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特別顧問の部屋

書類が山積みの書斎のイラスト

マーガレットさんの執務室

書類の山が、棚の端から端まで系統立って並んでいる。
手紙の束、報告書、請求書。どれも定位置を持ち、呼べばすぐ応答できる態勢で待機している。
この秩序は、鑑定室の棚配置によく似ている。使う側の意志が、配置ににじみ出ている。

鑑定の集中状態に近い。
五感が薄皮一枚ぶん鋭くなる。乾いたインク、羊皮紙の埃、石材の微かな湿気が、それぞれ別々の情報として届いてくる。
研ぎ澄まされた状態というより、削られた状態に近い。今日は、疲れている。

マーガレットさんが顔を上げる。

微笑み。口角の角度を測る。目尻の微細な動きを読む。
これは警戒の微笑みではない。迎え入れる意図がある。
だが同時に、評価もしている。私が今日、何をしてきたかを、すでに知っているかのように。
この人の笑顔は怖い。……美しいからではなく、情報量が多いからだ、と思う。


「契約書をお持ちしました」
二通を差し出す。

マーガレットさんの手が書類を受け取る。
報告書をめくる動き。私が封印石を確認する時と同じ種類の集中が、その動作に宿っている。
一行も、一文字も、逃さない。だが全体の構造を先に把握してから、細部へ降りていく。
鑑定士の目だ、と私は思う。分野が違うだけで、同じ思考回路をしている。

「問題ないですわね」
書類がボックスに収まる。
「……厄介なものでしたわね」

「早めに持ち込んだので、冒険者たちは無事でした」


「——少し、時間がかかったようだけれど」

部屋の空気が変わった。

窓枠の金具が、急に目に入る。文鎮の陰影が、妙に鮮明だ。
私の視線が行き先を探している。
精神防壁を測る前に、相手の目を見すぎないようにする癖。今は呪文を使う気はないのに、身体が先に反応している。

「少々の、面倒事がありました」

「また冒険者?」

「……はい」

「怪我は?」

「ありません」

マーガレットさんの肩が、ほんのわずか落ちた。それだけ。
彼女の内側で何かが解けたのかもしれないが、私に確認できるのは肩の動きだけだ。
他者の心は、表面しか読めない。

「ならよかった。無理はしないでね」

「はい。お気遣いありがとうございます」
一礼。退室。廊下に出る。

私室

石床にヒールが打つ音。コツ、コツ、コツ。整然としたリズムが、廊下の壁に吸われていく。

特別顧問室、407。
扉を開ける。従者が後に続く。


カチャリ。鍵をかける音。

机の上の紅茶カップ。出発前に用意させたもの。
琥珀色の液面が、室温に馴染んで静止している。
飲む前に出かけたのか、飲む気になれなかったのか、今となっては区別がつかない。

深く息を吐く。
「……疲れた」

天井の魔灯が、静かに脈打っている。
魔力回路の安定した脈動に近い、落ち着いた光の色をしている。


右手の薬指。銀の環を引き抜く。
皮膚に食い込んでいた金属が離れ、圧迫の痕が赤く残る。
左手の中指、人差し指、親指、次々と小皿に放る。

チン、チン、チン。

封印石の魔力回路が切れた瞬間に似ている。あの、静かな解放。
纏っていた魔力の層が剥がれ、皮膚だけになった手が、空気の乾燥をそのまま受け取る。

これは装飾品ではない。
高位鑑定士に見える必要があるから着けている。
爪より大きい宝石が並んでいる。
自分の手に乗っているものが、自分のものに見えたことは一度もない。
似合っているとも思わないし、思えない。


