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虚無界の渇望の杯

虚無界の渇望の杯のイラスト

問診

馬車が石畳の上を滑る。車輪が石の継ぎ目を踏むたび、微かな振動が座席に伝わってくる。

窓の外に広がる商人街の光景。煉瓦造りの邸宅が整然と並び、磨き上げられた真鍮の門扉が朝日を弾いている。
空気には焼き立てのパンの香ばしさと、遠くの鍛冶場から漂う焦げた鉄の匂いが混じり合っていた。


馬車が減速する。蹄鉄が石畳を叩く音が、ゆっくりと間隔を広げていく。

「到着です」
御者の声。

「ありがとう」
私は首を縦に振り、従者に目配せする。
従者が先に降り、私に手を差し出す。私はその手を取り、馬車を降りる。
ヒールが石畳に触れ、カツン、と澄んだ音が響いた。


目の前に聳える三階建ての邸宅。白壁に金色の装飾が施された窓枠、玄関扉には家紋が彫り込まれている。
依頼人は代々続く裕福な商人だそうだ。

玄関扉が開く。執事が姿を現し、深く一礼する。
「お待ちしておりました。王立芸術古物院の……」

「ごきげんよう」
唇の端を僅かに上げ、目元を柔らかくする。計算された角度、計算された温度。

「王立芸術古物院、呪物特別顧問のミセリコルデと申しますわ」
声は、呪文のように空気に溶け込み、相手の警戒心を静かに解いていく。
魔力は不要。所作と言葉遣いだけで信頼を得る。

執事の表情が、目に見えて柔らかくなった。
「ようこそ、ミセリコルデ様。当主がお待ちです。どうぞこちらへ」

警戒はされていない。仕事を楽に進められそう。
私は顎を引き、従者を伴って邸宅に入る。


玄関ホールは広く、天井が高い。
大理石の床が足音を反響させ、壁には絵画が並んでいる。おそらく先代、先々代の肖像だろう。
階段の手すりは磨き込まれた樫材、絨毯は深紅で縁に金糸の刺繍。
調度品の一つ一つが、この家の財力を物語っている。

全てが高品質、かつ丁寧に管理されている。当主の性格が伺える。

執事が応接室の扉を開く。
「当主と、奥方様です」


応接室に入ると、二人の人影が立ち上がった。

男性は四十代半ば、がっしりとした体格、髪に僅かな白いものが混じっている。
商人らしい、落ち着いた物腰。高級な衣服を身にまといながらも、装飾品はない。成金臭さのない商人。
だが、目の下には隈があり、疲労が滲んでいた。

女性も、同年代に見える。淡い青のドレス、髪を簡易的にまとめているだけだ。
目が赤い。泣いていたのだろう。
おそらく、着替えやメイクをできる精神的な余裕がもうないのだろう。


「お初にお目にかかりますわ」
スカートの裾を軽くつまみ、膝を折る。背筋は真っ直ぐに、顔は僅かに傾けて。
「ミセリコルデと申します。この度は……大変な状況とお聞きしております」

男性が長く息を吐き出した。
「来ていただいてありがとうございます。私はローレンス。こちらは妻のエレインです」

「ローレンス様、エレイン様。お話を伺えて光栄ですわ」
私は微笑みの形を作り、椅子を勧められるまま座る。
従者は私の後方、三歩離れた位置に立つ。いつもの距離。


エレインさんが、音が揺らぐ声で口を開いた。
「息子が……息子が、おかしいんです」

「どのように、おかしいのでしょうか?」
私は扇子を閉じ、膝の上に置く。表情は真剣に、でも威圧的にならないように。相手に安心感を与え、話しやすい空気を作る。
小さな情報でもいい、遠慮せずに話してほしい。

「三日前から……様子が変わりました。肌が青白くなり、部屋の明かりが暗く見える、と」

「明かりが暗く?」

「ええ。蝋燭を何本灯しても、部屋が暗い、と言うんです。それに……囁き声が聞こえる、と。誰もいないのに……」

「それは……大変でしたわね」
優しい声。共感を込めた表情。でも、心の中では冷静に情報を整理している。

光の減衰。呪いによる知覚の歪み、あるいは光源へ干渉するもの。
囁き声は、精神干渉、音声出力魔術、体の一部を転送……やり方はいくつもある。
肌が色白くなる、ゴーストによるものだろう。
死霊術と幻術、現状あり得るのはこの辺りか。

