わたしをかぶってください

古書

「古い本があるんです」

その一言だけなら、図書館では珍しくもない。
ページを繰る手を止めたのは、続いた言葉のためだった。

「礼拝所から出てきたもので。由緒が、どうにも分からなくて」
向かいに立つセシルさんの袖から、乾燥させた薬草の匂いがした。
今日は研究室用の前掛けまでつけたままだ。
資料を探しに来ただけのつもりだったのだろう。腕には既に三冊ほど抱えている。

開いていた文献へ栞を挟んだ。
「どちらの礼拝所ですの?」

「王都から南へ二日ほどの村です。改修工事で、大きな書棚を壁から外したら、裏から落ちてきたそうですよ」
「まあ」
「手書きです。彩色もされています。かなり褪せていますけど」

古い礼拝所の書棚の背後から出てきた、手書きの彩色本。
そこまで揃えば、古い宗教資料を疑うのは自然だった。

「魔力は?」
「ありません。そこは確認しました」
「残滓も?」
「見つかっていません」

セシルさんは抱えた本を持ち直した。

「それで余計に困ってるんです。祭式書なのか、宗教教育に使われたものなのか。それとも、もっと別の……」
「別の?」
「研究室では、いろいろと」

その言い方で、おおよその状況は察せられた。
専門家が複数人集まり、正体不明の資料を囲んだ時に起きることは、大抵二つしかない。
誰かが答えを見つけるか。
誰も答えを見つけられないまま、仮説だけがよく育つか。今回はこちららしい。

「現物を拝見しても?」
「もちろんです。むしろ、それをお願いしに来ました」

棚の奥で、紙が擦れる音が止まった。
視線を向ける。アンブローズさんが、返却本を一冊抱えたままこちらを見ていた。
正確には、こちらではない。
セシルさんの腕にある本の背を見ている。

「どうかなさいました?」
答えはなかった。

セシルさんも慣れているらしい。
「古い本の話です」

アンブローズさんの目が動いた。

「礼拝所で見つかった本で。かなり傷んでいて、綴じも外れかけてるんですよ」
「……現物」
「研究室です」
「……見る」

それだけだった。

セシルさんがわたくしを見る。
「ご一緒します?」

アンブローズさんは、既に返却本を棚へ戻していた。
聞くまでもないらしい。

育った仮説

研究室の扉を開ける前から、話し声は聞こえていた。


「だから、三種類あること自体に意味があるんじゃないか?」
「三階位とするなら、二人目の人物が途中で別のものを被っているのが……」
「そこは叙任前後を示している可能性が」
「でも、それなら花の配置は?」

ここはいつも賑やかだ。
扉を開ける。

中央の大机を囲んで、四人ほどが身を寄せていた。
その中心に、一冊の本がある。
ボロボロだった。古い、という印象より先に、その言葉が出た。
表紙は淡い褐色に退色し、角は丸く潰れている。
背には異なる色の糸が二種類。表紙の内側へ別の紙が貼られ、その紙もまた端から浮いていた。

