偶然という名の必然 ―午後―

紅茶とクッキーのイラスト

樫の扉、二百年の沈黙

蝶番が、まだ抗議をやめていない。
保存部門の扉は二百年前から同じ場所に据えられ、開くたびに同じ軋みを返す。木目に走る年輪は、写本の紙背に滲んだ墨の層によく似ている——幾重にも重なり、どれが最初の一画かはもう読めない。


叩く。
音が石壁を伝い、廊下の奥で薄まり、消えた。

足音が近づいてくる。
地を確かめるように刻む、ドワーフの歩み。錠が回る、精緻な金属音。香炉の蓋を開けたときの、あの密度の高い静けさが、扉の隙間から零れ出してくる。

羊皮紙に残る獣の痕。革装丁の渋み。古いインクに沈んだ鉄の翳り。
時間そのものが匂いになって、ここでは漂っている。図書室のそれより、もっと奥が深い。


「おや、どうしたんだい」
エレノアさんが顔を覗かせる。
白銀の混じり始めた髪を、三本の組紐が七度交差する古い結い方でまとめている。留め具は石銘語の刻まれた銀。

「古代の魔道具について、調べておりまして……こちらの蔵書を、拝見できればと」
——確証はない。
だが似た来歴の品の管理記録が、この部門のどこかに眠っている。その所在を把握しているとすれば、この人だろう。

「ちょうど、ひと区切りついたところでね」
扉が大きく開く。
「お茶でも飲んでいきなさいな」

「お茶、ですか」

蔵書を借りるつもりで来た。茶を出されるとは、計算に入れていなかった。

「本は後でゆっくり見せてあげるよ」
口元がほどける。その笑みには、眠る前の子供に毛布をかけ直すような、断りを許さない柔らかさがあった。
「ほら、おはいり。疲れた顔をしてるよ」

拒めない。

この人の慈しみは、ロゼさんのそれとは作りが違う。
ロゼさんの善意は、解こうとするほど対象の本質へ食い込む、あの本質的な呪物に似ている。手を入れた者の指の形まで覚えて、離さない。
対してエレノアさんの優しさは、植物園の恒温そのものだ。気づかぬうちに包まれていて、出口を探す気すら起こさせない。

恒温の部屋

休憩室は、住む者の輪郭がそのまま家具になったような部屋だった。
磨かれた卓。背に刺繍の入った椅子。暖炉の上には、小さな鉱石の標本が硝子の下で角を光らせている。午後の光が、すべての縁を金で縫い取っていた。


茶が注がれる。
翡翠色の陶器から、琥珀の液が立ち上がり、ラベンダーとベルガモットの香が湯気に乗ってほどける。
小皿の焼き菓子は、表面が均一なきつね色に焼き締まり、バターの甘い翳りを放っていた。一つひとつの不揃いが、手作りの証として残っている。


「疲れてるね」
ポットを置き、こちらを見る。真贋を見極める目だ。鋭く、そして温い。
「無理をするんじゃないよ」

「……少し」
正直に答えた。
この人の前で繕っても、不純物の混じった銀を量りにかけるように、たやすく見抜かれる。隠す手間に、意味がない。

「お昼は、楽しかったかい」
——知っている。
特別顧問と警備部門長が連れ立っている、という話は、石の廊下を伝って驚くほど速く回る。この学術院は、広いようで狭い。

「はい。良い時間でした」
口角を、わずかに上げる。嘘ではない。
ロゼさんといると消耗する。だが、悪い時間と切り捨てるには、何かが足りない。
何が足りないのか、量りきれないのだが。


焼き菓子を勧められ、一つ手に取った。
歯が表層の薄い層を砕くと、内側からバターの濃い香りがほどける。甘さは控えめで、茶の繊細な調べを濁さない。舌の上で、二つの香りが順に立ち上がっては沈んでいく。