ローレンスさんが続ける。
「昨夜は……最悪でした。息子が、私たちに襲いかかろうとした」

「まあ」
私は扇子で口元を隠す。驚きの表情を作る。実際には驚いていない。
幻聴があり、かつ呪いが進行している状態。幻覚による錯乱はよくある話。

「教会の神官をお呼びになりましたか?」

エレインさんが小さく肯定の仕草をする。
「ええ。でも……悪霊憑きではない、と。悪魔祓いの儀式も効果がありませんでした」

でしょうね。それで解決するなら、私が出向く必要はない。

「承知しました」
私は立ち上がる。

「まず、息子さんにお会いしてもよろしいかしら? 状態を拝見させていただきたいのですが」

ローレンスさんとエレインさんが顔を見合わせる。そして、目で了解を示した。
「……お願いします」


寝室の扉の前で、ローレンスさんが立ち止まる。
「この中に……」

彼の声に揺れが走っている。

私は肯定を示す動作をし、扉に手をかける。

ゆっくりと、押し開く。


――瞬間、空気が変わった。

部屋の中は、外より明らかに暗い。
窓は開いているのに、光が部屋に入ることを拒んでいるかのよう。蝋燭が三本、ベッドサイドに灯されているが、その炎は小さく、頼りない。

ベッドに、少年が横たわっている。
十代後半だろうか。顔は青白く、まるで大理石の彫像のよう。肌の下に、紫色の血管が透けて見える。
呼吸は浅く、規則的だが、どこか生気がない。

影が不自然だった。
少年の影が、蝋燭の炎と反対方向に伸びている。まるで、蝋燭よりも強い光源に照らされているかのように見える。

呪いが彼を中心に展開されている。
……これは、かなり蝕まれている。もうすぐ、人間ではなくなる。

私は一歩、部屋に踏み込む。
床板が、微かに軋んだ。


「少し、お時間をくださいまし」
私は振り返り、ローレンスさんとエレインさんに告げる。
「診断を行いますので。少しの間、お待ちいただけますか?」

二人は無言で承諾する。その顔は部屋よりも暗かった。


肺から空気を絞り出す。
8秒かけて、完全に吐き切る。
そして、8秒かけて吸う。
肺が満たされていく。

私は少年から一歩下がり、床に座る。手をゆっくりと合わせて、天界の言葉でそれらしい祈りを捧げ続ける。この動きに意味はない。
目的は別、彼の発するエネルギーを観測するため。感情、精神状態に健康状態……全てを読み取る能力。
これを神託を受け取った……と説明する。思考を読む魔術を堂々と、保護者の前では使えない。


時間の感覚が薄れる。呼吸の音だけが、規則正しく繰り返される。


――視える。
紫色の糸が、彼の魂に巻きついている。まるで囚人を捕縛するように、複雑に絡み合い、食い込んでいる。
糸の先は、次元の裂け目へと続いている。裂け目の向こうには深淵、暗闇。
無数の腕が蠢き、囁き声が反響している。

「もっと……近くへ……」
異界の言語。深淵の底から這い上がってくる、歪んだ音。
知らない言語であるはずなのに、内容を理解できる。生物の本能に語り掛けてきている。

そして縛られた少年の魂から、2つの感情が漏れ出ている。

――恐怖。
深く、冷たい恐怖が、彼の魂に絡みついている。まるで凍土から掘り出された古代の遺物のような、生命を拒む冷気が彼を包んでいる。

――渇望。
それと同時に、抑えきれない欲求が脈打っている。何かを求めている。何かを飲まなければならない、という強迫観念。

私は少年の目を見つめる。
瞼は閉じられているが、その奥に意識がある。薄れかけているが、まだ残っている。
集中する。
思考が波のように流れ込んでくる。

(……飲みたい……でも、怖い……)
(あの声が……また……)
(もっと……深淵が……)

