特別顧問の部屋

書類が山積みの書斎のイラスト

埋み火

羽ペンの先が、まだ動いている。
鑑定書の末尾、依頼主の控え欄に署名を落とす。文字の傾きは一定に保たれていた。
保たれている、というより、保っている。作法だけが、背筋を立たせる薪をくべ続けていた。まだ心の火種が燻っているうちは、手は動く。

応接机の上で、買取承認の書類が乾くのを待つ。
錆びた剣亭の一行が持ち込んだ呪物。鑑定は終わり、危険度の格付けも済んだ。
これを二階へ届ければ、今日は閉じる。経理へ費用の申請を上げ、副院長に承認の印を仰ぐ。
残す工程は二つ。それだけのことが、いやに遠い場所に積もっているように見えた。

書斎机のほうから、微かな金属音。
従者がレイピアの手入れをしている。布が刃を撫でる、規則正しい摩擦。
その音が絶えない限り、この部屋に異常はない。十年、その符牒で息をしてきた。

「……行ってまいります」
席を立つ。ヒールを履く気力は残っていなかった。室内用の、踵の低い靴のまま。
従者が顔を上げる。同行の意思を、無言で差し出している。

「いえ。書類を出すだけです」
扇子を取り、すぐ卓へ戻した。社交の道具は、二階のやりとりには要らない。要らないはずだった。
経理の係官も、副院長も、わたくしが何者かを承知している人々だ。
鎧を着る相手ではない。

下降

廊下に出ると、足音が石壁に吸われていく。
五階の廊下は、511号室を境にして貌を変える。こちら側は品格ある漆喰、向こう側は施工の止まった躯体。防錆塗装の剥き出しの柱、途中で途切れたタイル、壁で行き止まる通路。
完成したふりをした建物の、嘘の継ぎ目に、わたくしの部屋はある。

階段を下りはじめる。
下りは、楽だ。重力が味方をする。向かう先には終わりが灯っている。書類を二枚、人へ手渡せば、今日の務めは燃え尽きる。
終点が見えているから、足が前へ出る。
そういう仕組みで動いているのだ、と、自分でも分かっていた。分かっていて、その仕組みに乗っている。

四階を過ぎる。保存部門のフロア。
廊下の奥、立入禁止の札が掛かった扉の前を、職員が二人、台帳を抱えて往き来している。封印処置中の区画。あの扉の向こうで何が眠っているかは、わたくしも知らない。知らないままでいられることの、ささやかな安らぎ。
会釈だけ交わして、通り過ぎた。

三階。下りのこのときは、まだ素通りできた。
研究室の並ぶ廊下から、人の声が漏れている。複数。熱を帯びた、早口の応酬。
内容が、勝手に拾われる。心術士の耳は、止め方を知らない。
だが、足は止めなかった。下りているあいだは、まだ余力の火があった。

二階に着く。
空気が変わる。三階までの、転用と滞留の静けさとは違う。ここは日常業務の中核だ。書類の擦れる音、抽斗の開閉、誰かが誰かを呼ぶ声。RACAという機構の、内臓が動いている階。

提出

まず203号室、経理部門。
扉は開いていた。係官が帳簿に向かっている。わたくしの姿を認めると、軽く眉を上げた。

「顧問。今日はまた、ずいぶんお疲れのようで」
ここで、口が勝手に温まった。
「あら、そう見えますかしら。お恥ずかしいこと。ええ、呪物買取の費用申請ですわ。錆びた剣亭の、あの賑やかな一行が持ち込んだ件でしてね。あの方たち、いつも荷が大きくて。前にも似た品を、そう、たしか春先に。あら、それはまた別の話でしたわね」

三文で済む用件だった。
なのに、言葉が勝手に枝を伸ばす。修辞の骨組みは正しく組まれ、感嘆詞は然るべき位置に落ち、拍もそこそこ整っている。ただ、導線がない。
訓練された技術だけが、火の消えた竈で空回りしている。灰を掻き立てても、熱は起きない。掻き立てる手つきだけが、達者だった。

係官は愛想よく頷いて、申請書を受け取る。
金額の欄に目を走らせ、また頷いた。
「危険度の格付けは……ええ、妥当な額ですね。承認はマーガレット副院長へ?」
「ええ、ええ。これから伺いますの。副院長もお忙しいでしょうけれど、こういうものは早いに越したことはございませんし」
「では、こちらの控えに受領印を」

