マーガレットの執務室
扉を開けると、整然とした空間。
書類の山、手紙の束、報告書、全て完璧に管理されている。
窓から差し込む午後の光が、真鍮製の文鎮を照らす。
鑑定士の魔力が、私の五感を研ぎ澄ませている。
だから、この部屋の全てが鮮明に私を包む。
マーガレットさんが顔を上げる。優雅な微笑み。古い肖像画から抜け出したような、静かな輝きを湛えて。
「契約書をお持ちしました」
2通の書類を取り出す。
マーガレットさんが受け取る。
ページをめくる音。サラサラと乾いた音。
指先が優雅に動く。指先が剣士の居合切りのように、鋭く書類を翻す。
「問題ないですわね」
書類をボックスに入れる。
「……厄介なものでしたわね」
「早めに持ち込んだので、冒険者たちは無事でした」
「それと――少し、時間がかかったようだけれど」
言葉が会話の流れをせき止める。川のせせらぎに岩石が落ちてきたような。
私の視線が逃げ出す。文鎮へ、窓枠へ。
この人はこういう細かいところまで気づく。予定より少し遅れた、たったそれだけで。
「少々の、面倒事がありました」
「また冒険者?」
「……はい」
「怪我は?」
「ありません」
マーガレットさんが安堵の表情を見せる。
「ならよかった。無理はしないでね」
「はい」
一礼し、退室する。
私室
石床にヒールの音が響く。コツ、コツ、コツ……。
特別顧問室。407。
扉を開ける。従者が後に続く。
カチャリ。鍵をかける音。
机の上の紅茶が、温もりを失ってただの苦い水たまりになっていた。
深く息を吐く。
「……疲れた」
天井の魔法の灯り。癒しの精霊の息吹のように、静かに脈打つ。
この部屋の灯りは優しい。
指輪から外す。
右手の薬指。銀の環が皮膚を離れる。
左手の中指。人差し指。親指。
魔力の枷が枯れた蔓のように、皮膚から剥がれ落ちる。皮膚が疼く。赤い痕が残る。
小皿に並べる。今日を生き延びた証拠。
クローク。
従者が留め具を外す。金属が小さく鳴く。
黒い布が肩を離れる。影が黒い翼のように、肩から滑り落ちる。
肩に冷たい空気が這う。
魔力の重みが、消える。ようやく自由になる。
ヒール。右足、左足。
裸足で床に立つ。枯れた根が水を吸うように、静かに活力を取り戻す。
――これで、全部。
素足のまま、ペタペタとソファへ。
ソファに座り、クッションを抱き寄せる。
母なる大地の抱擁のように、温かく受け入れられる。
目を閉じる。
窓から、階下の喧騒。職員たちの笑い声。
笑い声がガラスに叩きつけられる波のように、届かない場所で砕け散る。
今日も、なんとか乗り切った。
また、新人冒険者。また、神官のフリをした。
心を塗り替える魔術。禁忌。
嫌でも思い出してしまう。
あの冒険者の目が、一瞬虚ろになった瞬間。
私の言葉が、彼の意識を塗り替えた瞬間。
――瞳から、鏡がひび割れたように、元の光が砕け散った瞬間。
バレれば、マーガレットさんの微笑みが消える。
片腕を目の上に置く。光を遮る。思考を、止める。
従者がチェストを開ける音。カチャ、カチャ……。
規則的な音。古い鎖が緩む音のように、唯一の正直なリズム。
この音を聞くと、心が落ち着く。
従者は私を裏切らない。
紅茶のカップを手に取る。
冷たい陶器。指先に染み込む冷気。
一口、飲む。
舌に広がる、枯れた庭の花びらのような渋く儚い残り香。温もりはもうない。冷たく、諦めの味。
カップを机に戻す。
意識が遠のいていく。暗闇が、深くなる。
夢は、見なかった。
報告
コンコン。戸を叩く音。
意識が浮上する。
目を開ける。窓から差し込む光がオレンジ色。
空気が冷えている――夕暮れ。
姿勢を整える。髪を整える。
従者が扉に向かう。
扉が開く。
レイモンドさんが立っている。紺色のローブ。
眼鏡の奥の目が、暖炉のやわらかな炎のように、穏やかに私を見つめる。
「顧問さん、お疲れ様。仮面の処理、完了しました」
立っている。無事に立っている。
それだけで、全てが上手くいったことが分かる。
「お疲れ様でした」
ソファから立ち上がる。足元がふらつく。
レイモンドさんが目を細める。
「お疲れですか?」
「大丈夫です」
ふらつきを隠すために、机に手を添えて支えにする。
「ご無理はなさらずに」
優しく包み込む声。温かく導くように、休みを促す。
「……ありがとうございます」
一礼して、退室する。
足音が遠ざかる。扉が閉まる。世界が、また古い箱のように狭く閉じる。
レイモンドさんは、何も纏わない。
ただそのままで、この世界を歩いている。
羨ましい。私にはできない。枯れた木に刻まれた年輪のように、深く根付いた偽りの顔。
終幕
もう一度ソファに座る。
2日間、この部屋で過ごしている。
ホテルに、戻るべきかもしれない。ちゃんとベッドで寝た方がいい。
でも、今日はもう遅い。
明日にしよう。
机の隅の小瓶を、視界の端で捉える。
ベルガモットの香水。明日の朝、あれをつければいい。
でも――明日は、また白檀を纏う日だ。
ベルガモットをつける日は、いつ来るのだろう。
カチャ、カチャ……。
窓の外で職員たちが笑っている。別世界の幻音が、薄い壁に反響するエコー。
私はソファに沈み込む。
目を閉じる。暗闇が優しい。
クッションが私を包む――温かく、静かに。
窓から、夜風。カーテンが揺れる。影が、壁を這う。
この温もりと共に、眠りに落ちていく。
指輪も、クロークもなし。
お気に入りのドレスで。
お気に入りの香りをまとって。
おだやか昼下がりに、あのお気に入りの湖の周りを歩く。
花の精霊と時間のない庭園で踊るような。
そんな、穏やかな夢。