異界からの囁きに縛られているものの、まだ抵抗している。
……原因さえ解決できれば、まだ助けられる。


診断は完了した。
次は、家族に結果を告げる番だ。

ゆっくりと合わせていた手を解き、立ち上がる。
ローレンスさんとエレインさんが、私を見る。

「……どうでしたか?」
ローレンスさんの声に揺れが走っている。

柔らかな表情を作る。優雅に、でも真剣さを込めて。
「応接室で、お話ししましょう」

診断結果

応接室に戻る。
ローレンスさんとエレインさんが、私の対面に座る。二人の表情には、期待と不安が入り混じっていた。
私は扇子を膝の上に置き、背筋を伸ばす。

「結論から申し上げますわ」
驚かせないように、優しい声で。でも、重さを持たせて。
「息子さんは、悪霊憑きではございません」

エレインさんの呼吸が途切れる。

「これは……召喚術の呪いです」

「召喚術……?」
ローレンスさんが眉をひそめる。

「ええ。悪しき者が転移の扉を開いて、彼を手招いている……と申し上げるべきでしょうか」
私は扇子を取り出し、ゆっくりと開く。

「次元の裂け目を通じて、語りかけています。そして、魂に手を伸ばしてきています」

「異界の……」
エレインさんの顔色が、さらに青ざめる。

「囁き声は、幻聴ではございません。実際に話しかけているのです」
私は扇子を閉じ、膝の上で軽く叩く。
「異界の者が息子さんに、なんらかの儀式をさせようとしています。おそらく、自らの魂を捧げるようなものを強要しています」


ローレンスさんが、前のめりになる。
「それで、どうすれば……」

「まず、原因となっている物品を探す必要がございますわ」
私は扇子で口元を隠す。

「彼が日常的に使用している物品……息子さんの部屋を、調べさせていただいてもよろしいかしら?」

2人は顔を見合わせ、そして同意を示す動作をした。
「……どうぞ」

犯人捜し

再び2階へ。今度は、寝室ではなく、書斎兼寝室の隣にある息子の私室へと向かう。

ローレンスさんが扉を開ける。

「どうぞ……」
彼とエレインさんは、扉付近で待機する。私と従者が部屋に入る。


部屋は整頓されていた。
書斎机、本棚、ベッド、衣装箪笥。本棚は商業や地理のものが多く、娯楽小説も数冊見える。書斎机には使いかけのインクボトルに予備のボトルもいくつかある。
よく筆記をする人物、勤勉とみていいだろう。
自慢の息子に命を狙われた……夫人があれほど取り乱す気持ちも分かる。

窓からは街の景色が見え、カーテンが僅かに揺れている。
だが、空気が……重い。
まるで、誰かの吐息が染み込んでいるかのよう。肌に纏わりつくような、不快な粘性がある。
明らかにある。呪物が。探知魔法がなくても分かる。
魔力が空気を圧縮している。

私は瞼を下ろし、探知魔法を展開する。周囲の空間を、意識で撫でていく。
空気の流れ、温度の変化、感情の残滓。それらが、私の感覚に触れてくる。

――ある。
書斎机の引き出し。そこに、強烈な感情の残滓が集中している。
恐怖、渇望、後悔、渦を巻いている。まるで、小さな嵐が引き出しの中に封じ込められているかのよう。

「……ございますわ」

扉付近のローレンスさんが、声を上げる。
「何か見つかりましたか?」

「ええ。そこに……隠されていますわね」

私は書斎机の引き出しに手をかけ、ゆっくりと引く。
木材が軋む音。古い引き出しが、抵抗するように鳴る。

そして――
黄金の杯。

表面に、深紅の染みが浮かんでいる。生物の血ではない……召喚術由来なら、異界の液体だろうか。
歪んだ銘文が刻まれている。文字は不規則に歪み、見る角度によって蠢くように見える。
表面には微細な亀裂があり、そこから虚空の闇が覗いている。まるで、杯の内側に別の世界が広がっているかのよう。

皮膚が粟立った。これだ。これに違いない。
検知魔法がなくても分かる、明らかに邪悪な魔力があふれ出ている。

「……どうですか?」
ローレンスさんの声が、遠くから聞こえる。

「はい。これが……」


――その瞬間。
背後で、何かが動く気配。

本能が、危険を告げている。

私は振り向く。扇子を握る手に、力が入る。

少年が、立っていた。

寝室の扉は閉じていたはずなのに、彼はそこにいる。
足音もなく、気配もなく。まるで影が実体化したかのように。おそらく、呪物が寝室から転移させたんだろう。
非接触でありながら、呪物の影響下にある。
既に呪いが身体の一部になってしまっている、そう考えるしかない。

