アフタヌーンティー
14時。
太陽が天頂から滑り落ち始める時刻。影が伸び、世界が黄金色から琥珀色へと移ろう境界の時。
保存部門の扉に手をかける。重厚な樫の扉は、この建物が建てられた200年前から同じ場所で同じ役目を果たしている。木目に刻まれた年輪が、時の流れを物語る。
ノックする。コツコツという音が廊下の石壁に跳ね返り、いくつもの残響となって消えていく。
沈黙が数秒。
やがて扉の向こうから足音。ドワーフ特有の、地に根を張るような確かな歩み。鍵が回る、カチャリという精密な音。
部屋の中から流れ出る空気は、古書の記憶で満たされている。
図書室のそれよりもさらに深く、遠い。羊皮紙に残る獣の痕跡、革装丁の渋み、古いインクに含まれた鉄の錆びた香り。時間そのものが、匂いとなって漂っている。
「おや、どうしたんだい?」
扉が開き、エレノアさんが顔を覗かせる。
白銀に染まり始めた髪を、複雑な編み方で結い上げている。3本の紐が7回交差し、最後に古代ルーンの留め具。ドワーフの職人が己の作品に刻む印と同じ結び方だ。
目尻に刻まれた皺は、鍛冶炉の前で過ごした長い年月の勲章のように深い。
「古代の魔道具について調べていて……こちらの資料を、拝見できれば」
確証はない。だが似た魔道具の管理記録が、この部門の蔵書のどこかに眠っているはずだ。
エレノアさんならば、この部門に収められた全ての書物の在処を把握しているだろう。
「ちょうど業務がひと段落したところだよ」
扉を大きく開け、中へと招き入れてくれる。
「お茶でも飲んでいきなさいな」
「お茶……?」
わずかに驚く。蔵書を見せてもらうつもりで来たのだが。
「蔵書は後でゆっくり見せてあげるからね」
エレノアさんが口元を緩める。その笑みには、母親が子供を寝かしつける時のような、穏やかな強制力がある。
「ほら、入っておいで。疲れてるみたいだし」
拒めない。
この人の慈しみは、ロゼさんのそれとは質が違う。ロゼさんの善意は真夏の陽光のように眩しく、容赦なく全てを照らし出す。
対してエレノアさんの優しさは、冬の暖炉の前で毛布に包まれるような、静かで包括的な温もりだ。
どちらも——否定を許さない。ただその方法が、違うだけ。
茶の間
休憩室に案内される。
小さな部屋だが、そこには住む者の人柄が余すところなく表れている。磨き上げられたテーブル、背もたれに刺繍が施された椅子、暖炉の上に飾られた小さな鉱石の標本。
窓から注ぐ午後の光が、全てを柔らかな金色で包んでいる。
エレノアさんが紅茶を淹れる。
淡い翡翠色の陶器ポットから、琥珀色の液体がカップへと注がれる。立ち上る湯気が運んでくるのは、ラベンダーとベルガモットの繊細な調べ。
焼き菓子が小皿に盛られている。表面はきつね色に焼き上がり、バターの香ばしさが鼻腔をくすぐる。一つ一つが丁寧に、エレノアさんの手作りだろう。
「疲れてるみたいだね」
ポットを置き、私の顔を見つめる。その視線は鑑定士が宝石を見る時のように鋭く、そして優しい。
「無理はしないようにね」
「……少し」
正直に答える。この人の前で演技をしても、鍛冶師が金属の質を見抜くように、すぐに見破られるだろう。
だから隠さない。隠す意味がない。
「お昼は楽しかったかい?」
知っているのだろう。ロゼさんと過ごしていることを。
この学術院は広いようで狭い。噂は石造りの廊下を伝って、驚くほど速く広がる。
「特別顧問と警備部門長が親しい」という話は、既に多くの職員の耳に届いているに違いない。
「……はい。いい時間でした」
小さく口元を緩める。嘘ではない。
彼女との時間は確かに消耗する。だが、悪い時間ではない。
エレノアさんが穏やかに微笑み、焼き菓子を勧めてくる。
「食べてごらん」
一つ手に取り、口に運ぶ。
歯が表面のサクサクとした層を破ると、中からバターの濃厚な風味が溢れ出す。甘さは控えめで、紅茶の繊細な香りを邪魔しない。
穏やかに、ゆっくりと時間が流れる。
紅茶を啜りながら、エレノアと言葉を交わす。
修繕が必要になった古文書の話。
続いている良い天気の話。
急かされることのない、穏やかな時間。ここでは時計の針すら、ゆっくりと進むような錯覚を覚える。