アンブローズさんがわたくしの横を通り過ぎた。
彼の猫背が伸びる。
「……触るな」

机の周囲にいた研究員たちの手が止まった。

セシルさんが咳払いをする。
「ミセリコルデさんをお連れしました。それと、アンブローズさんも」
「助かります、顧問さん」

若い研究員が椅子を空けた。
「いま、ちょうど図像の話をしていたところで」
「ええ。廊下から聞こえておりましたわ」

座る。
本にはまだ触れない。

まず、開かれているページを見る。
庭らしき場所に、二人の子供と、年上の女が立っていた。
子供の顔はよく似ている。というより、同じだ。髪型と服の色だけが違う。

隣には、顔のついた花。その下へ、丸みのある大きな文字で、
『きょうは、とてもよいあさです』とある。

次の人物も、『ええ、とてもよいあさです』
さらに花が、『おはなも、とてもよいあさだといっています』と言っていた。

「ここです」
研究員が身を乗り出した。
「朝の反復。祭式の開始句ではないかと。花が応答するのは、精霊か神格の媒介を表している可能性があります」
「そうですか」

ページをめくる。
今度は道だった。
道の脇に動物がいる。犬か、狼か。
顔は先ほどの子供によく似ていた。
『きょうは、とてもよいあさです』

「この動物も同じ言葉を返すんです。ですから、祭式に参加する者が順に応答する構造ではないかと」
「なるほど」

さらにめくる。
家、庭、道、そしてまた家。
背景は三種類ほどの繰り返しだ。

「この空間の反復も気になっていまして」
別の研究員が言う。
「現世と聖域を同一構図で描くことで、両者の連続性を……」
「興味深い仮説ですわね」

ページの縁へ指を添える。
筆圧と線の揺れを追う。薄く残った下書きにも、同じ形がある。
窓も床線も庭柵も、寸法までよく似ていた。
使い回している。

「トレーシングでしょう。少なくとも背景は、同じ原図を何度も描き写しています」
「……象徴ではなく?」
「象徴である可能性を否定は致しません。ただ、制作上の省力化のためにトレーシングしていることは確実かと」

めくる。

子供の次に花が出て、動物、食べ物、歌、そしてまた朝へ戻る。
同じ語彙が繰り返される。
同じ人物が、同じ顔の角度で、同じ口角の上げ方で笑う。
文章と絵の対応は明瞭だった。
明瞭すぎる。

秘教文書なら、表の文章と裏の意味を結ぶ規則があるはずだ。
それが見当たらない。
花の色には統一がなく、動物の登場順にも既知の祭式との対応がない。
人物配置も崩れる。
反復される語は同じなのに、場面ごとの機能が変わっていない。

隠しているのではない。
書いてあることしか書いていない。

「この帽子はどうでしょう」
左右から声が来た。

ページをめくる。

三つの帽子が並んでいる。
どれにも顔があった。
歯まで描かれていた。

『わたしをかぶってください』

『つぎは、わたしをかぶってください』

『あなたににあいます』

しばらく見た。
帽子の口だけ、妙に丁寧だった。白い歯が一本ずつ描き込まれている。
一方、子供の手には指の本数すら怪しいところがある。

「三種類です」
先ほどの研究員が言った。
「冠位や役職を表すものではないかと」
「その場合、こちらの人物が二種類を着用する理由が必要ですわね」
「昇格、あるいは役目の交代という可能性は……」

次のページをめくる。

同じ帽子を、別の子供が被っていた。
帽子の輪郭を追う。輪郭の歪みも、飾りも、口の形も同じだった。
「帽子は三つとも書き移し。元の型は一つとみていいでしょう。そして、同じ型の色違いの帽子を子供たちの間で交換して……?」
言葉に詰まる。いや、思考が手詰まりを起こした。

祭式。
秘教。
階位。
どれも、成立しないわけではない。ただ、成立させるためにはあまりにも遠すぎる。
良い仮説は、証拠が増えるほど見通しが良くなる。
悪い仮説は、証拠が増えるたび霧がかかっていく。
この部屋は不確定の濃霧の中だ。
……そして、わたくしも濃霧の中で迷子になった。

修繕案

最後のページまで読んだ。

裏表紙には何もない。
書き込みも、署名も、刊記もない。
作者が誰で、どこで作られ、いつ出回ったのか。その問いに答える言葉の居場所が、どこにもなかった。

本を閉じかけて、手を止める。
アンブローズさんが見ていた。
わたくしではない。手元の本を。
視線は背の裂けた箇所へ落ち、右手にはいつの間にか小さな鋏が握られていた。細い刃を持つ、綴じ糸を外すためのものだ。
刃は閉じている。

