偶然という名の必然 ―午前―

朝の来訪者

扉が三度、鳴る。
樫材の厚みを抜けて、音がくぐもって届く。

ルームサービスを頼んだ、らしい。
昨夜の記憶は写本の欠落部のように薄く、注文した自分がもう他人だ。

従者が扉を開ける。


声より先に、薔薇が入ってきた。
神殿の香華にも似た、押しつけがましい質量の甘さ。空気が塗り替えられる。

「おはよう、妹ちゃん」

RACA警備部門長の制服。両手にトレイ。
願いの叶った信徒の顔で、ロゼさんがそれを掲げている。

「朝ごはん、持ってきたよ」

焼けたパンの匂い。スープの湯気が朝日に透けて、白い帯になって昇る。
なぜ、ロゼさんが。ホテルの給仕ではなく。
問いが、喉の途中で形を失う。継ぎ目の粗い偽物に触れたときの、あの引っかかりに似て。

だがトレイは本物だ。金彩亭の白磁、金の縁取り。
幻術の像なら看破できる。これは実在する。

「ありがとうございます」
言葉が先に出た。
仮面の据え付けが、まだ半分しか間に合っていない。

「入っていい?」
もう一歩、踏み込んでいる。ハーフリングの軽さと、トレイの重さ。その二つが、断る間合いを正確に潰していた。

「……どうぞ」

薔薇が部屋を満たす。逃げ場が一つずつ塞がれていく。


トレイが置かれた。音がしない。ナプキンもカトラリーも、寸分たがわぬ位置に並ぶ。
給仕が何年もかけて体に刻むはずの作法を、彼女はただ自然に再現している。

全粒粉のパン。わたくしの好み。
野菜のスープ。よく頼むもの。
桃。好きな果物。
なぜ知っているのか、問いはまた喉で凍る。答えを探すのを、そこでやめた。善意に、刃を向けるわけにはいかない。

「一緒に食べよう」
茶色の右目が朝日を抱いて、琥珀の内包物のように透ける。拒絶という概念を、まだ知らない目だ。

「……はい」
この目を、追い返せる気がしない。

朝餉

助かるのかもしれない、と思うことにする。
金彩亭の朝は混む。一人で座れば四方から視線が刺さり、仮面の維持に集中力を絞られる。部屋で済むなら、誰にも演じなくていいなら。悪くない。
何が悪くないのかは、わたくしにもよく分からないが。


椅子を引く。ロゼさんも向かいに座る、かと思った。

頭に、手が乗る。

「昨日のお仕事の話、聞いたよ。誰も手に負えなかったんでしょう。それを妹ちゃんが、ひとりで」
髪を撫でる手つきは、迷子から手を離さない親のもの。声には、労いだけがある。

「えらいね。よく頑張った」

三重の死霊封じだった。解呪の途中、術式が逆流しかけ、従者が割って入る寸前だった。
それが、頭を撫でられる重さに変換されている。実務としての手応えと、この掌の重さが、同じ天秤に乗らない。乗せようとした瞬間、天秤ごと消える。
秤の目盛りが、この人には一つしかないのかもしれない。

「……ありがとうございます」
それだけを返す。訂正する語彙が、今は出てこない。

「会いたかったよ」
手が、頭から肩に降りる。労いの温度のまま、そこに留まる。


昨日も会った。今朝も、もう会っている。
数えるほど間隔が詰まっているのに、この人の中では毎回が「久しぶり」として処理されている。時間の尺度そのものが、わたくしにだけ違う速さで流れているのかもしれない。

薔薇の領分

食事が終わり、ロゼさんがトレイごと去っていく。
静寂が戻る。朝日の帯の中を、埃がゆっくり漂う。


鏡の前に座る。棚に、ささやかな防壁が並んでいる。
シトラス。白檀。ジャスミン。どれも「わたくし」という輪郭を縁取るための触媒だった。

蓋を開ける。
届かない。
シトラスの繊細さは呑まれ、白檀の重みは薔薇とぶつかって濁る。防衛の香は、すでに無力化されている。

部屋の隅々まで。服の繊維の一本まで。
ロゼさんの移り香が、焚きしめたように籠っている。防壁の香を、薔薇の香が組み伏せ、居座っている。
この部屋を、書き換えられた。書き換えられれば、元の香りには戻らない。