時が、蜜の粘度で流れる。
修繕を待つ古文書のこと。続く好天のこと。
急かす者のいない、緩やかな往復。ここでは時計の針すら、足を引きずって進むように思われた。


扉が開く。

ノックは、ない。勢いだけがある。
蝶番が、今日二度目の悲鳴を上げた。

「妹ちゃん! ここにいた!」


(……四度目)

もう、驚かない。この声が部屋の空気を塗り替えることに。
また会う。そう予感していた——いや、すでに知っていたのかもしれない。

ロゼさんだ。肩で息をしている。額に光る粒。頬に上った血の色。
走ってきた。それも、かなりの距離を。


「ロゼ、ノックくらいおし」
エレノアさんが息を吐く。諦めと、削りきれない情の混じった声。この嵐の訪問には、もう慣れているのだろう。

「あ、ごめんなさい!」
詫びの言葉は口にしながら、視線はもうこちらに据わっている。瞳の奥に、隠した品を掘り当てた子供の光。
「でも、妹ちゃんを探してたから!」


——探していた。
その一語が、偶然という薄い封蝋を、内側から割った。意図して、ここまで辿られたのだ。

(焦ると、本音の縫い目がほどける。覚えておこう)


「ロゼ、この子はあんたの妹じゃないよ」
エレノアさんが、幾度目かの訂正を試みる。長く続く論争に倦んだ者の声音で。

「血は繋がってなくても、心は姉妹です!」
即答だった。一点の濁りもない。
彼女の中で、これが議論であったことは、一度もないらしい。

「……はいはい」
エレノアさんが白旗を上げる。この論争に勝者はいない。ロゼさんの信念は、ミスリルの鎧よりも目が詰んでいる。

「お茶、飲んでいくかい」

「ありがとうございます!」
椅子が、隣に滑り込んできた。肩が触れる。走った後の熱が、布越しに移ってくる。
薔薇の香が、汗の塩気を芯にして、より濃く、より甘く広がる。部屋を満たしていた古書の翳りが、隅へ追いやられていく。

三人で卓を囲む。
ロゼさんが一方的に喋る。昼食のこと、訓練のこと。
「妹ちゃんと一緒だと、ご飯がおいしいの!」

エレノアさんが相槌を落とす。
「そうだねぇ」
「大変だったねぇ」

わたくしは黙って聞いている。茶を啜り、菓子を食み。
もう何も言えない。だが、不快とも違う。冷えた蝋にうっかり指を触れたときの、あの拒まれなさに近い何かが、この部屋には満ちている。


15時。エレノアさんが腰を上げる。
「さて、戻ろうかね。蔵書を見せてあげるよ」

「ありがとうございます」
本来の用向きを、ようやく思い出して立ち上がる。

「じゃあ、お姉さんは巡回に戻るね! また後で♪」
椅子が床に軋みを残して、ロゼさんが去っていく。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
静寂が戻る——が、その静寂は、来る前のものと質が違う。薔薇の残り香が、空気の編み目に染み込んでいた。

エレノアさんが苦笑する。
「……大変だねぇ」
その目に、同情と、ほんの少しの羨望が並んでいる。
「でも、いい子だよ。あれは」

「はい。それは、よく」
同意した。消耗はするのだが。

蔵書室、凍った時間

扉の向こうで、時間が別の速度を持っていた。

エレノアさんが重い扉を開く。古い金属が長い眠りから覚める、軋り。
天井は高く、壁を埋める棚に無数の書物が眠っている。背表紙の多くは褪せ、銘は時の侵食で異綴のように崩れて、もはや判読を拒んでいた。