「直したいのですか」
「……かなり」

今日、彼から聞いた言葉の中では随分と強い。

セシルさんが本と鋏を見比べた。
「修復できそうです?」
「……できる」
アンブローズさんは答えてから、鋏を置かなかった。

「……でも、今はしない」
「依頼品ですものね」
「……許可が要る」
それでもアンブローズさんの目は、もう修復の順番を決め始めている。

背を支え、綴じ目を覗き込む。
「……まず、糸」

若い研究員が身を寄せた。
「歴史的な本です。綴じ糸も歴史資料として保存した方がいいんじゃないですか?」
「……これは古くない」
「え?」

アンブローズさんが糸を指した。
褐色へくすんではいるが、擦れた部分にはまだ色が残っている。
「……後から替えてる」

本を開き、折り目の奥を示す。使われていない小さな穴が、いくつか並んでいた。
「……前は、こっち」
「綴じ直されてる?」

頷く。
「……二回以上」
「では、修復歴があるんですね」
「……ある。でも、上手くない」

研究員が眉を上げた。
「分かるんですか?」

アンブローズさんの指が、裂けた綴じ穴の脇で止まる。
「……穴がずれてる。糸も太い」
紙には触れず、影だけを落とす。
「……引っ張ってる。だから、ここから裂ける」

裂け目の先には、古い補修紙が貼られている。
その補修紙の縁から、さらに新しい傷みが伸びていた。

直した。
そして、その直し方のせいで別の場所へ負担が移った。
それでも本は捨てられず、また一冊の形へ戻されている。

「なら、今度はきちんとした保存用紙を使った方がいいですね」
別の研究員が言った。
「せっかく古い本なんですから、上等なものを」
「……だめ」

即答だった。

「駄目?」
「……強すぎる」

アンブローズさんがページの端を持ち上げる。
「元の紙が弱い。丈夫なのを貼ると、次は境目が切れる」
「でも、補修するなら丈夫な方が」
「……補修したところだけ長持ちしても、意味がない」
彼はページを透かすように角度を変えた。
「厚さも合わせる。色も。繊維も近いもの」

そこで研究員が、声を落とした。
「そんなに良い紙じゃないんですか」
「……安い」

簡潔だった。

机の上に積まれた古写本の研究書が、また少しだけ場違いになる。

「古代の写本としては、という意味ですか?」
「……古代かどうかは知らない」
アンブローズさんは紙しか見ていない。
「でも、これは安い」

ページを数枚進める。

「……ここと、ここも違う」
「何が?」
「紙」

見れば、厚みが揃っていない。白さも違う。
一枚には、絵の下へ消え残った細い罫線があった。別の用途に使うつもりだった紙を、そのまま綴じたらしい。

「一括して写本用に仕入れた紙ではなさそうですわね」
わたくしが言うと、アンブローズさんが頷いた。

研究員がすぐに返す。
「でも、地方の礼拝所なら予算がなかっただけかもしれません」
「ええ」
その可能性は落とせない。
「廉価な材料であることと、宗教的用途であることは別問題ですわ」

セシルさんも頷いた。
「手作りの教科書なら、安い紙でも不思議ではないですね」
「そうでしょうね」

宗教書であるという仮説は、随分と痩せた。
けれど、まだ立っている。

アンブローズさんは返事をせず、ページを一枚ずつ見ていた。
修復するなら、どこを先に安定させるか。折れや裂け、汚れ、綴じ穴を順に追っている。
内容ではなく、損傷の分布を読んでいる。


やがて手が止まった。

「……ここ」
帽子のページだった。三つの帽子が歯を見せている。

『わたしをかぶってください』

『つぎは、わたしをかぶってください』

『あなたににあいます』

「先ほどのページですね」
「……一番ひどい」
下端を示す。
「……ここ、持ってる」
紙の繊維が一方向へ寝ている。
「押さえるんじゃなくて?」
「……引いてる」
綴じ側へ移る。
「こっちは、開きすぎ」
古い補修紙。その上から新しく走った裂け。
「……直したあとも、また使ってる」
「何度も?」
「……かなり」

若い研究員が帽子を見た。
「やっぱり、重要なページだったんじゃないですか?」
宗教的な意味で。言葉にされなくても分かる。
「祭式の中で頻繁に参照する箇所だったとか。帽子が何か重要な位階を」