蓋を閉じる。
彼女の刻印を背負ったまま、休日を過ごすしかない。

図書室での再会

図書室は、時の止んだ場所だ。
古い紙。羊皮紙にかすかに残る獣の名残。インクの鉄が錆びた匂い。写本の呼吸する匂い。ここでだけ、肺が緩む。

アンブローズさんが棚の前にいる。背を向けて、本を整理している。
一冊ずつ、嬰児を扱うように移していく。


「おはようございます」

振り向いて、小さく会釈する。視線はわたくしの肩のあたりで止まり、目には合わない。それだけ。それで足りる相手だ。

「古代の魔道具について。アンデッド退散に関わる資料を探しています」

アンブローズさんが無言で一冊を抜く。
大きな手。だが本に触れる指だけは、慎重で繊細だ。

「ありがとうございます」
受け取る。重い。何百年分かの知が、羊皮紙の束に閉じ込められている。

窓際の机に着く。頁を開く。ざらりとして、それでいて滑る手触り。目を凝らす。羽根ペンを走らせる。周囲の音が遠のく。


30分ほど経った頃、扉の蝶番が鳴った。足音。軽い。知っている足音だ。

「妹ちゃん」

また、来た。

アンブローズさんの視線が、棚の影へわずかに退く。
いつも、こうだ。ロゼさんが来ると、彼は退く。理由は、像を結ばない。

「巡回中なの」
棚を覗き、背の銘を眺めている。中身に興味はないのだろう。話すための口実だ。

「偶然だね」

偶然、だろうか。
彼女は部門長で、貴重な資料の眠るこの部屋は当然の警備対象だ。定期巡回は職務にすぎない。ただ、来る刻限が、合いすぎる。

「何探してるの?」
距離が近い。この人はいつも近い。薔薇が、また鼻をつく。

「古代の魔道具に関する資料を」
開いた頁を見せる。複雑な術式の図。

「難しそう」
目が灯る。中身に惹かれているのか、わたくしと話せて嬉しいのか、おそらく後者。この人は、中身ではなくわたくしを見ている。

「大丈夫です。アンブローズさんが手伝ってくださっていますので」

「そっか。じゃあ邪魔しないね」
手を振り、去っていく。足音が遠ざかる。切り替えが速い。水が流れていくように。


静けさが戻る。アンブローズさんが、無言で別の一冊を差し出した。
さっきのやり取りを、棚の向こうで聞きながら選んだのだろう。

二度目だ。だが彼女は部門長で、図書室は巡回路のはずだ。そのはずだ、と思うことにしている。

中庭での休息

頭の芯が鈍ってきた頃、気分を変えに中庭へ出る。

外の空気が、肌に降りてくる。日射しが涼風に薄められて、ちょうどいい温度になる。
ベンチに座る。木陰が顔に落ちる。涼しく、暗すぎない。


深く息を入れる。肺が広がる。
久しぶりの、一人の時間。顔の筋肉を定位置に留め置かなくていい時間。
木も、風も、鳥も、演じなくていい相手だ。

これが欲しかった、のかもしれない。


「妹ちゃん」

声が中庭の向こうから飛んでくる。目を開ける。ロゼさんが駆けてくる。

今日、三度目。
朝、部屋で。図書室で。そして、今。

巡回範囲、広すぎでは。敷地は広い。偶然でこの頻度はありえない。

なのに、怒りは湧かない。困惑も、ない。
ああ、来た。諦めに似た落ち着きが、代わりに座っている。

「こんなところで」
隣に座る。ベンチが少し沈む。近い。肩が触れそうな距離。息がわずかに上がっている。
薔薇。この香りは、もうこの人の一部だ。

「偶然だね」


沈黙。
偶然の重みを、この人は知らない。一度なら、偶然だ。二度なら、巡り合わせ。三度目は、意図なのだ。


「そう、ですね」
肯定でも否定でもない。ただの降伏。

