、それでいて、芯に確かな力を持って。
紫の糸が、軋む。
抗っている。離したくない、と。
演技を要さぬこの一点でだけ、力の全部を解呪へ注げる。今なら、断てる。
光が、丈を増す。
糸が、音もなく切れた。
異界の腕が退き、裂けめが閉じる。囁きが、遠ざかっていく。
——成った。
ゆっくりと、手を離す。発光も、解く。
「……成功、しましたわ」
立ち上がろうとして、足元が傾いだ。視界が、水面のように揺れる。
従者が無言で寄り、肩を支える。
「……ありがとう」
この術は、疲れる。
退席
少年の肌へ、血の色が戻っていく。
紫の血管が、退く。
影が、蝋燭の側へ伸び直す。翳りが失せ、炎が丈を取り戻した。
呼吸が、穏やかな拍を刻みはじめる。
瞼が、動いた。ゆっくりと、持ち上がる。
「……ここは」
声は弱いが、人の言葉だ。衰えてはいても、自分の意識で、自分の考えを、話している。
面を、和らげる。
「お目覚めですわね」
エレインさんが、椅子から立った。
「息子……!」
ベッドへ駆け寄り、抱きつく。涙が、止まらない。
「良かった……本当に……」
ローレンスさんも、遅れてベッドへ。
「無事で……」
少年が、戸惑いながら両親を見る。
「……父さん、母さん? 何が、あったんだ」
席を、外そう。
執事へ、目で合図を送る。静かに扉が開かれる。
「あなたは、ご主人のお傍に」
囁くような、けれど拒みを許さぬ高さで。執事が、はっとこちらを見た。
彼が口を開くより先に、人差し指を、優雅に唇へ添える。
「外の者が長居しては、興を削ぎますわ。……この先は、わたくしの領分ではございません。あなたに、お願いしても?」
「ミセリコルデ様。お心遣い、痛み入ります」
執事が、震える声で深く頭を垂れた。その目には、こちらへの、疑いのない信が宿っている。
……ちょろい。けれど、これでいい。
「少し、席を外しますわ。応接室で、休ませていただけますか」
「はっ、すぐに。扉は開けさせておきます。ミセリコルデ様に、神のご加護を」
満足の頷きをひとつ返し、背後の従者へ目を送る。
執事に導かせず、わたくしの側から、家族の聖域を離れる。
踵を返し、一歩、また一歩と、部屋を出た。
背で扉が閉じる。その音は、舞台の幕が下りる音に、よく似ていた。
報酬
応接室で、ローレンスさんが革袋を差し出す。
「8000ゴールドです」
金属の塊が、手のひらの底へ沈む。数えるまでもない目方で。
袋の中で、硬貨が身じろぎした。
「本当に、ありがとうございました」
ローレンスさんが、深く頭を下げる。
「お役に立てて、光栄ですわ」
「息子は……もう、すっかり?」
首を、横に振る。
「呪いは断ちました。顔色まで戻ったのは、望外ですわ。お二人の想いが、届いたのでしょう。ですが——」
扇子で口元を覆い、二人を見つめる。
「未来を奪われたわけでは、ございません。削られた分より、大きく育てばよいのです」
微笑みの形を作る。完璧な、演技。
エレインさんが、涙を拭った。
「……ありがとうございます」
立ち上がる。
「この呪物は、王立芸術古物院の地下保管庫へ、永久に封じますわ。二度と、誰の手も触れぬように」
ローレンスさんが、深く腰を折る。
「お願いします」
優雅に、カーテシーを。
「それでは、失礼いたしますわ」
帰路
馬車の中。
窓の外を、街の灯が、ゆっくり流れていく。
演技の要らない箱の中で、面が、無表情へ戻っていった。
頬の筋が、こわばっている。長く微笑みを保った日の、いつもの張りだ。
……商人は、人を見る目を持つ。演技を見抜かれかけて、幾度か肝を冷やした。
雲の切れ間から、月が覗く。
膝の上の革袋。8000ゴールド。
重い。
報告書
王立芸術古物院、5階の個室。
元は物置だったこの狭い部屋が、いまのわたくしの仕事場だ。
卓に、羊皮紙と墨壺。蝋燭の炎が、ひとつ、揺れている。
椅子に掛け、報告書を書きはじめる。羽根ペンが、紙の上を滑っていった。
依頼主、ローレンス・アルバート。対象物品、杯——召喚術呪物。
ペンを止め、墨が乾くのを待つ。
視線を、報酬の袋へ。卓の隅の、目を逸らしても質量だけが残る重み。
内で、数を反芻する。8000ゴールド。
新米の冒険者なら、半年ぶんの額だ。
ダンジョンの入り口で震えながら、モンスターと命のやり取りをし、罠に怯え、それでようやく手にする。
年季の入った冒険者でも、より深い穴に幾度も潜らねば、届かない。廃墟を探り、魔物を倒し、宝箱を開け、命を賭けて。
それが、いまは。一日で、稼げてしまう。
袋から、手を離す。卓へ、置く。鈍い重みだけが、指に残った。
視線を、逸らす。
ペンを取り、追記する。
備考——対象者の快復には、長期の療養を要する。
ペンを置く。
あの子には、数年の療養が要る。
深く、息を吐いた。
また、革袋へ目が戻る。8000ゴールド。
「彼は戦っておられます。その意志を、信じて」
——などと、それらしいことも言った。
彼の意識が乗っ取られきっていたとしても、夫妻の祈りが弱かったとしても、わたくしがいれば片はついた。あの程度で、しくじる道理はない。
瞼を、下ろす。
エレインさんの泣き顔。ローレンスさんの、震える声。
あの人たちには、希望が要った。今なら救える。目の前の小娘に、金さえ握らせれば。
療養に数年かかろうと、快復の目はある。けれど、いま金を出さねば——という一点へ、そっと背を押した。
だから、演じた。
わたくしを、信じる必要はない。あの二人は、愛する自慢の息子を、信じたのだ。
息子の見込みに、8000ゴールドを賭けたのだ。
立ち上がり、長椅子へ向かう。窓から、月の光が差し込んでいた。
横になり、天井を見上げる。
皮肉なもの。
演技で考えを誘い、縛めを解いた。
他者の心を支配する者が、呪いを祓う。
口の端が、ひとりでに上がってしまう。止めようとして、止められなかった。自嘲の形に、勝手に笑まれる。
視界を、閉ざす。
遠く、鐘楼の音。ひとつ、ふたつ、みっつ。
深夜の三時。
静寂が部屋を満たし、月の光だけが、わたくしを照らしている。
闇が視界を覆い、夢さえ、見せてはくれない。
ただ、虚無だけが、そこにあった。