息子の瞳孔が開ききっている。さらに、焦点があっていない。瞼を開けているだけだ。
視覚情報を受け取ろうとしていない。
……操られている。彼は糸で操られている人形だ。

蝋燭の炎が小さくなる。窓からの光が歪み、部屋全体が薄暗くなっていく。
まるで、彼を中心に闇が広がっているかのよう。

地鳴りに似た低い振動音。いや、もっと深い。大地の底から響いてくるような、不吉な音。
空間に裂け目が開いていた。紫色の光が漏れ出す。

深紅の腕が伸びてくる。
指が五本、関節がある。人間の腕に似ているが、どこか違う。
皮膚の表面に、紫色の紋様が浮かび、脈打つように光っている。

腕が、息子の肩に触れる。

その瞬間、彼の口が開いた。
「生贄に……渇きを満たせ……」

声ではない。音だ。
複数の声が重なり合い、エコーがかかっている。人間の喉から出る音ではない。

扉の向こうで、エレインさんが悲鳴を上げかける。ローレンスさんが夫人を引き寄せ、後退する足音が聞こえた。


彼が、書斎机に手を伸ばす。ペーパーナイフ。
拾い上げると、盗賊がダガーを構えるように持つ。急所を刺突することに特化した構え。
豪商の子供にしては、手馴れた、かつ実践的な構え。

動きは緩慢だが、身体は動いている。
私に向けて、踏み出す。

(……間に合う)


私は詠唱を開始する。
肉体を動かす意志と肉体を分離する魔術。麻痺状態にする魔法。
……ただし、対人に用いるのはご法度の呪文。

隠蔽のために、それらしい天使の言葉を唱える。
音節が空気を震わせる。魔力が、私の喉から放たれ、空間に広がっていく。

「悪しき闇、栄えることなし。人の子の心に曇りなし。快晴、陽光の元、歩き続ける子らに我々より祝福を授けん」
それらしい言葉で神官の魔術を模倣する。
実体は、意志の弱さにつけこむ魔術。でも、こうすれば邪気を払うような、崇高な呪文に見えるだろう。


息子の身体が、硬直した。
ナイフを握ったまま、ゴーレムのように動きを止める。
筋肉が強制的に緊張し、関節が固定される。呼吸さえも、規則的に制限される。

異界の腕が消える。
次元の裂け目が、音もなく閉じる。紫色の光が薄れ、周囲の光が元に戻っていく。
蝋燭の炎が大きくなり、窓からの光が正常に戻る。

私は、息を長く吐き出す。肺が静かに収縮し、肩を落とす。
呪いの主の諦めが早くて助かった。
「もう、時間がございませんわね」

ローレンスさんが、絞り出すような声で叫ぶ。
「息子……!」

私は、ローレンスさんとエレインさんに向き直る。

二人の肩が波打っていた。
エレインさんはまるでゴーストに触れられたような顔色で、ローレンスさんに支えられ辛うじて立っている状態。

玄関口で迎えてくれた執事も顔の筋肉がピクピクと動いている。
彼も思うところがあるのだろう。目を背けたいが、自分が逃げるわけにはいかない。
責任に圧迫された顔。

「今は小康状態です。寝室へお願いできますか?」

執事は静かに承諾し、息子を運んでいく。

私は、できるだけ落ち着いた声で告げる。
「今から、この呪物、原因の詳細な鑑定を行います。少々お時間をくださいまし」

ローレンスさんが、音が揺らぐ声で答える。
「……お願いします」


私は、引き出しの中の杯を見つめる。
溜息が、音もなく漏れる。

詳細鑑定

これは、ただの呪物ではない。
冒険者が人生で一つ出会えるかどうかも怪しい、貴重な……いや、圧倒的なおぞましさを持つもの。

私は手袋を確認してから、杯を引き出しから取り出す。
金属の表面に触れる。手袋越しにも感じる、凍てついた感触。生命を拒む冷たさが、指先から腕へと這い上がってくる。
そして、震えている。規則的なリズムで、杯が震えている。まるで、召喚獣の鼓動のように。