扉が開く。
ノックなし。勢いよく。
蝶番が抗議の悲鳴を上げる。
「妹ちゃん!ここにいた!」
(……4回目)
もう驚かない。この声が空間を塗り替えることに。また会うだろうと予感していた。
いや、確信していた。
ロゼさんだ。肩で息をしている。額には汗の粒が光り、頬が紅潮している。
走ってきたのだろう。それも、かなりの距離を。
「ロゼ、ノックくらいしなさいよ」
エレノアさんがため息をつく。
その声には諦めと、わずかな愛情が混じっている。もう慣れているのだろう、この嵐のような訪問者に。
「あ、ごめんなさい!」
謝罪の言葉を口にするが、その視線は既に私に向けられている。瞳が輝いている。宝物を見つけた子供のような、純粋な喜びで。
「でも妹ちゃんを探してて!」
探していた。
その一言が、空気を切り裂く。もはや偶然という仮面すら被らない、裸の真実。
巡回ではない。
偶然の遭遇でもない。
意図的な探索。
(ロゼさんは、焦ると本音が隠せない。覚えておこう)
「ロゼ、彼女は妹じゃないよ」
エレノアさんが何度目かの訂正を試みる。その声には、長年同じ議論を繰り返してきた者の諦念が滲んでいる。
「血は繋がってないけど、心は姉妹です!」
ロゼさんが即座に返す。その確信には、一点の曇りもない。彼女の中では、これは議論の余地のない真実なのだ。
「……はいはい」
エレノアさんが降参する。
この論争に勝者はいない。ロゼさんの信念はミスリルの鎧よりも硬い。
「お茶飲んでいくかい?」
「ありがとうございます!」
ロゼさんが私の隣に滑り込む。肩が触れる。彼女の体温が、走った後の熱気となって伝わってくる。
そして、薔薇の香りが襲ってくる。汗に混じって、より濃密に、より甘美に。あっという間に塗り潰されていく。
空気の支配権が、静かに移行する。
3人で茶を囲む。
ロゼさんが一方的に話す。昼食のこと、訓練のこと。「妹ちゃんと一緒だと、ご飯が美味しいの!」
エレノアさんが時折相槌を打つ。「そうだねぇ」「大変だったねぇ」
私は黙って聞いている。紅茶を啜りながら。焼き菓子を食べながら。
もう何も言えない。だが、悪い気はしない。むしろ、この空間が、温もりで満たされている。孤独ではない。
15時頃。エレノアが立ち上がる。
「そろそろ戻らないとね。蔵書、見せてあげるよ」
「ありがとうございます」
私も立ち上がり、本来の目的を思い出す。
「じゃあ、お姉さんは巡回に戻るね!」
ロゼさんが勢いよく立ち上がる。椅子が床に軋んだ音を残す。
「また後でね♪」
手を振って去っていく。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。静寂が戻る。だがその静寂は、彼女が来る前のそれとは、微妙に質が違う。
空気が、わずかに薔薇の残り香で染まっている。
エレノアさんが苦笑する。
「……大変だねぇ」
その視線には同情と、そしてわずかな羨望が混じっている。
「でも、あの子は良い子だよ」
「はい。すごく……感じています」
同意する。疲れるけど。
蔵書室、時の封印
蔵書室は、時間が別の速度で流れる場所だった。
エレノアさんが重い扉を開く。ギィという音。古い金属が長い眠りから覚める時の、抗議の声。
扉の向こうに広がるのは、知識の墓場であり聖域でもある空間。天井は高く、壁一面を覆う棚には無数の書物が眠っている。背表紙の多くは色褪せて剥がれ、書名は時の侵食で判読困難。
空気が違う。
外の世界の喧騒は、この扉の向こうには届かない。ここでは時が凍結している。あるいは、濃厚な蜜のように、ゆっくりと流れている。
「ここに古代の魔道具関連の書物があるよ」
エレノアさんが棚を示す。高い位置から低い位置まで、何十冊もの書物が詰まっている。
「必要なものがあったら声をかけておくれ」
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
エレノアさんが自分の机に戻る。羽根ペンを取り、書類に向かう。時折こちらに視線を向けてくれるが、子守りのような温かさを感じる。