判が、紙に落ちる。乾いた音。
一つ目の工程が、閉じた。残りは一つ。


扇子を持たずに来た指が、所在なく袖口の縫い目を整える。整える必要のない縫い目を。留め金の錆を探して、勝手に動いていた。


副院長実務室は、同じ二階の奥にある。
扉を叩くと、すぐに返事があった。

「どうぞ」
入る。
室内は相変わらず、書類の地層に埋もれていた。机上にも、棚にも、床際の箱にも、処理を待つ紙の束。書類の墓場、と職員が陰で呼ぶのも頷ける。
その只中で、マーガレットさんは涼しい顔で羽ペンを走らせていた。

「マーガレット様。ご多忙のところ恐れ入りますわ。本日は買取承認の件で参りましたの。錆びた剣亭の一行の持ち込みでして、格付けはもう済んでおりますし、経理の受領印も頂戴してまいりましたから、あとは副院長のお印さえ頂戴できれば」
そこで、言葉が途切れた。

途切れて、初めて気づく。
わたくしは、今、いったい何をこれほど喋っていたのだろう。

この人の前で、経緯の説明などいらない。格付けの妥当さも、受領印の有無も、書類を見れば一目だ。要らないものを、要らない相手に、際限なく積み上げていた。灰を、灰の上へ。
独演の鎧が、継ぎ目から崩れた音がした。崩れて、下から出てきたものは、ただ疲れた者だった。

「……失礼しました。少し、喋りすぎました」
落ちたのではない。もう、留めておく指が空だった。

マーガレットさんがペンを置き、書類を受け取る。
灰色の目が、文面ではなく、わたくしの顔を一度なぞった。
「呪物の処理、お疲れさま。……今日は、荒事のほうもあったのかしら」

書類には、戦闘の記録など一行もない。
なのに、見抜かれている。外交官だった人の観察眼は、こちらの専門領域に近い精度で働く。
立ち姿の傾き、声の張りの欠落、要らぬ饒舌。どこを読まれたのかは分かる。分かるが、隠す気力の火が残っていなかった。

「少々。酔客が、絡んできただけです」
「そう」
それ以上は訊かれない。この人は、踏み込むべき線を心得ている。
承認の印が、書類に落ちた。重い、確かな手応えのある音で。

「届けてくれて助かったわ。あなたが直に来てくれるとは、思っていなかったの」
来てくれる。
好意が、まっすぐこちらへ渡される。普段なら中立の事実として処理し、素通りするところが、今日は指をすり抜けた。防壁の編み目が、疲労でほつれている。
……礼を言うべき場面だ。分かっている。
「いえ。ついでが、ありましたので」
ついでなど、なかった。これが今日の、最後の薪だった。

マーガレットさんが、微かに笑った気配がした。けれど何も言わず、次の書類へ手を伸ばす。
退室する。扉が閉まる。
終わった。今日の務めが、すべて。

上昇

来た道を、逆に上る。
下りでは味方だった重力が、今度は一段ごとに重りとなって襲い掛かる。手すりに指を添える。木の冷たさが、手袋ごしに這い上がってきた。
終わりが見えていたから下りられた。なら、これは何のための上りか。務めは、もう片付いたのに。
住処へ帰るためだ。それだけの理由で、40段を超える石段を踏む。


三階に差しかかる。
下りに素通りした議論が、まだ続いていた。声は、さっきより熱を増している。研究室の扉が開け放たれ、廊下まで言葉が溢れていた。

「だから、これは典型的な負のエネルギー由来だと言っているんだ。眠る者から精を吸い上げる。屍術の系統、墓荒らしの範疇でまず間違いない」
「しかし術式痕に死霊術の核がない。むしろ——」
誰が話しているのかは、確かめなかった。確かめる余裕が、首から上に残っていない。声と、声の応酬。輪郭の溶けた人影が、扉の枠に切り取られているだけ。