外界の喧騒は、この敷居を越えてこない。
ここで時は凍り、あるいは溜まり水のように、見えぬほど緩く流れている。


「古代の魔道具に関わる本は、この辺りだよ」
棚を示す手。高みから低みまで、何十冊もが詰まっている。
「入り用があったら、声をかけておくれ」

「ありがとうございます」
深く頭を下げた。


エレノアさんが机に戻り、羽根ペンを取る。時折こちらへ向く視線に、子守りの温度がある。

一冊を抜く。
重い。来歴の重さだ。埃を払うと、革の表に古い文字が浮かぶ。


机に据え、慎重に開いた。羊皮紙の、爪先で撫でるような手触り。
魔法陣の精緻な図。細密な書き込み。滲んだインク。読み解くには光の角度を変え、ときに推測で橋を架ける。

ペンを走らせる。要を書き写し、図を模写し、注を入れる。
故郷の里では決して触れられなかった知識が、ここで開いている。


半刻ほどが過ぎた。
ペンを置き、息を整える。八つ数えて吸い、八つ数えて吐く。


(……考えよう。今日という日のことを)

朝、部屋の前。図書室。中庭。
昼食。
そして、ここへ来る前のティータイム。
一日で、四度。

偶然という線は、もう引けない。
「妹ちゃんを探してた」
——彼女自身の舌が、縫い目をほどいた。巡回の名目も、行きずりの仮面も、わたくしと過ごすための口実だった。
そう読み解けてしまう。


だが、それでいい。
ロゼさんは有能だ。警備部門長として、誰もが認める仕事をする。慕われ、信を置かれている。
そして、裏がない。隠せない。湧き水のように澄んで、底まで透けている。
わたくしを守る。妄信的に、絶対に。肯定する。無条件に、何があっても。

距離が近い。慣れればいい——もう、慣れ始めているらしい。体温も、香りも、抱擁も、異物の角が取れてきている。
頻度が高い。だが予測できる。予測できることは、むしろ防壁の側にある。
「妹」扱い。気に病まなければいい。
冒険者の年月、わたくしは「社会見学中の令嬢」を幾年も演じてきた。「妹」など、その台本に比べれば、ほとんど白紙だ。

それだけ差し出せば、ロゼさんのすべてが手に入る。
守護。肯定。信。温度。


これは、選択なのだろうか。
選択とは、選べる位置にある者の特権だ。
だが、ここに自由はない。
彼女は満ちてくる潮であり、わたくしは洗われる側の砂だ。力の差は、量るまでもない。
抗うという発想が、そもそも芽生えなかった。

ならば、受け入れよう。
この重みを。温度で窒息しそうな、この関係を。
わたくしは、ロゼさんの妹になる。ロゼさんは、わたくしを守り、肯定し続ける。

契約ではない。もっと、ほどけないものだ。
そういうものは、抗うほど深く絡みつく。だから流れに身を預ける——預ける、と思うことにしている。
……思うことにしている、という言い方を選んでいる時点で、答えはもう量りに乗っているのだが。


また頁を開く。知識が、少しずつ層をなしていく。
気づけば、さらに一刻半が過ぎていた。窓の光が角度を変え、影が長く伸びている。
集めた資料も、取った注も、今日の収穫は予想を超えた。


礼を述べ、蔵書室を後にする。
「また困ったら、おいでなさいな」
その一言が、恒温の棚にしまわれるように、内側へ届く。

「ありがとうございました」
深く、心から頭を下げた。

五度目

針は、17時を指している。
廊下に、わたくしの足音だけが石畳を打っている。
窓の外で世界が茜に沈み、影が壁に、床に、長く長く溶けていく。

消耗が、指の先まで沈殿していた。
午前で切り上げる算段だったのに、気づけば一日中、院の中を巡っていた。
調べたい銘が次々に湧き、止まれなかった。休日のはずが、常の勤めよりも消耗している。


特別顧問室が見えてくる。わたくしの、わずかな聖域。


——芳香が、先に来た。

足が止まる。

薔薇だ。ただの薔薇ではない。香炉に焚かれた香華のように、甘く、密度がある。
空気そのものが蜜の粘りを帯びて、纏わりつき、逃がさない。香りというより、領域の宣言だった。