棚から一冊を取り出す。
重い。歴史の重さだ。埃を払うと、革装丁の表面に古代文字が浮かび上がる。
机に置き、慎重に開く。羊皮紙の独特の手触り。何百年も前の職人の手が、この一枚一枚を丁寧に仕上げたのだ。
複雑な魔法陣の図。細密な文字。時の経過で滲んだインク。
読み解くには、目を凝らし、光の角度を変え、時には推測も必要だ。
ペンを走らせる。カリカリという音が、静寂の中で心地よいリズムを刻む。
重要な箇所を書き写す。図を模写する。線を引く。注釈を書き込む。
故郷の図書館では決して見ることのできなかった知識が、ここにある。
30分ほどが過ぎる。
ペンを置き、深呼吸する。
8秒吸って8秒吐く。
——呼吸法は、心を落ち着かせる。
(……考えよう。今日という日を)
朝、ロゼさんが部屋に来た。図書室で会った。中庭で会った。昼食を共にした。そしてアフタヌーンティーで、また会った。
4回。
1日で、4回。
(偶然、ではない)
もう疑いの余地はない。
「妹ちゃんを探してて!」——彼女自身が口にした真実。
巡回という名目。
偶然という仮面。
全てが、私と過ごすための口実だった。
でも、それでいい。
ロゼさんは有能だ。警備部門長として、誰もが認める働きをしている。信頼され、部下に慕われている。
そして、純粋だ。裏がない。そもそも、隠せない。彼女の善意は、湧き水のように澄んでいて、曇りがない。
私を守ってくれる。妄信的に、絶対的に。私を肯定してくれる。無条件に、何があっても。
距離が近い?
慣れればいい。もう慣れ始めている。彼女の体温も、香りも、抱擁も、異物ではなくなりつつある。
会う頻度が高い?
予測可能だ。むしろ予測できることは、安心材料ですらある。
「妹」扱い?
気にしなければいい。私は冒険者生活の中で何年も「社会見学をしている貴族の令嬢」を演じてきた。「妹」など、それに比べれば簡単。
それさえ差し出せば、私はロゼさんの全てを享受できる。守護。肯定。信頼。温もり。
これは、私の選択肢だろうか?
選択とは、選ぶことができる立場の人間がするものだ。だがここに選択の自由はない。
彼女は夏至の太陽であり、私はその下の影。彼女は満ち潮であり、私は波に洗われる砂浜。力の差は、歴然としている。
抗うことなど、初めからできなかった。
ならば、受け入れよう。
この重みを。この、温かさで窒息しそうな関係を。
私は、ロゼさんの妹になる。ロゼさんは、私を守り、肯定し続ける。
それは契約ではない、宿命だ。逃れようのない、定められた道筋。
そして宿命とは、抗えば抗うほど深く絡みつくもの。
ならば、流れに身を任せる方が楽だろう。溺れる者が水流に逆らえば沈むが、流れに乗れば浮かぶ。
また本を開く。知識が、少しずつ積み重なっていく。
時間が、蜜のようにゆっくりと流れる。
窓の外の光が、わずかずつ角度を変えていく。気づけば、さらに1時間半が過ぎていた。影が長くなっている。夕暮れが、近づいている。
十分な資料を集めた。メモも十分に取った。今日の収穫は予想以上だ。
エレノアさんに礼を述べ、蔵書室を後にする。
「また困ったことがあったら来なさいな」
その言葉が、温かい毛布のように心を包む。
「ありがとうございました」
深く、心からの感謝を込めて頭を下げる。
五度目の宿命
時計の針は17時を指している。
廊下を歩く。私の足音だけが石畳に響き、規則正しいリズムを刻んでいる。
窓の外では世界が茜色に染まり始め、影が壁に、床に、長く長く伸びている。
一日の終わりが近づいている。
疲労が、身体の隅々まで染み込んでいる。
図書室、中庭、昼食、アフタヌーンティー、蔵書室。午前中で切り上げるつもりだったのに、気づけば一日中動き回っていた。
調べたいことが次々と湧き、止まれなかった。
休日だというのに、通常業務以上に消耗している。
特別顧問室が見える。私の部屋。私の聖域。
廊下の先にある、ようやく休める場所。
——芳香が襲ってきた。
足が止まる。
それは薔薇だが、ただの薔薇ではない。神殿で焚かれる聖別された花弁のような、甘美で濃密な香気。
空気そのものが蜜に変わったかのように、纏わりつき、逃がさない。
