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偶然という名の必然 ――午前――

朝の出会い

ノックの音。規則正しく、三回。

――ルームサービスを頼んでいたか。
朝食を食べに行こうと着替えたばかりだったが、昨日頼んでいた気もする。
危うく、スタッフを困らせるところだった。

従者が扉に向かう。取っ手に手をかけ、扉を開ける。

「おはよう、妹ちゃん♪」

(……なぜ)

ロゼさんの声が私の耳に届く。
おそらく聞き間違いでもない。

ホテルスタッフの服ではない。RACA警備部門の制服だ。
満面の笑みで。両手にトレイを抱えて。
朝食。確かに朝食だ。でも――。

「朝ごはん、持ってきたよ!」
トレイを掲げる。誇らしげに。
焼きたてのパン。野菜のスープ。果物。丁寧に盛り付けられている。
金彩亭のもの、だろうか。見覚えのある食器。

「ありがとうございます」
言葉が、自動的に出る。
でも、頭の中は疑問でいっぱいだ。

(ホテルのスタッフではない)
ルームサービスが来ると思っていた。
でも、来たのはロゼさん。
なぜ、朝食を――?

「入っていい?」
既にトレイを抱えたまま、一歩踏み込んでいる。
拒否する隙もない。タイミングも、勢いも。

「……どうぞ」
彼女は朝食を運んできた。拒む理由はない。

ロゼさんが部屋に入る。
軽やかな足取り。トレイを、テーブルに置く。
丁寧に。こぼさないように。音を立てないように。
まるで、ホテルスタッフのように。慣れた手つき。
「はい、どうぞ♪」

テーブルの上に、朝食が並ぶ。
パン。スープ。果物。ジャム。バター。
――充実している。豪華、いつもの朝食より豊か。

「一緒に食べよう?」
期待の眼差し。キラキラしている。
朝日を浴びた瞳が、本当に輝いている。

「……はい」
断れない。断る理由が見つからない。

(なぜ、こんなことを)
疑問は尽きない。でも、尋ねられない。
「なぜ朝食を運んできたのですか」とは、聞けない。
善意に対して、疑問をぶつけるのは――失礼だ。

椅子に座る。ロゼさんも向かいに座る。
顔の筋肉を定位置に動かす。微笑みの形を作る。
――演技。混乱を悟られないように。

「今日は予定ある?」
パンをちぎりながら、尋ねてくる。
当たり前のように。まるで、毎朝こうしているかのように。

「今日は特に……」
言葉が止まる。
(言ってしまった)
小さく息を吐く。口が勝手に動いた。

「じゃあお昼は一緒に♪」
私の言葉が終わる前から、もう決まっていたのだろう。この人の中では。
「12時に金彩亭で待ってるね!」

「……はい」
また断れなかった。この人の笑顔は、断りにくい。
純粋な善意が、拒絶を許さない。悪意がない分、余計に――。

スープを一口。
温かい。まろやかな味。野菜の甘み。
――美味しい。本当に、美味しい。
でも、複雑な気持ちだ。

(ホテルのスタッフでもないのに)
朝食を運んでくる。当たり前のように。自然に。
ここは警備が厳重なホテルだ。RACAの息がかかっている施設とはいえ……RACAの職員がトレイを持って入ってくるのはおかしい。
警備は、他のホテルスタッフは、ロゼさんを止めなかったのか……?
――異常事態のはずなのに。平和な朝食の会話が続いている。

