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特別顧問の部屋

机から眺めたカウンターのイラスト

提出

副院長マーガレットの執務室。
書類の山が整然と積まれている。手紙の束、報告書、鑑定書。
全てが分類され、優先順位がつけられ、完璧に管理されている。


「お疲れ様」
マーガレットさんが顔を上げる。優雅な微笑み。
でも目は少し疲れている。

「契約書をお持ちしました」
軽く一礼してから、ハンドバッグから書類を取り出す。
2通の書類。呪物の権利移譲書と買い取り費用の申請書。
冒険者からの署名、私の鑑定印……それから仮面の詳細情報。全て揃っている。

「……冒険者からの署名も問題なし。こっちは、冒険者に渡した120Gの申請ね」
マーガレットさんは書類を別々のボックスに入れる。無駄のない動き。
「夢魔の呪縛……厄介なものね」

「冒険者の方々が早めに持ち込んでくださったので……ひどい寝不足で済んでいました」
もし遅れていたら、精神力に回復できない傷を負うところだった。
3日間の不眠なら、数日寝ればいいだけ。

マーガレットさんが頷く。安堵の表情。
「そうね。あの仮面は、ヴィクターの部門が解呪準備を進めていますわ」

「了解しました」

「あなたの仕事は鑑定まで」
声のトーンが少し変わる。上司としてではなく、年上の女性として。
「あとは他部門に任せていいのよ。今日はゆっくり休んで」

「……ありがとうございます」
軽く頭を下げる。この人は、いつも気を遣ってくれる。

「それと」
マーガレットさんが付け加える。視線が鋭くなる。
「少々……時間がかかったようだけれど」

(……あ)
とっさに目をそらす、罪悪感。この人はこういう細かいところまで気づく。

「……少々の、面倒事がありました」

「また冒険者?」
ため息混じりの声。でも、怒っているわけではない。
むしろ、心配しているのだろう。

「……はい」

「怪我は?」

「ありません。従者が」
そこで言葉を切る。無駄な心配をかけたくない。

「そう」
マーガレットが安堵の表情を見せる。
「では、今日はもう上がっていいわ。お疲れ様」

「失礼します」
一礼し、退室する。


廊下を歩く。
石床にヒールの音が響く。
コツ、コツ、コツ……。規則的な音。
でも、足が痛い。もう3時間も履きっぱなしだ。

小さな扉。
特別顧問室。元は物置部屋。今は、私の居場所。

扉を開ける。中に入る。従者が後に続く。
カチャリ。
鍵をかける音。外界と切り離される音。


深く息を吐く。

「……疲れた」
お嬢様言葉は疲れる。
演技をしないで済むだけで気が楽になる。

天井の魔法の灯りが部屋を照らす。
魔法の照明器具。いつもの、変わらない光。
暖かい光。でも、炎の熱はない。制御された魔法の炎。

装備解除

従者が無言でクローク留めを外す。
黒いクロークが肩から滑り落ちる。
軽くなる。社交用の「衣装」が一つ外れる。

次に、歩行杖。
従者が受け取る。無言の連携。もう何度も繰り返した動作。
従者はクロークと杖を同時に持ち、壁のクローゼットに。

ハンドバッグを従者に渡す。
机の上に置かれる。トン、と軽い音。中には鑑定道具と書類。
今日はもう使わない。

耳飾りを外す。一つ、また一つ。
チャリン、チャリン……
小さな金属音が静かに響く。耳が軽くなる。

デスクの小皿に並べていく。
一つずつ、丁寧に。
高価なものじゃない。でも、私にとっては大切な装飾品。

手袋を外す。
右手から、ゆっくりと。白い絹が指から離れる。
素手。空気が肌に触れる。
ひんやりとした空気を感じる。

左手も同じように。
パサリ、と小皿の横に置く。これで、装飾品は全て外れた。

足元のヒール。
小柄な体を少しでも高く見せるため。
背の低いエルフは目立つ、無駄な抵抗かもしれないが、これを履かないともっと低くなる。

右足を上げ、ヒールのかかとを反対の足で押す。
ヒールが脱げる。床に、ポトリ。
左足も同じように。スポンッ、ポトリ。

裸足で床に立つ。冷たい石床。
足の裏にひんやりとした感触。でも、気持ちいい。
ヒールの圧迫から解放される。足に血が巡る。


素足のまま、ペタペタとソファに一直線。