「でも」
セシルさんが遮った。彼女はページの端を見ていた。
「それなら、この扱い方はおかしくありませんか」

研究員が振り返る。
「おかしい?」
「大切なを教えるページでしょう?」

セシルさんは帽子を指ささず、その周囲の傷みへ視線を巡らせた。
「小さな子だとしても、こんな使い方はさせませんよ……だって、大切な教えを描いたページですから」
柔らかな声だった。だからこそ、否定が残った。
「少なくとも、私なら止めます」

もう一度、帽子を見る。
位階を示すという仮説は、既に図像の整合性を失っている。
色も着用者も一定せず、他の挿話にも同じ体系は出てこない。
そこへ使用状況まで加わった。
重要な宗教的象徴だったとする方が、説明しなければならないことが増える。

「……これで、ひとつ材料が揃いましたわね」

セシルさんがこちらを見る。
「教育書ではない、と?」
「断定はいたしません」

本へ視線を戻す。
「ただ、宗教教材として読む場合、内容と材料と使用状況の三つが、互いに支え合っておりません」

安価な寄せ集めの紙。
専門家ではない手による綴じと補修。
教義体系へ結びつかない帽子。
その帽子の頁だけに集中した、引かれ、押され、何度も開かれた跡。

それより。

最初の頁へ戻す。
朝、花、同じ言葉、動物、食べ物、帽子。
そして、物語。
その言葉を、初めて別の意味で見た気がした。
今まで、誰も内容を読んでいなかったわけではない。

むしろ読みすぎていた。
花は何を象徴するのか。
朝は何の儀礼なのか。
帽子は何の位階なのか。
問いの形が、最初から決まっていた。


「ゴールドマンさんへ回しましょう」

研究員が顔を上げた。
「演劇部門へ?」
「ええ」
「でも、礼拝所の資料ですよ?」
「発見場所は、そうですわね」
「宗教の専門家じゃなく?」
「それを確認するために、宗教以外のところへ渡すのです」

本を閉じる。

「魔術的な異常は既に確認されていない。宗教文書としての整合性も薄い。保存上の状態についてはアンブローズさんが見てくださった」

アンブローズさんは、まだ帽子の頁を見ている。

「残っているのは、文章そのものですわ」

セシルさんが首を傾けた。
「文章そのもの?」
「物語として読んだ場合、この反復や会話が何をしているのか。誰に向けた構成なのか」
そこは、わたくしの領分ではない。
「劇作法の視点から一度評価していただく方がよろしいでしょう」

若い研究員が本を見る。
「……物語として」
別の職員が呟いた。
「そういえば、帽子が何を象徴するかしか考えてなかったな」

「帽子が喋る理由じゃなくて、帽子が喋ると面白いかどうか、ですか」
セシルさんが帽子を見て、笑った。
「神学では、あまり使わない問いですから」
「魔法学でも同じですわね」


そこでようやく、椅子から離れた。
机の上には、失伝宗派の目録や地方祭式の比較表、古代の冠位を扱った図録、識字率と宗教画の関係を論じた論文が積まれている。
帽子が三つ笑っている本一冊を囲むには、随分と立派な陣容だった。

「……ものごとを深く考えすぎてしまうのは、わたくしたちの職業病なのかもしれませんね」

研究員の一人が肩を落とした。
「見落として、部門長に怒られるよりはいいですよ」

別の声が続く。
「『考えすぎました』なら報告書一枚で済みますし」

セシルさんが笑う。
「神様も、考えなかったことより考えすぎたことの方は、たぶん大目に見てくださいますよ」

「それは、何よりですわ」


アンブローズさんだけは聞いていなかった。
片手には、とうとう使われなかった小さな鋏が残っている。
閉じた刃の先で、切ることのできない綴じ糸の位置を追っていた。

歯を見せて笑う帽子のすぐ下で、古い補修紙がまた一枚、浮きかけていた。

br>
NEXT PART 『絵本の鑑定書』 後編を読む