異常なのか?もしかしたら、当たり前の風景だったかもしれない。
だんだんと自信がなくなってくる。

「美味しい?」
ロゼさんが覗き込む。私がスプーンを口に運ぶ瞬間を見ている。

「……はい」
小さく頷く。嘘ではない。本当に美味しい。
でも――この状況が、理解できない。

「良かった♪」
満面の笑み。心底嬉しそう。
私の反応を確認して、安心している。

朝食は静かに進む。
ロゼさんが時々話しかけてくる。天気のこと。今日の予定のこと。
私は短く返事をする。相槌を打つ。
それだけで、彼女は嬉しそうだ。

食事が終わる。
「ごちそうさまでした」
トレイを片付けようとする。でも――。

「私が持っていくよ!」
ロゼさんが立ち上がる。トレイを抱える。
「妹ちゃんはゆっくりしてて♪」

「いえ、私が――」
「大丈夫 大丈夫!」
もう、トレイを持っている。立ち上がっている。
浮遊魔法をかけたようにふわりとトレイが上がっていく。

「今日は図書室に行くの?」
扉の前で、振り返る。

「はい……調べたいことが、少し」
頷く。予定を話してしまう。隠す理由もない。

「そっか!じゃあね♪お昼、忘れないでね♪」
手を振って、部屋を出ていく。
扉が閉まる。静かに。


一人になる。
部屋に、静寂が戻ってくる。朝日が窓から差し込んでいる。

(……何だったのだろう)
テーブルを見る。綺麗に片付けられている。
朝食を食べた痕跡も、もう消えている。

(まあ、いいか)
――今日は、予定のない日。
図書館で資料を読んで、午後は部屋で休む。
誰にも会わない、静かな一日。だったはず。

予定通り、図書室に向かおう。
……あと、昼食の約束が一つ増えた。忘れないようにしないと。

図書室での再会

図書室は静かだ。
いつも通りの静けさ。足を踏み入れた瞬間、世界が切り替わる。
外の喧騒が、扉の向こうに置いてきぼりにされる。

朝の光が窓から差し込んで、埃が舞っている。
細かい粒子が、光の筋の中をゆっくりと漂っている。
古い紙の匂いがする。羊皮紙の、かすかな獣の匂い。インクの鉄錆びた匂い。
革装丁の、なめし革の匂い。時間の積み重なった匂い。


アンブローズさんが棚の前に立っている。
背中を向けて、本を整理している。大きな背中。オークの血筋特有のがっしりした体格。
一冊一冊、大切に扱っている。動作は丁寧で繊細。
この図書室の番人。無口で、寡黙な人。

「おはようございます」
声をかける。静寂を破らないように、控えめに。

「……」
アンブローズさんが振り向く。小さく頭を下げる。それだけ。
会話は最小限。 彼は必要なことだけ話す。

「古代文明の魔道具について……」
棚を見上げる。高い位置に並んでいる。背表紙が古びている。
金箔が剥がれて、タイトルが読みにくくなっているものもある。
「関連する資料を探しているのですが」

アンブローズさんが無言で高い位置の本を取る。
大きな手。ごつごつした指。でも、本を扱う動作は繊細で慎重。
まるで、壊れやすいガラス細工を扱うように。
司書として、何年もこの仕事をしてきた所作だ。経験が、動きに表れている。

「ありがとうございます」
本を受け取る。重い。歴史を感じる重さ。
羊皮紙の束。何百年も前の知識が、この中に詰まっている。

「……」
小さく頷いて、別の本を探し始める。黙々と。
棚の前を移動する足音だけが、静かに響く。


(良い人だ)
言葉は少ないが、協力的。必要なことは理解してくれる。
無駄な社交辞令もない。演技をする必要もない。
こういう人は安心できる。
――疲れない。

窓際の机に座る。
椅子が、わずかに軋む。古い木の、深い音。
本を開く。羊皮紙の、独特の手触り。ざらりとしていて、でも滑らか。



30分ほど経っただろうか。
古代の魔道具の記述。複雑な魔法陣の図。細かい文字。
目を凝らして読む。メモを取る。羽根ペンが、紙の上を滑る音。
メモの束をまとめて、いくつかに印をつける。後で参照できるように。

周囲の音が遠い、集中できている。
時間の感覚が、少し曖昧になっている。
――良い状態だ。勉強が捗る。


扉が開く音。

蝶番が、わずかに軋む。
静寂が、破られる。誰かが入ってくる。

足音。軽やかな足音。
知っている足音だ。

「妹ちゃん!」

(……また)

ロゼさんだ。
満面の笑みで駆け寄ってくる。足音が図書室に響く。
アンブローズさんが、わずかに眉をひそめた。
彼女の声はよく通る。そして大きい。図書館には最も適さない。

かかっている時計を見る。
昼食の約束をすっぽかしたわけでもない。まだ11時にもなっていない。
……私が目的ではない、はず。

アンブローズさんがそっと離れる。
棚の影に移動する。姿が見えなくなる。

「巡回中なの♪」
ロゼさんが棚を覗き込む。興味津々の表情。
背表紙を見て、タイトルを読もうとしている。
「偶然だね!」

彼女は警備部門長。
巡回するのは当然の職務。
図書館も含めたこの区画の警備は、彼女の責任範囲だ。
貴重な資料が収められているこの図書館も、重要な警備対象だ。
定期的に巡回するのは、むしろ当然だろう。
(偶然、だろう)
そう思うことにする。そう思っておいた方が気が楽だ。

「図書室の警備、問題なし!」
アンブローズさんの方を向いて報告するように言う。きびきびした動作。
背筋を伸ばして、敬礼のような仕草。
警備部門長としての職務意識が高い。真面目な人だ。

「……」
アンブローズさんが小さく頷く。棚の影から、わずかに姿を見せて。
無言の了承。それだけ。また、棚の向こうに消える。

「妹ちゃん、何探してるの?」
距離が近い。いつも、この人は距離が近い。
肩が触れそうなくらい。体温が分かりそうなくらい。
パーソナルスペースという概念がないのだろうか。

