絵本の鑑定書

PREVIOUS PART 『わたしをかぶってください』 前編を読む

「確認していただきたい箇所が二つあります」
ヴァレリアさんはそう言って、三種類の紙を机へ置いた。
一番下には、わたくしたちが提出した鑑定書。
その上には、文章をびっしりと転写した業務用紙。赤い線と書き込みが、行間から余白まで伸びている。
最後に、小ぎれいな便箋が数枚。淡い生成りの紙で、端には細い飾り罫がある。こちらには、赤がない。

「ゴールドマンさんの?」
「原文です」
ヴァレリアさんが便箋を示し、次に赤字の紙へ指を移した。
「こちらが私の転写です。正式文書へ移行できる内容を確認するため、原文は変更していません」
「なるほど」

原資料には触れない。ヴァレリアさんらしい。
便箋を取った。業務用紙より薄く、縁がわずかに柔らかい。

最初の一行は、思っていたより明快だった。
『結論から言えば、これは子供へ読み聞かせるために作られた話でしょう。』
続いて、
『書いた人は素人です。少なくとも、専門的に劇作を学んだ人の組み方ではありません。』
そこまでは容赦がない。

けれど、その次から言葉の向きが変わった。
『普通の脚本なら、同じ台詞をここまで近いところへ何度も置きません。場面の移り方も妙ですし、人物を区別するための情報もかなり少ない。ただ、音読会で子供たちに読み聞かせるのであれば、これでも成立するでしょう。』

頁をめくる。
『花が言えば、次は動物が言う。動物が言えば、次は子供が返す。二度目からは、言葉を覚えている子もいるかもしれません。三度目なら、先に言ってしまう子もいるでしょう。整理された書き方ではありませんが、順序はよく考えられています。技法の名前を知らずに、絵本らしい表現をこなせています。』
素人。その判定そのものは、一度も撤回されていない。
ただ、素人であることと、何も考えていないことが、ゴールドマンさんの中では別々に置かれている。

次の頁で、帽子が出てきた。
『中でも、帽子の話は面白い。』
いかにもあの人らしい。

『三つの帽子が順番に自分を勧めるので、聞き手は三回とも同じ遊び方ができます。話の先が分かることが欠点になっていない。ここだけ何度も読まれたという保存部門の所見とも、よく合います。』
そこまでは、前編で分かったことの別解だった。

その次で、初めて知らない名前が出た。
古い歌謡曲だった。題名には覚えがない。
けれど、ゴールドマンさんは当然のように、
『五十年ほど前に流行した歌があります。帽子の話を読んで、最初に思い出したのはあれでした。』
と書いている。

続く数行には、歌の筋が短くまとめられていた。
若い女性が外出を前に服を決めかね、何度も鏡の前へ戻る。帽子たちが女性に、自分を勧めた。最後の一つだけは、どれを選んでも似合うと彼女を送り出す。
そこまで読んでから、机の上の小さな本を思い出した。

笑う三つの帽子。
『わたしをかぶってください』
『つぎは、わたしをかぶってください』
『あなたによくにあいます』

似ている。

帽子が喋る、という一点だけではない。
複数の帽子が順番に語りかけ、着用を勧め、最後には選んだ人物を肯定する。筋の骨が同じだった。

『もちろん、こちらの本からは恋の話がきれいに抜けています。』
ゴールドマンさんの字が、そこから少し大きくなる。

『残ったのが、帽子と話をする楽しさなのでしょう。恋へ送り出していた帽子たちを、子供の前へ連れてきた。そう考えると、この奇妙な挿話の形にはかなり説明がつきます。作者がこの歌を知っていて、モチーフとして借りて話を作った。私はそんな順番を想像しました。』
『子供たちは、帽子が喋るたび笑ったんじゃないかな。少なくとも、何度も同じページを開かせるだけのものはあったのでしょう。』