私は杯を両手で持ち、裏返す。底面に刻まれた銘文が、暗い光の中でも視える。
掘り込まれた文字の縁がかすかに光っている。光が脈打ち、文字が蠢いているように見える。

目に魔力を、知恵の力を集中させる。
あらゆる言語を理解できるようになる魔術。知恵の神の祝福。

銘文の意味が、祝福というレンズを通して理解できるようになる。
「狭間より注がれし渇望 飲む者は深淵に沈む……」
声が、部屋に響く。この文字を刻んだ者は、何を思ったのだろう。
警告文だ。

刻んだ者は誰かに警告しようとしていた。
使うな。
飲むな。
深淵に沈むぞ、と。

でも、遅すぎた。杯に力が宿り、呪いは既に発動している。
おそらく、解除しようがなかった。
警告は、何百年も前に刻まれ、その言葉も廃れた。

私は扇子を取り出し、口元を隠す。
呼吸が、波のように穏やかになっていく。
私が警告を彫り込んだ人物の思いを継がなければ。
これを、封印せねば。


鑑定を続けよう、その呪いを見極めなければ。
肺から空気を絞り出す。そして、ゆっくりと吸う。意識を、杯に向ける。


――視える。

杯の周囲に、紫色のオーラが渦巻いている。

召喚術。しかも、次元の狭間を行き来する高等魔術。
繫がった先は、あの手と発言から察するに破滅と腐敗の次元。大ハズレ。

杯自体は召喚術のみ。
おそらく、ここに注がれた液体を飲むことで、身体の内側からあちらの次元に浸食される。
最終的には、あちらの住民、破滅と腐敗のクリーチャーに成り果てる……。

彼はまだ連れ去られてはいない。異界の手も、彼の肩を叩くことしかできない。
……まだ、間に合う。

私は立ち上がり、杯を持つ。

告知と選択

応接室に戻る。
ローレンスさんとエレインさんが、私の対面に座った。2人の顔には、疲労と不安が刻まれていた。

私は優雅に口角を上げる。杯を、机の上に置く。
カツン、と小さな音。


――その瞬間、空間が歪んだ。

杯の上に、次元の裂け目が開く。紫色の光が漏れ出し、深紅の手が伸びてくる。
指が細長く、獣のようなかぎ爪。皮膚は紫色。人のものではないのは明白だ。

手が、ヒビの入った瓶から液体を注ぐ。
琥珀色の酒が杯に満たされていく。泡立ち、甘美な香りが漂うが、その奥に腐敗した肉の匂いが混じる。
高品質なビール。鼻の鈍い人が評価すればそうなる。


エレインさんの呼吸が止まる。ローレンスさんが身を引く。

「これが、原因です」
私は扇子を開き、口元を隠す。
呪いが作動する条件までは分かっていなかったが、いいタイミングで動いてくれた。

2人が、杯を見つめる。
「……あれは?」
ローレンスさんが、音が揺らぐ声で尋ねる。

「腐敗と破滅の次元の給仕、でしょうね」
私は扇子を閉じ、杯を指す。
「この杯は、使用者が望めば……いえ、望まなくとも、定期的に酒を注いでくれます」

「中身を空にいたしますわ。祝杯には程遠いですからね」
私は杯を手に取る。もうひとつ、こういった呪物によくあるカラクリを見せよう。

杯を傾ける。
琥珀色の液体が縁から零れ落ちようとした、その瞬間。空間が裂けた。

杯の下、机と酒の間に、黒い穴が開く。
次元の裂け目。虚空の闇が覗き、重力が歪む。
酒が、机のクロスを汚す前に裂け目へ吸い込まれていく。
琥珀色の液体が糸を引き、闇の中へ消える。

そして――
声が響いた。異界の言語が、空気を通さず直接意識に流れ込んでくる。
「許さぬ……我が酌を無下にするとは……」
高音の金属音が、両耳の奥で鳴り続ける。脳髄を針で突かれるような、鋭い不快感。
同時に、圧迫感。目に見えない手が、頭を両側から締め付けている。