「古代の魔道具に関する資料を……」
本を見せる。開いていたページ。複雑な魔法陣の図。
説明するのは面倒だが、彼女は興味を持っているようだ。無下にはできない。

「難しそう!」
目を輝かせる。本当に興味を持っているのか、私と話すのが嬉しいのか。
多分、後者だろう。この人は、内容より相手を見ている。
「お姉さんも手伝おうか?」

「大丈夫です」
丁寧に断る。微笑みを浮かべて、でも断る。
「アンブローズさんが手伝ってくださっているので」

「そっか!」
納得したように頷く。すぐに切り替える。
この人の切り替えは、いつも速い。
悩まない。引きずらない。
「じゃあ邪魔しないね♪」

「お昼、忘れないでね♪」
念押しして、手を振って去っていく。
足音が遠ざかる。扉が閉まる。静けさが戻る。


アンブローズさんが戻ってくる。
無言で、別の本を差し出す。
こちらの調べている内容を理解して、関連書籍を選んでくれている。
さっきの会話を、棚の向こうで聞きながら選んでくれたのだろう。
――気が利く。本当に。

「ありがとうございます」
受け取る。また、重い本。古い本。

(……2回目)
でも、まあ、彼女は警備部門長だ。
巡回するのは当然。図書室も巡回ルートに入っているのだろう。
朝に会って、巡回中にまた会う。
――珍しいことではない。多分。

中庭での休息

11時頃。
図書室での作業に疲れた。細かい文字を追い続けて、頭がボーッとしてきた。
羊皮紙の古い文字。薄れかけたインク。目を凝らさなければ読めない。
首も凝っている。肩も重い。

気分転換に中庭へ。
図書室の扉を出る。廊下を歩く。階段を降りる。
中庭の扉を開ける。


外の空気が、心地よい。
温かい日差し。でも、風が涼しい。ちょうど良い温度。
鳥の声が聞こえる。さえずり。遠くから、近くから。
木々の葉が、風に揺れている。ざわざわという音。

ベンチに座る。
木陰が、顔に落ちている。涼しい。でも、暗すぎない。
ちょうど良い明るさ。ちょうど良い涼しさ。

深呼吸。
8秒吸って8秒吐く。
肺に新鮮な空気が満ちる。
胸が広がる。身体が、わずかに軽くなる。
鳥の声が聞こえる。風が頬を撫でる。髪が、わずかに揺れる。


目を閉じる。
視界が暗くなる。聴覚が、少し敏感になる。
風の音。葉擦れの音。遠くの、誰かの話し声。
――平和だ。穏やか。

(静か)
久しぶりに一人の時間。誰にも話しかけられない時間。
顔の筋肉を、定位置に固定しなくていい時間。
木々は、風は、鳥は、青空は、嘘をつかなくていい相手だ。
これが――欲しかった。


「妹ちゃん!」

(……また)

目を開ける。
遠くから声。明るい声。知っている声。
中庭の向こうから、ロゼさんが駆け寄ってくる。
足音が、石畳に響く。弾みのある、リズミカルな音。
だんだんと大きくなっていく。力強い足音。

今日、3回目。
朝、ホテルの前で。図書室で。そして、今。
(巡回範囲、広すぎでは……)
王立学術院は広い。そんなに頻繁に会えるものだろうか。

「こんなところで♪」
隣に座る。ベンチが少し沈む。彼女の体重が加わって。
距離が近い。いつも、近い。肩が触れそう。
走ってきたからか、息が少し上がっている。
肺の動きすら感じ取れそうな距離に、緊張していしまう。
「偶然だね!」

「……はい」
もう何も言えない。偶然、を信じることにする。
他に説明がつかない。彼女が私を追跡している……とは、思えない。
ただ、巡回範囲が広いだけ。そう思うことにする。

本当に偶然だろうか。でも、確証はない。
警備部門長として、施設全体を見回っているだけかもしれない。
(……分からない)
考えても仕方ない。答えは出ない。

「中庭、気持ちいいよね♪」
空を見上げる。青い空。白い雲。
雲が、ゆっくりと流れている。風に乗って。
「妹ちゃんと一緒だともっと気持ちいい!」

「そうですね」
諦めの境地。抗っても仕方がない。
一人の時間は、終わった。もう、諦めた。

「あ、そうだ!」
急に思い出したように。でも、本当に今思い出したのだろうか。
演技には見えない。
「お昼、12時だよね?忘れてない?」

「忘れていません」
朝に会ったばかり。少し前に図書館でも会った。
そして、今も会っている。
忘れるわけがない。記憶から薄れる暇もない。

「良かった♪」
満足そうに微笑む。心底ホッとしている表情。
まるで、私が約束を忘れてしまうことを本気で心配していたかのように。
「じゃあ、また後でね!」

立ち上がって、手を振って去っていく。
今度は、ゆっくりと。走らない。歩いている。
巡回を続けるのだろう。次の場所へ。
足音が遠ざかる。姿が見えなくなる。


静かな時間が戻ってきた。
でも、それでも――ベンチに座ったまま、空を見上げる。

雲が流れている。ゆっくりと。形を変えながら。
風が吹いている。穏やかに。髪を揺らしながら。
鳥が鳴いている。木々が揺れている。

(偶然、ではないかも)
でも、確証はない。
巡回の範囲が広いだけかもしれない。
それとも――わざと?
私を探して、会いに来ている?