深く沈み込む。柔らかいクッション。全身の力が抜ける。
背もたれに寄りかかる。頭を預ける。

「……はぁ」
長いため息。今日の疲れが、声に乗る。

天井を見上げる。白い天井。
シンプルな部屋。装飾はない。でも、それがいい。
余計なものがない。気が散らない。

サイドテーブルの水差し。
白の陶器。従者がカップに水を注ぐ。
トクトク、トク……水が流れる音。
カップが満たされる。

「ありがとう」
小さく言う。従者は無言で頷く。
そして部屋の隅の椅子に座る。いつもの位置。

ふりかえり

目を閉じる。

暗闇。視界が消える。
階下の喧騒が聴こえる。従者の、静かな呼吸音も。

(……今日も、なんとか)
なんとか、乗り切った。でも――

(また、新人冒険者か……)
また絡まれた。また芝居をうった。
神聖魔法、召喚魔法。
神の権能。精霊の祝福、名もなき力との共鳴……。

あれはそんなものではない。
ただ意識を操作しているだけだ。
嫌われものの魔術、精神操作。

バレれば皆が私から離れる、この立場も危うくなる。
墓荒らしの死霊術と同類。
関わるべきではない魔術師になってしまう。

きっとマーガレットさんも、私を労ってくれなくなる……。


片腕を目の上に置く。
光を遮る。暗闇が少し深くなる。
思考も少しだけ、静かになる。

(……疲れた)
体が、重い。意識が、遠のく。
身体がソファに沈む。クッションが体を包む。
温かい。安心する。

従者がチェストを開ける音。
カチャ、カチャ……修理キットを取り出す音。
金属と金属が触れる音。小さな工具を使う音。
自分の関節を点検し始める。

カチャ、カチャ……
規則的な音。リズムがある。変わらない音。
この音を聞いていると、心が落ち着く。

(……この音、安心する)
そのまま眠りに落ちた。

報告

コンコン。戸を叩く音。

(……ん?)
意識が浮上する。少し眠っていたらしい。
どのくらい経ったのだろう。

目を開ける。
窓から差し込む光がオレンジ色に変わっていた。
かなり眠っていたようだ。体が少しだけ軽くなっている。


姿勢を整える。一度立ち上がって、座りなおす。
背筋を伸ばして、髪を手で軽く整える。

従者がそれを確認。
椅子から立ち上がり、扉に向かう。
私が何も言わなくても、状況を理解している。


扉が開く。
レイモンドさんが立っている。いつもの紺色のローブ。
少し疲れた様子だが、安堵の表情。

「顧問さん、お時間よろしいでしょうか」
丁寧な口調。真面目な表情。
従者が無言で頭を下げ、入室を促す。

「お疲れ様です、大丈夫ですよ」
寝起きだと悟られないように、ゆっくりと舌を動かす。
ソファから立ち上がり、迎え入れる。
彼が部屋に入ると、従者が扉を閉める。

レイモンドさんが報告する。メモ帳を確認しながら。
「夢魔の呪縛の仮面、解呪が完了しました。所要時間は3時間。問題なく浄化できました」

「さすがです、お疲れ様でした」
小さく頭を下げる。この人は、いつも丁寧に仕事をこなす。
ヴィクター部門長の信頼が厚いのも頷ける。

「仮面は古美術品として保存部門に引き渡しました。エレノアさんが受領確認済みです」

「了解しました。ご報告、ありがとうございます」

レイモンドが小さく頷く。
「では、失礼します。ゆっくりお休みください」
一礼して、退室する。


扉が閉まる。また、静寂が戻る。


(……レイモンドさん、優秀だ)
中危険度の呪物は確実に処理できる。
解呪に時間を多くかけるが、準備を毎回整えている証拠だ。
ヴィクター部門長が信頼を置くのも当然だろう。

もう一度ソファに座る。
背もたれに体を預ける。目を閉じる。

(……また、ここで寝てしまった)
壁のカレンダーに目をやる。今日は26日。
ホテルに戻ったのは……24日。
2日間、この部屋で過ごしている。

(……ホテルに、戻るべきかもしれない)
でも、今日はもう遅い。体も重い。
明日にしよう。また明日、考えよう。


もう一度深く息をつく。

(……今日は、もう休もう)
目を閉じる。疲労が身体を包む。重い、でも心地いい。
このソファは、私をいつも受け入れてくれる。

従者がまた修理キットを開く音。
カチャ、カチャ……
規則的な音。安心する音。変わらない音。

(……この音、好き)
静かに眠りに落ちた。