予想通りすぎて拍子抜けする。召喚術の呪物は基本的にケチだ。
今回のように与えてくるのは少ない。そして、その与えたものを意図しない用途で使えば激昂する。
……心が狭い。いや、呪いに寛大さを求めるのはおかしな話か。


エレインさんが、耳を塞いでいる。
ローレンスさんも、頭を振っている。耳鳴りを追い払おうとしているのだろう。

裂け目が閉じる。
圧迫感はなくなる。残ったのは空になった杯のみ。

「……消えた」
ローレンスさんが、安堵の息を吐く。

「命令に背いた罰です」
私は静かに告げる。
「この杯は、酒を飲む以外の使い方を許しません」

私は杯を机に置く。コトン、と音。
「酒を捨てようとすれば……怒り、罰を与えます」

エレインさんの顔から色が失せる。
ローレンスさんが、拳を握る。

「つまり……飲む以外に、方法は……」
ローレンスさんが、絞り出すような声で言う。

「ございません」
静かに告げる。
「注がれたら飲むか、不快な説教を聞くしかないのです」

沈黙。
重い、重い沈黙。

私は杯を裏返す。底面が露わになる。
「底面の銘文をご覧くださいまし。狭間より注がれし渇望 飲む者は深淵に沈む……古代の言葉で刻まれた警告文です」

エレインさんが、小さく呻く。
「これを……息子が……」

扇子を閉じ、扇子の先端で机の縁を撫でる。
「注がれるのは異界のお酒。この世では飲むことのできない名酒でしょう。しかも無料で飲めてしまう」

私は杯を机に置く。
「ただし、代償として身体があちらの次元に染まっていく。捨てようにも、あの叱責があります」

ローレンスさんが、前のめりになる。
「それで、どうすれば……」

「治療方法は、2つございますわ」
私は背筋を伸ばし、扇子を閉じる。

「高位の神官による完全な治療。顔色も含めて全て元通りになります。ただし……教会を新築できるほどの、お布施が必要ですわ」

ローレンスさんが、呼吸が止まる。

「これほどの祈りを唱えられる神官も限られます。祈りに使う供物も特殊で……すぐに取り掛かれるかは、厳しいでしょう」
私は視線を窓の外に向ける。

「別案……即時取り掛かれます。高度な解呪をできる人物が、目の前におりますわ」
扇子で自分を指す。

2人の目が、僅かに見開かれる。

「ただし、呪いを取り除くだけ。既に衰弱した精神の治療まではできません」
私は扇子で口元を隠す。
「元通りになるには、時間と……本人の意志が不可欠です」

「どのくらい……?」
エレインさんが、音が途切れそうな声で尋ねる。

「早くて数か月。場合によっては、数年」

エレインさんの血の気が引く。


沈黙。
長い、長い沈黙。


私は、2人を見つめる。
「幸い、完全に侵食されてはいません」

視線を、息子の部屋の方向に向ける。
「わたくしの魔術で呪いを断ち切れば……お身体は、時間をかけて回復なさるでしょう」

扇子を開き、ゆっくりと扇ぐ。
「ご家族の支えがあれば、きっと」

ローレンスさんとエレインさんが、顔を見合わせる。
目で、何かを確認し合っている。

やがて、ローレンスさんが口を開いた。
「……費用は?」

「8,000ゴールド。呪物の引き取り料、わたくしの出張料込みです」

2人は、再び顔を見合わせる。
エレインさんが、音節が歪む声で尋ねる。
「息子は……本当に、治りますか?」

私は、淑女の微笑みを作る。
「悪夢、学力低下、容貌の悪化……しばらく続きます。手練れの冒険者でも、おそらく数年は苦しむ侵食具合です」

「でも」
私は、2人を真っ直ぐ見つめる。
「ご家族の支えがあれば、必ず回復なさいます」


ローレンスさんが、深く息を吐き出す。
「……分かりました。お願いします。今すぐ、治療を」
彼は、妻の手を握る。