(……まあ、いいか)
答えは出ない。考えても仕方ない。

昼食

12時。
金彩亭。
扉を開ける前に、深呼吸。顔の筋肉を、定位置に動かす。微笑みの形を作る。
多くの職員が食事をしている、気を抜けない。
私は完璧でなければならない。


店に入る。
温かな光が店内を照らしている。暖炉の火。窓からの日差し。
木のテーブル。磨かれた床。清潔な店。
客が数人。話し声。食器の音。穏やかな雰囲気。

料理の匂いが鼻をつく。
スープ。肉。パン。ハーブの香り。
朝食から時間が経っている。……香りが空腹を刺激する。

ロゼさんが既に待っている。
カウンター席。背筋を伸ばして座っている。
私を見つけて、顔が輝く。
満面の笑み。手を振る。
嬉しそうだ。本当に、心から嬉しそうだ。
待たせたかもしれない。もう少し早く来ればよかった。

「妹ちゃん!」
声が弾んでいる。周囲の客が、少し振り返る。
でも、ロゼさんは気にしていない。私だけを見ている。

「こんにちは」
隣に座る。いつもの席。
椅子が、わずかに軋む。木の、深い音。

「今日は何にする?」
メニューを見せてくる。
何度も一緒に来ている。私がいつも同じものを頼むのは知っているはず。
それでも、毎回尋ねてくれる。選択肢を与えてくれる。
――優しい人だ。

「いつものスープを」
予想通りの答え。彼女も、予想していただろう。

「私はシチュー♪」
オスカーさんに注文する。穏やかな人で、いつも笑顔で対応してくれる。


料理が来る。
温かいスープ。湯気が立ち上る。野菜の匂い。ハーブの香り。
パン。焼きたて。表面がカリッとしている。
匂いだけで食欲をそそる。胃が反応する。

「美味しい?」
ロゼさんが覗き込む。私がスプーンを口に運ぶ瞬間を見ている。
期待の眼差し。まるで、自分が作ったかのように。

スープを一口。
温かい。まろやかな味。野菜の甘み。塩加減がちょうど良い。
喉を通る。胃に落ちる。身体が、わずかに温まる。

「……はい」
小さく頷く。本当に、美味しい。
嘘ではない。社交辞令でもない。

「良かった♪」
自分のことのように喜ぶ。
満面の笑み。目尻に皺が寄る。
――この人は、他人の幸せを、自分の幸せのように感じるのだろう。


ロゼさんが一方的に話す。
今朝の巡回のこと。「図書室で妹ちゃんに会えて嬉しかった!」
部下のこと。「新人がまた失敗しちゃって」
訓練のこと。「今日の午後は剣の稽古があるの」
新人が失敗した話。街で見かけた猫の話。

私は短く返事をする。
「そうですわね」「それは良かったですわ」「素晴らしいですわね」
相槌を打つ。話を聞く。
それだけで、彼女は嬉しそうだ。
私の反応を、一つ一つ確認している。笑顔が、消えない。

(悪い時間ではない)
彼女は善意で動いている。それは分かる。
私と一緒にいることを、本当に喜んでいる。
演技ではない。計算ではない。純粋な善意。
だから――受け入れよう。拒む理由がない。

食事が終わる。
オスカーさんに会計を済ませる。
「またお待ちしております」
穏やかな声。優しい笑顔。

「午後は何するの?」
ロゼさんが尋ねる。期待の眼差し。
また一緒に、と言われるかと思ったが――。

「もう少し、調べたいことがありまして……」
正直に答える。隠す理由もない。

「そっか!」
納得したように頷く。でも、少し残念そうだ。
目が、わずかに曇る。でも、すぐに笑顔に戻る。
「じゃあ、また後でね♪」

「はい……?」
また後で、と言った。
――また会うのだろうか。今日、何回目になる?


別れる。
店の外に出る。日差しが眩しい。
ロゼさんが手を振って、別の方向へ去っていく。
足音が遠ざかる。

でも、きっと――また会うのだろう。
そんな予感がする。根拠のない予感。
でも、外れない気がする。