従者がクロークの留め具を外す。金具が鳴く。

仕込んだワンドが、スクロールが、重さを持ったまま離れていく。
布地が左肩から滑り落ちる。外気が直接、鎖骨の上に触れる。

なければ死ぬ。だけど——
あると、何だろう。
ただ、重い。
戦闘呪文を持たない罪の重さ。

ヒールのバックルを外す。
素足で床に立つ。石の温度が、裏から素直に伝わってくる。

背が少し低くなる。
呪いがなければ、お姉様のように——
……今夜は考えない。


全てが外れた。
指輪も、クロークも、ヒールも。
外側の全部が、小皿と床と従者の手の中にある。


ソファへ。
素足がペタペタと鳴る。廊下での自分の足音と全く違う種類の音。
どちらが本当の歩き方なのか、と問うても意味はない。


クッションを引き寄せる。抱える。

まぶたを閉じる。

窓の外から職員たちの笑い声。何が可笑しいのかは聞き取れない。
聞き取ろうとも思わない。音として届いているが、言葉として認識するには遠すぎる。


今日、新人冒険者の思念に触れた。
触れた、というより、握り潰した。

神霊への祈りのように演技をして、意識の隙間を見つけ、意識の糸を引きちぎった。
他者の精神防壁に入る時、質感がある。厚い人間は古い粘土のようで、薄い人間はフルーツの皮のような……。
あの冒険者は弱々しかった。手ごたえがあまりにもなかった。

その後、彼の目から、意志が消えた。
次の瞬間にはその巨体が地面に倒れていた。
私に一矢報いるという意識も、姿勢を保つことすらもできない。
強制的に気絶させる呪文。


仕方なかった。危険を回避するためだった。他に方法が——

……あったかもしれない。

使うのは控えるべきだと分かっている。催眠と洗脳しかできない魔術師だとバレるわけにはいかない。
バレれば、マーガレットさんの微笑みが消える。心配もされなくなるだろうし、心を閉ざされる。


腕を目の上に置く。光を遮る。

従者がチェストを整理する音。カチャ、カチャ……。
乱れない。規則正しい。この音の律動が、今の私には支えの杖になる。


紅茶のカップを手に取る。
温もりを失った陶器。

一口、飲む。
苦い。熱があった時には気づかなかっただろう角の立った甘さが、冷えることで浮き上がっている。
出がらしの味だ。でも、飲む。

カップを置く。

意識が薄れていく。暗闇が、静かに深くなる。


夢は、見なかった。

報告

コンコン。


意識が浮上する。
水底から引き上げられるような、緩慢な覚醒。

目を開ける。
窓から差し込む光がオレンジ色に変わっている。夕暮れだ。しばらく眠っていた。


姿勢を整える。手で髪を軽く直す。

従者が扉に向かう。扉が開く。


レイモンドさんが立っている。紺色のローブ。
眼鏡の奥の目が、私を見ている。
何かを測っているわけでもなく、何かを隠しているわけでもなく。ただ、見ている。

「顧問さん、お疲れ様。仮面の処理、完了しました」

立っている。無事に。
それだけで、全て上手くいったことが分かる。

「お疲れ様でした」
ソファから立ち上がる。足元が、わずかに揺れた。

レイモンドさんの目が細くなる。
「お疲れですか?」

「大丈夫です」
机に手をついて、さり気なく支える。
さり気なくできているかどうかは……この人には、おそらく見えている。

「ご無理はなさらずに」
声の質感が穏やか。責めていない。ただ、言っている。

「……ありがとうございます」

足音が廊下を遠ざかる。扉が閉まる。

レイモンドさんは、何も纏っていない。
指輪もない。
仕込んだ武器もない。
ただそのままの重さで、廊下を歩いている。

身のままの、穏やかな歩みを目が追ってしまう。
……羨ましい、のかもしれない。
どうだろう、分からない。自信がない。

終幕

ソファに戻る。

二日間、この部屋にいる。
ホテルへ戻るべきだ。ベッドで眠るべきだ。
でも今日はもう遅い。明日にしよう。

机の隅に小瓶がある。
ベルガモットの香水。出発前から、ずっとあそこにいる。

明日また、白檀を纏う日だ。
威厳のある香りだ。嫌いではない。好きでもないが。


カチャ、カチャ……。

窓の外では、職員たちがまだ笑っている。
薄いガラス一枚の向こうで。別の因果の中で。

ソファに沈み込む。

夜風がカーテンを動かし、壁に影が揺れる。
まぶたが、そのまま落ちる。


指輪も、クロークも、ヒールもなし。
お気に入りのドレスで。
お気に入りの香りをまとって。

あの湖の周りを、午後の陽光の中で歩く。

穏やかな夢だ。
夢だと分かるぐらい、安らかな時間。