「承知いたしました」
立ち上がる。扇子を手に取る。
「では、寝室へ参りましょう」

治療

寝室の扉の前。


私は振り返り、ローレンスさんとエレインさんに告げる。
「お立会いいただいても構いませんわ。むしろ、ご家族の想いが……お祈りの力になります」
柔らかな表情を作る。

二人は、小さく頷く。


扉を開ける。

私は部屋に入る。
ローレンスさんとエレインさんが続く。執事も、静かに入室する。

「エレイン様は、あちらの椅子へ。ローレンス様は、奥様のお傍に」
私は壁際の椅子を指す。

2人は指示に従う。
エレインさんが椅子に座り、ローレンスさんがその隣に立つ。

執事は扉の近くで控えている。
私の従者は反対側の壁際に移動する。

私は、ベッドサイドに座る。
両手を、息子の額に置く。
アンデッドの体温のような冷たさ。生気が薄れている。

夫妻と執事の視線を感じる。
……奇跡を、作らないと。


瞼を下ろす。

深呼吸。肺が満たされ、そして空になる。
意識が、静まっていく。

演出を始める。
発光の魔術。簡単ながら、神々しさが出る。
淡い金色の光が、私の周囲を包む。

背後で、エレインさんの息が詰まる音が聞こえた。

天界の言葉で、それらしい祈祷文を唱え始める。
「導こう。光の方向へ」
優しくも厳密な文法のある祈祷文。歌うように、正しいリズム、正しい音階で唱えていく。
部屋の空気が、僅かに震える。音節が空間に染み込み、聖なる力が満ちていく。

周囲には神への祈りに聞こえるだろう。

私は詠唱を続ける。
「陽光の照らす道。それを阻む闇を焼き尽くせ」

意識を呪術解除の呪文に集中させていく。

「放さない……深淵が待つ……我らの餌食……」
囁き声。複数の声が重なり合っている。

祈祷文を続ける。それとは別に呪文を組み上げる。
額に置いた手から、熱が伝わっていく。


「……解き放ちたまえ」
呪文の準備ができた。祈りの言葉を終わらせる。

金色の光が、両手から溢れ出す。
光が息子を包み込む。光は温かく、優しく、でも確かな力を持っている。

紫色の糸がきしむ。
抵抗している。離したくない、と。

演技をしなければより集中できる。今なら全力で呪いを断ち切れる。
光が、さらに強くなる。

糸が、音もなく断ち切れた。
異界の腕が消える。裂け目が閉じる。
囁き声が遠ざかる。

――成功した。
私は、ゆっくりと手を離す。
 光の呪文も解除する。

「……成功、しました」
立ち上がろうとして、よろける。視界が揺れる。

従者が無言で駆け寄り、肩を支える。

「……ありがとう」


この呪文は疲れる。

退席

息子の肌色が、健康的な色に戻っていく。
紫色の血管が消える。

影が正常な方向に伸びる。
光減衰が消失。蝋燭の炎が大きくなる。

呼吸が、穏やかになる。



息子の瞼が動く。
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。

「……ここは?」
声は弱いが、人間語。衰弱しているが、自分の意識、自分の考えで話している。

私は、表情を和らげる。
「お目覚めですわね」

エレインさんが、椅子から立ち上がる。
「息子……!」
ベッドに駆け寄り、抱きつく。涙が止まらない。
「良かった……良かった……!」

ローレンスさんも、遅れてベッドへ向かう。
「無事で……本当に……」

息子、困惑しながらも両親を見る。
「……父さん、母さん? 何があったんだ?」


私は、席を外そう。
執事に目配せをする。静かに扉を開けてくれる。

「あなたは、そのまま主人の傍に」
囁くような、けれど拒絶を許さないトーン。執事がハッとしたようにこちらを見る。
私は彼が口を開く前に、人差し指を優雅に唇へ当てた。