頭に、また手が乗る。撫でる動きは、朝と同じ律動で。

「頑張ってるもんね。えらいえらい」

今朝と同じ言葉。今朝と同じ重さで、今また、置かれる。
中身が違うのに、出てくる評価がいつも同じ形をしている。この秤には、目盛りが本当に一つしかないようだ。

「そうですね」
一人でも、彼女がいても、中庭は変わらず穏やかだ。穏やかだと感じている、らしい。それが彼女のせいか、木陰のせいかは、切り分けられない。

「じゃあ、また後でね」
立ち上がり、手を振り、歩いて去る。次の場所へ。


静かな時間が、戻ってくる。
少し、寂しいと感じている自分のほうが、よほど厄介だ。

昼食

12時。金彩亭。
「ロゼさん、お疲れ様です」「部門長、今日もお元気で」
店内に明るい声が飛び交う。ロゼさんが笑い、光を撒く。


わたくしは、その光の影へ深く潜り込む。彼女が隣にいる。それだけで「ロゼの大事な人」という不可侵の銘が、貼られる。

楽だ。声帯を震わせる必要すら、ない。
この寄生は、甘い劇薬だ。楽で、手放しがたい。だからこそ危うい。


「妹ちゃん」
わたくしを見つけた瞬間、彼女の視界が一人になる。

この人は、わたくしだけを見ている。
好みを、覚えていた。一つひとつ。恩恵は今、自分の側に置かれている。防壁が、ここでだけ下りる。

隣に座る。椅子が、古い木の音で軋む。

「今日は何にする?」
メニューを差し出す。何度も来ている。毎回同じものを頼むのを知っているはずだ。それでも、毎回、選ばせる。

「いつものスープを」

「私はシチュー」
オスカーさんへ注文する。


料理が来る。湯気。ハーブの匂い。

「美味しい?」
スプーンを運ぶ一点を、また見ている。

一口。「……はい」
声は、もうわたくしの意志ではなく、彼女の喜びに調律されている。調律の手を、自分では止められない。

「良かった」
朝も見た笑顔。芯から喜んでいる。


ロゼさんが一方的に話す。朝の図書室のこと。庭の整備。街で見た猫。
わたくしは短く相槌を打つ。それだけで、彼女は満ち足りる。

悪い時間では、ない。
善意で動いている。それは分かる。演技でも、計算でもない。純度の高い善意だ。

だから、スープを飲みながら、考える。
ロゼさんは有能だ。部門長として業務を完璧にこなし、評判も高い。そして、わたくしを守る。肯定する。無条件に、何があっても。
難点は、距離の近さ。「妹」という札。血は繋がっていないと、説明に窮する。
でも。


「妹ちゃん、大好き」

「……わたくしも」

初めて、こう返した。ロゼさんの顔が、灯る。瞳が瞬く。心底、嬉しそうだ。

これが、わたくしの選択。
演技ではなく、完全な本心でもない。打算の混じった、半端な返事。
歪んでいる。だが、機能している。互いが、互いから利を得ている。それで、いいのかもしれない。
答えは、伏せておく。


食事が終わる。オスカーさんに会計を頼む。
「またお待ちしております」


「午後は何するの?」
ロゼさんが訊く。また一緒に、と続くかと思ったが。

「もう少し、調べたいことがありまして」

「そっか」
頷く。少しだけ、目が翳る。だがすぐ、笑みが戻る。

「じゃあ、また後でね」

また後で、と言った。今日、何度目になる。朝、図書室、中庭、昼食。もう、四度。
会うのだろう。根拠のない予感ではない。型がある。この型は、外れない。

店を出る。日射しが眩しい。ロゼさんが手を振り、別の方角へ去る。


薔薇が、まだ服に残っている。
もう、気にならない。気にならなくなった自分のほうを、まだ量り直せずにいる。