最後の一文まで読んで、便箋を置いた。

「ずいぶん遠くまで行かれましたのね」
「ゴールドマン部門長ですから」
ヴァレリアさんは、それだけ答えた。


赤字の転写稿を取る。同じ文章だった。
ただし、同じなのは最初だけだ。

『書いた人は素人です』
訂正が入り、余白へ、
『専門的な劇作教育を受けた制作主体とは考えにくい』 とある。

「こちらまで?」
「『素人』では、どの技能が欠けているのか分かりません」
「ごもっともです」

読み進める。

反復構造についての文章は整理され、
『反復される台詞と予測可能な問答構造により、聞き手が発話へ参加しやすい構成となっている』
へ変わっていた。

赤字の訂正はいたるところにあり、その訂正文は罫線のように行間に敷き詰められている。

そして、歌謡曲。
『五十年ほど前に流行した歌があります』
は横には、
『王国暦五十年代前半に流行。最盛期は同五十二年前後』
とある。

「ここまで調べ直されたのですか」
「出版記録と当時の興行資料を照合しました」
「五十年ほど前でも、間違いではございませんでしょう?」
「間違いではありません」
ヴァレリアさんは即答した。
「ですが、記録が残っています」

それ以上の理由は必要ないらしい。

ゴールドマンさんの「五十年ほど前」と、ヴァレリアさんの「王国暦五十年代前半」。
指している時間は同じだった。
片方は、人が振り返る時間。もう片方は、資料棚から引き出せる時間だった。

さらに読む。

歌謡曲との比較そのものは、ほとんど削られていない。
帽子が複数であること。順番に発話すること。着用を勧めること。最後に選択した人物を肯定すること。
その一致を根拠として、
『当該話は、王国暦五十年代前半に流行した歌謡曲から着想を得た可能性が高い』
とまとめられている。

続けて、
『したがって、本書の制作時期は少なくとも同歌謡の流行以降と推定できる』
ここには赤がない。

「年代資料として使えますわね」
「はい」

アンブローズさんが紙と綴じ糸から出した年代と、矛盾しない。古代ではない。
その結論へ、今度は歌が別の道から辿り着いている。

一方、その下は赤かった。
『作者がこの歌を知っていて』
『モチーフとして借りて話を作った』
その横には、
『制作主体の経歴を裏付ける資料なし』
とある。

「容赦がございませんのね」
「推測を推測のまま転記する理由がありません」
「ええ」

そこは異論がない。

次も同じだった。
『子供たちは、帽子が喋るたび笑ったんじゃないかな』
余白に、
『反応記録なし』

『何度も同じページを開かせるだけのものはあったのでしょう』
こちらは前半だけが残され、
『当該頁に他頁を上回る反復閲覧の痕跡あり』
へ置き換えられている。

笑ったかどうかは分からない。開いたことなら分かる。

転写稿の最後に、一文だけ、赤線も修正文もない箇所があった。
『技法の名前を知らずに、絵本らしい表現をこなせています。』

「こちらは?」

ヴァレリアさんが紙を見る。
「正式文書には移しません」
「修正は?」
「必要ありません」
「では、不適切ではない?」
「不適切とは言っていません」

紙を机へ戻した。
赤線を引けば、誤りになる。
何も引かずに外せば、正式な鑑定結果ではないだけだ。


五十年前の歌。緊張して帽子を選べない女性。順番に話しかける帽子たち。
そこから恋だけを取り除き、子供が先回りして言えるほど単純な話へ作り替えた誰か。
その誰かが若かったのか、年老いていたのかは分からない。
礼拝所で読み聞かせをしていたかどうかも、まだ推測の域を出ない。
分かるのは、歌が先にあったこと。その歌とよく似た筋が、本の中にあること。
そして、そのページが何度も開かれたこと。
それだけで十分だった。