それは香りというより、存在の宣言だ。神域の主張だ。
ロゼさんだ。まだ見えないのに、この香りだけで全てがわかる。
視界の先に彼女の姿はない。けれど廊下の空気が、既に彼女の色に染まっている。
香りが濃い。異常なほど濃い。ということは、そこに長時間いたということだ。どれだけ長く?10分?30分?それとも——
心臓が速度を上げる。呼吸が浅くなる。身体が、理性より先に反応している。
でも、足は動く。一歩、また一歩。引き寄せられるように。重力に従うように。
彼女の方へ。
角を曲がる。
——そこにいた。
扉の前に、小さな人影。背筋を真っ直ぐに伸ばし、直立している。
肩がわずかに、ほんのわずかに上がっている。緊張の証。
手が軽く握られている。不安の現れ。
視線が廊下の向こうに向けられている。待つ者の眼差し。
その瞳には、来ないかもしれない、という恐れが滲んでいる。
ロゼさんだ。
彼女の周囲の空気が、他の場所とは明らかに違う。薔薇の香りで飽和し、まるで目に見えない結界のように、彼女を中心に広がっている。
「ここは私の場所」という、無言の宣言。
(ここは、私の部屋の前のはずなのに)
私の足音が聞こえた瞬間、彼女の顔が、劇的に変化する。
まず目が見開かれる。次に肩の緊張が解ける。握られていた手が開く。
そして、笑みが咲く。まるで春の野に一斉に花が開くように、彼女の表情全体が喜びで満たされる。
それは演技では作れない、純粋で無防備な顔。
「妹ちゃん!」
その声には、安堵が波のように押し寄せている。喜びが溢れ出している。愛が込められている。
疑いなく純粋な、愛。
5回目。
1度目は、朝の部屋。
2度目は、図書室。
3度目は、中庭の木陰。
4度目は、ティータイム。
5度目は、この場所。
足音が響く。一歩ごとに、薔薇の香りが濃くなる。一歩ごとに、彼女の重力が強くなる。
目が合う。彼女の瞳が、炎の魔石のように輝いている。
「……いつから、いたんですか」
尋ねる。声が、わずかに震えている。
彼女の時間を奪ってしまったという罪悪感と、彼女がそれほどまでに待っていてくれたという複雑な感情。
「偶然通りかかって♪」
嘘だ。扉の前で直立不動で待機していた者が使う言葉ではない。でも、もうそれでいい。
「妹ちゃん、疲れてる?」
「……少し」
隠せない。断続的に会い続けている彼女には、だんだんと姿勢が悪くなる私の機微に気づいている。
「じゃあ、休んで!」
穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で。
「夕ご飯、18時に迎えに来るね!」
もう何も言えない。抗う気力も、理由も、残っていない。
6回目。18時に、6回目の遭遇が確定している。
「……はい」
抵抗は無意味だ。川の流れに乗る方が、楽だ。
「ゆっくり休んでね♪」
身体が、前に引っ張られる——
抱きしめられた。
小さな身体。だが鍛え抜かれた筋肉が、確かな力で私を包む。壊れ物を扱うような、慈しみに満ちた圧力。
彼女の体温が、服を通して伝わってくる。彼女の心臓の鼓動が、胸に響く。規則正しく、力強く、生命のリズムを刻んでいる。
薔薇の香りが、また鼻腔を満たす。
「また後でね!」
解放される。彼女が手を振って、廊下の向こうへ去っていく。
足音が遠ざかる。やがて消える。
静寂が戻る。だが、その静寂は薔薇の残り香で満たされている。
「主人?」
従者の声で、我に返る。
「……そう、ね。入りましょう」
立ち尽くしていた。必然に、心を奪われて。
今日はとても忙しい日だった。
鍵を回す。
私の聖域。外界から隔絶された、静かな空間。
従者が扉を閉める。世界が、遮断される。
「少し、休みます。18時の……少し前に起こして」
早めに準備したい。おそらくロゼさんは、約束の時間よりかなり早く来るだろう。
もしかしたら、また扉の前で待っているかもしれない。
「了解」
従者が頭を下げる。
ソファに深く沈み込む。柔らかなクッションが、疲れた身体を受け止めてくれる。
目を閉じる。
意識が、披露の中に沈んでいく。身体が重力に従って沈む。
——18時に、また会おう。