「外部の者が長居しては、よろしくないですわ。……この先は、わたくしにはできない業務です。あなたに、お願いしてもいいかしら?」

「ミセリコルデ様。お心遣い、痛み入ります」
執事は深く、震えるような声で一礼した。その瞳には、私への全幅の信頼と感謝が宿っている。

……チョロい。でも、これでいい。

「少し席を外しますわ。応接室で休ませていただけますか?」

「はっ、すぐに。応接室の扉は開けておかせます。ミセリコルデ様に、神のご加護を」

私は満足げに一度だけ頷くと、背後の従者に目配せをした。
執事に先導させるのではなく、私から家族の聖域から離れる。

踵を返し、一歩、また一歩と部屋を出る。
背後で閉まる扉の音が、舞台の幕が下りる音のように聞こえた。

報酬

応接室で、ローレンスさんが革袋を差し出す。
「8,000ゴールドです」

ずっしりとした重さ。
中で硬貨が、カチャリと音を立てる。

「本当に、ありがとうございました」
ローレンスさんが、深く頭を下げる。

「お役に立てて、光栄ですわ」

「息子は……完全に?」

私は、首を横に振る。
「呪いは断ち切れました。顔色も改善したので、想定より回復できました。お二人の想いが届いたのでしょう。ですが……」
扇子で口元を隠しながら、二人を見つめる。
「未来を奪われたわけではありません。衰弱した分以上に成長すればいいのです」
微笑みの形を作る。完璧な演技。

エレインさんが、涙を拭う。
「……ありがとうございます」


私は、立ち上がる。
「この呪物は、王立芸術古物院の地下保管庫へ永久封印いたします。二度と誰も触れることがないように」

ローレンスさんが、深く頭を下げる。
「お願いします」

私は、優雅にカーテシーを作る。
「それでは、失礼いたします」

帰路

馬車の中。
窓の外を眺める。
街の灯りが、ゆっくりと流れていく。

演技が不要な空間。表情が、無表情に戻っていく。
顔の筋肉が疲れているのが分かる。筋肉が張っている。
……商人は人を見る目がある。演技を見破られそうでヒヤヒヤする。


窓の外を見る。
月が、雲の間から顔を覗かせている。

革袋が、膝の上にある。
8,000ゴールド。

重い。

報告書

王立芸術古物院、4階の個室。

元物置部屋だったこの狭い空間が、今の私の仕事場。

机の上に、羊皮紙とインクボトル。
蝋燭の炎が、ゆらゆらと揺れている。


私は椅子に座り、報告書を書いている。

羽根ペンが、羊皮紙の上を滑る。
カリカリと、インクが紙に染み込む音。

依頼主: ローレンス・アルバート
対象物品: 杯(召喚術呪物)

ペンを止め、インクが乾くのを待つ。


視線を、報酬の革袋に向ける。
机の隅に置かれた袋。

ずっしりとした重さ。
内心で、数字を反芻する。 8000ゴールド。

新人冒険者なら、半年分の金額。
ダンジョンの入り口で震えながら、ゴブリンと戦い、罠に怯え、やっと手に入れる額。

経験を積んだ冒険者でも、より危険なダンジョンに何度か潜らないと稼げない。
廃墟を探索し、魔物を倒し、宝箱を開け、命を賭けて。

今は……1日で稼げる。

私は、袋から手を離す。
机の上に、袋を置く。コトン、と鈍い音。

視線を、逸らす。

羽根ペンを取る。報告書に、追記する。
備考: 対象者の回復には、長期的なリハビリが必要

ペンを置く。
あの子、数年のリハビリが必要。

深く息を吐く。

視線を、革袋に戻す。
8000ゴールド。

「彼は戦っています。その意志を信じて」
……なんて、それっぽいことも言った。
彼の意識が完全に乗っ取られていたとしても、夫妻の祈りが弱かったとしても、私がいれば解決した。あの程度なら、失敗することはない。

瞼を下ろす。
エレインさんの泣き顔。ローレンスさんの震える声。
希望が必要だった。今なら救える。目の前の小娘に金さえ握らせればいい。
リハビリに数年かかるらしいが、回復の見込みはある。でも、いま金を出さなければ……。

だから、演じた。
私を信じる必要はない。夫妻は、愛する自慢の息子を信じたのだ。
息子の可能性に8000ゴールドを出したのだ。

報告書を折りたたみ、蝋で封をする。
明日、提出する。


立ち上がり、ソファに向かう。
窓から、月明かりが差し込んでいる。

ソファに横になる。
天井を見上げる。

皮肉なものだ。
演技で考えを誘導して、束縛を解いた。
他者の心を支配する者が、呪いをはらう。
自嘲的に口角が上がる。


視界を遮断する。

遠くから、鐘楼の音。
1つ、2つ、3つ。
深夜3時。

静寂が部屋を満たし、月明かりだけが私を照らしている。
闇が視界を覆い、夢さえ見せてくれない。


ただ、虚無だけがそこにある。