少なくとも、わたくしの鑑定には。

「ゴールドマンさんの所見については、これでよろしいと思います」
「では、転写内容を正式資料へ反映します」

ヴァレリアさんが一番下の鑑定書を引き寄せた。
「もう一点はこちらです」

魔術的異常なし。宗教資料として積極的に支持する根拠なし。
廉価な紙と簡易な製本。複数回の補修。反復使用の痕跡。
演劇部門からの照会結果として、児童への読み聞かせを目的とした物語である可能性が高いこと。
王国暦五十年代前半の歌謡曲を下限とする年代推定。

前編で散らばっていたものが、随分と狭いところまで集まっていた。

市場評価の欄で手が止まる。
元の案には、市場価値を認めないとあった。
代わりに、一般市場での流通は困難と考えられる。

「こちらですか?」
「はい。私は、この表現が適切だと判断しました」
「理由を伺っても?」
「著者不明。保存状態は不良。希少な制作技法も確認できません。一般的な収集市場で価格を形成するだけの需要も見込めないでしょう」
ヴァレリアさんの指が、次の行へ移る。
「ただし、それは『価値がない』ことを証明しません。私たちが確認できるのは、通常の市場流通が困難であることまでです」

わたくしはもう一度、二つの文章を見比べた。
ヴァレリアさんなら、短くできる。

「ずいぶん遠回しになさいましたのね」

琥珀色の目が上がった。
「遠回しではありません」
「ええ」
「意味が違います」
「もちろん」
「でしたら問題はないでしょう」


机の上には、三種類の紙が残っている。
公式の鑑定書。赤字の転写稿。灰青の文字が並ぶ便箋。


「ヴァレリアさん」
「何でしょう」
「『価値がない』とは、お書きになりたくなかった?」

赤ペンが止まった。

「文書上、必要のない断定を削っただけです」
「そうですか」
「そうです」

便箋へ目を戻した。
ゴールドマンさんの文章には、正式鑑定へ移らなかった行がいくつもある。
子供たちの笑い声。昔の恋の歌を、別の誰かへ渡したのではないかという想像。どれも証明できない。
ヴァレリアさんの転写稿から落ちるのは当然だった。

それでも、元の便箋には残っている。

「こちらも一緒にお返ししてはいかがでしょう」

ヴァレリアさんが顔を上げた。

「原文を?」
「ええ」
「正式鑑定へ採用できない推測を含んでいます」
「ですから、正式鑑定とは分けます」
「参考所見として?」
「ゴールドマンさん個人の専門所見として」



しばらく返事がなかった。

ヴァレリアさんは生成りの便箋を一枚持ち上げる。

そこには、
『子供たちは、帽子が喋るたび笑ったんじゃないかな。』
とある。

彼女は、その文章を読んだ。原文なので赤線はない。

「この部分も残ります」
「残りますわね」
「裏付けはありません」
「ええ」
「RACAの見解とは読めないようにする必要があります」
「その方がよろしいでしょう」

便箋が机へ戻る。


「発信者はゴールドマン部門長個人と明記します」
「はい」
「正式鑑定とは別紙。添付資料目録にも分離して記載します」
「ええ」
「保存義務についても、本紙とは区別します」
「お願いします」

赤ペンの先が、便箋の上まで来た。
止まる。

そのまま引き返した。

「……同封します」
「承知しました」
「参考所見としてです」
「もちろん」

ヴァレリアさんは新しい封筒を一つ取り出した。赤字の転写稿は、正式書類の側へ。
ゴールドマンさん本人の便箋だけを、別の封筒へ入れる。

最後に、
『参考所見 一式』
と書いた。

文字は簡潔だった。その下に番号を振ろうとして、手が止まる。

「……三枚ですね」
「三枚ですわ」
「なら問題ありません」


安い紙で作られ、何度も破れ、何度も一冊へ戻された本。
その返書には、RACAの正式な紙が入る。
その外に、赤字の編集稿。
さらにもう一つ。五十年ほど前、と書かれたままの便箋。

「これで返送できます」
「ええ」
「紛失しないよう、別紙番号を振っておきます」
「それがよろしいでしょう」

小ぎれいな便箋だけが、正式書類よりほんの少し小さかった。