けれど、看破のほうは止まらない。
あれは負のエネルギーで生命力を削る術式ではない。眠る者の意識に悪夢を植え、精神そのものを摩耗させる干渉だ。屍を扱う手つきと、心を扱う手つきは、根から違う。残滓の匂いが違う。触れたときの、粘りの質が違う。
あの呪物の正体は、心と記憶に関する魔術群だったのだ。人が、その名を口にすることさえ忌む領域の。

答えは、勝手に明け渡される。
この目は、疲れていても閉じてくれない。むしろ務めを終えて気の緩んだぶん、誰に見せるあてもない解が、やけに鮮明に浮かび上がる。
だが、それを声にするには、エネルギーが要る。
廊下を二歩入り、議論の輪へ分け入り、「失礼。それは心術系の干渉です」と告げ、なぜそう判断できるのかと問われ、それに答え、そして、その瞬間に向けられる視線の熱を、引き受けるエネルギーが。

心と記憶に関する魔術群。その名を正しく指せる者は、なぜ指せるのかを疑われる。
訂正の一言は、いつでも、わたくし自身への問いに化ける。
だから、今は要らない。明け渡された解は、喉の手前で堰き止めておく。声にする気力の欄が、今日はもう、燃え尽きていた。

議論の声が、羨ましく聞こえた。
間違ったことを、あれほど大声で、何の警戒もなく言い合える。誤りを正されることを、恐れもせず。学問とは、ああいうものだったはずだ。
手すりを頼りに、その前を過ぎた。声が、背後で遠ざかっていく。


四階。封印区画の静けさが、今度は心地よかった。
五階。施工の途切れた廊下が、見慣れた嘘の継ぎ目を見せて待っている。
511号室の扉。二重の鍵を、順に外す。二つ目の鍵が、なかなか溝へ噛み合わない。指の主が、持ち主の言うことを聞かなくなっていた。

帰着

扉を閉めると、音が消えた。
従者が顔を上げ、また伏せる。帰還の確認。それだけで、言葉はない。
ありがたかった。今は、簡単な挨拶の一つでさえ、応じるのが億劫だった。


応接机に、紅茶があった。
出かける前に、従者が淹れておいたものだ。あのときは、まだ湯気が立っていた。
カップを取る。
熱が、ない。陶器の壁ごしに伝わるはずのものが、とうに滲み出て、散っている。掌に乗るのは、ぬるい重みだけ。
使用済みの魔道具の感触に似ていた。封じが解け、魔力を汲み尽くされた後の品。あれを持つと、見た目の重さよりずっと軽く、手応えが抜けている。中身を澱ませたまま使い果たした器は、みなこの手触りになる。


口をつける。
香りが、ない。淹れたての一杯なら、ベルガモットが水面から立ちのぼって鼻腔をくすぐるはずだった。滲むものは、滲みきった後だった。
残っているのは、輪郭だけの味。渋みが、ぬるい水のなかで角を立てている。

それでも、香りは在った。
湯気の失せた水面から、たった今すれ違ったばかりの香りが立つ。数刻前、この部屋で湯気を立てていた一杯の、その温もりの移り香が。触れた指の去ったあとに残る、あれと同じ。もう熱くない。もう二度と、あの湯気は戻らない。それでも、確かにここに湛えられていた温もりの名残だけが、冷えた水面に薄く籠っている。

移り香は、飲めない。
それでも、口に含んだ。

淹れ直す気力はない。湯を沸かし、葉を量り、蒸らす刻を待つ。その一連が、今は遠い国の儀式のように思えた。
目の前にある、用の済んだ一杯。これでいい。これで、足りる。
二口目を含む。やはり香りはしない。
……それでも、喉を通っていくものが、確かに在る。からだの内側へ、ぬるい液体が落ちていく。温もりはない。けれど、空でもない。

窓の外で、午後の光がもう傾きはじめていた。
逆光が薄れ、応接机の影が伸びる。じきに、魔法照明の青白い光だけが、部屋の灯りになる。香らない、冷めることもない光が。
カップを置く。半分残った、抜け殻の一杯。

明日も、誰かが何かを持ち込むだろう。墓荒らしと取り違えられた心術が、また棚の奥で眠るのだろう。
その正体を、わたくしだけが言わずに知っている。
知っているということは、いつも、少しだけ、寒いのだろうか。それとも、寒いと思うことにしているだけか。