姿は、まだ見えない。
だが廊下の空気が、すでに彼女の色で染まっている。
香が濃い。異様に濃い。ということは、長く留まっていたのだ。10分か。半刻か。それとも——

思考の制御が、指の間から零れていく。鑑定の最中に集中の糸が切れる、あの感触に似て。
だが、足は動く。
一歩、また一歩。
量りの皿が傾くように。彼女の方へ。


角を曲がる。
——いた。
扉の前に、小さな人影。背を真っ直ぐに伸ばして。

肩が、ほんのわずかに上がっている。手が、軽く握られている。視線は、廊下の向こうへ投げられたまま。
待つ者の構えだ。
来ないかもしれない、と量りかねている者の。

ロゼさんだ。

彼女を中心に、空気が他と違う密度で渦巻いている。薔薇で飽和し、見えない結界のように張り出していた。
「ここはわたしの場所」という、声にならない主張。

(ここは、わたくしの部屋の前のはずなのに)


足音が届いた刹那、彼女の顔が変わる。
目が見開かれ、肩の緊張が解け、握られていた手がほどける。
そして、笑みが咲いた。野に花が一斉に開くのとは違う——もっと不用意で、もっと無防備な。繕う暇のない顔だった。

「妹ちゃん!」
その声に、安堵が満ちている。喜びが、溢れている。
そして、愛が——疑いようもなく、純度の高い愛が。

五度目。

朝の、部屋の前。
図書室。
中庭の木陰。
ティータイム。
そして、この場所。

ロゼさんが笑っている。今、目の前で。
なのに、もう「あの笑顔」だと感じている。
——いずれ、この光景をわたくしは喪う。まだ起きていないのに、もう知っている。失われたものを見る目で、わたくしはそれを見ていた。


「……いつから、いらしたんですか」
尋ねる声が、わずかに掠れた。
彼女の時間を奪ったという咎と、それほど待たれていたという——名づけられない何か。

「偶然、通りかかっただけ♪」
——嘘だ。扉の前で直立していた者の使う言葉ではない。だが、もう暴く気も起きない。

「妹ちゃん、疲れてる?」

「……少し」
隠せなかった。断続的に顔を合わせ続けた彼女は、わたくしの消耗を量れるようになっている。

「じゃあ、休んで!」
柔らかく、しかし有無を言わせぬ調子で。
「夕ご飯、18時に迎えに来るね!」

もう、何も返せない。抗う気力も、理由も、量りに残っていない。
六度目が——18時に、すでに確定している。

「……はい」
抗うのは無意味だ。流れに乗る方が、沈まずに済む。

「ゆっくり休んでね♪」

身体が、前へ引かれた——
抱きしめられている。
小さな身体。だが鍛えた筋が、壊れ物を扱う手つきで、確かにわたくしを包む。
彼女の体温が布を通り、鼓動が伝わってくる。規則正しく、力強く。薔薇が、また鼻腔を満たした。

「また後でね!」
腕がほどける。手を振り、廊下の向こうへ去っていく。
足音が遠ざかり、やがて消えた。静寂が戻る。その静寂は、薔薇の残り香で満たされていた。


「主人」
従者の声で、我に返る。

「……そう、ね。入りましょう」
立ち尽くしていたらしい。必然というものに、足を縫い止められて。

鍵を回す。
外界から切り離された、静かな部屋。従者が扉を閉じ、世界が遮断される。


「少し、休みます。18時の……少し前に、起こして」
早めに支度をしたい。
ロゼさんは、約束よりかなり早く来るだろう。また扉の前で、立っているかもしれない。

「了解」
従者が頭を下げた。

ソファに、深く沈む。疲れた身が、重力に従って沈んでいく。
目を閉じる。

——18時に、また会う。
会う、と思うことにしている。思うことにしている、という言い方を、もう咎める気力もないまま。