長い昼下がり
錆びた剣亭は、今日も騒がしかった。
冒険者たちの笑い声が壁を揺らし、ジョッキが打ち合わされるたびに喧騒の波が店内を満たした。
空気は重い。エールの酸味、焦げた獣肉の脂、染み込んだ革と汗。何層にも重なった匂いが、湿った木材の古さと混ざり合っている。
暖炉の煙が喉の奥に入り込み、息を吸うたびにこの酒場が生き延びてきた時間を感じさせる。
だが、その暖炉の熱が、俺たちの卓まで届いてくる様子はない。
いつもと変わらない昼下がり。
俺たちのテーブルだけが、違っていた。
誰も水のジョッキに手を伸ばさない。
結露が卓を濡らし続けているのに、誰もそれを拭こうとしない。
三日間の不眠が、皮膚の感度を狂わせていた。
服の縫い目が、ちいさな棘のように肌に食い込む。背中は滲んでいるのに、爪先の先まで血が回っていない感覚が続く。
こういう状態は知っている。罠を仕掛けた場所で夜明けまで張り込んだ後の、あの過剰な覚醒。眠れない夜の翌朝に似た、おかしな冴え方。
「まだか……」
リーダーのガレスが、何度目かの吐息をついた。
いつもならテーブルのどこに頼っても逃げない背筋が、今は椅子の背もたれに預けられている。目の下のクマが昨日より濃い。額の皺が、ここ数日で深くなった気がする。
「私だって……わかれば、いいんですけど……」
魔術師のセリアが、声を絞るように言った。
眼鏡の奥の目が、床の一点を見ている。自分の指先を見ている。……いや、どこも見ていない。
普段は完璧に結っている髪が乱れたまま、机に置かれた手は小刻みに揺れている。
自分の頭を引っ張る。ガリガリと、爪が頭皮を立てる音がする。ずっとだ。
「落ち着きなさい」
ドワーフの神官、ブレンダが穏やかに言った。
「今朝、王立文化古物院に持ち込んだのよ。もうすぐ結果が出るわ」
ブレンダだけは比較的落ち着いて見えた。その手には、祈りの数珠が握られている。木の玉が擦れる音が、かすかに聞こえる。指先で一つ一つを丁寧に辿っている。
顔色はさほど悪くない。ただ、眼差しが宙をさまよっている。
「俺も全然寝れてないんだけど……」
俺――フィンは、テーブルに突っ伏したまま呟いた。
冷たい樫材が頬に触れる。木目の凹凸。細かな傷跡。
何百人もの冒険者が肘をついた痕が、こうして顔を押しつけてみるとわかる。俺はその最新版になっている。
目を閉じると瞼の裏が重くなる。だが眠りは来ない。
ただ、暗闇の中にあの仮面の形がぼうっと浮かんでくる。それだけだ。
三日前の夜。ガレスが悪夢で飛び起きた。
「何かに追われる夢を見た」と、蒼白な顔で言った。
二日前の夜は、俺とセリアが同じような夢を見た。
黒い影。逃げられない恐怖。目が覚めた後もしばらく、明かりの位置と寝台の向きが一致しなかった。
昨夜は誰も横にならなかった。寝ようとするたびに、あの仮面の表情が落ちてくる。
あの仮面の近くで眠ると、悪夢を見る。そしてどんどん悪化する。それだけは確かだった。
今朝、耐えかねてガレスが王立文化古物院に持ち込んだ。
そして、この酒場で待つこと数時間。店主の厚意で水を貰ったが、飲む気にもなれない。
結露したジョッキの水滴が、ゆっくりテーブルに染みを作っている。俺はそれをぼうっと追い続けていた。
その時——匂いが変わった。
土の、墓の匂い。湿った泥と朽ちた何かが、エールと油脂の層を割って滑り込んでくる。
気配がする。路地裏を渡り歩いてきた。尾行対象が角を曲がる直前の、あの気配に似ている。
敵意のある、おぞましい何か。
反射的に顔を上げる。
——テーブル。椅子。壁。
暖炉の火が揺れている。いつもの酒場の風景だ。
だが、暖炉の火が遠い。
距離は変わっていない。でも、光が届いていない感じがする。
あの仮面が、俺の内側に居座っている。
ジョッキを持ち上げて、口に運んで——また置いた。味がしなかった。
「おい、フィン。大丈夫か?」
ガレスが心配そうに覗き込んでくる。その息が、顔にかかる。
「……ああ、ちょっとボーッとしてた」
嘘だ。罠の気配を拾い続けている時の、あの緊張とよく似た状態だ。ボーッとなんかしていない。
だが正直に言ったところで、どうなる。本能が警告を発している。まだ呪いは消えていない、と。
あの仮面は違った。
物理的な罠じゃない。目に見える敵でもない。
錠前は開けられる。罠は見抜ける。暗号は読める。それが俺の仕事だ。
だが精神を侵食する毒には、俺の手先は何の役にも立たなかった。
結露したジョッキを見つめる。表面に顔が歪んで映っている。
何に使えるかわからない顔が、水面に浮かんでいる。
「こちらで預かる。結果は後で伝えるから、酒場にいろ……って窓口で追い払われてさ」
ガレスが苦笑した。声に少しだけ、昨日よりも柔らかいものが戻っている。
「あの仮面から離れられただけでも助かったわ」
セリアが頷いた。声には力がない。白い肌は血色が悪く、紫に見える。
髪を手で持ち上げて、爪で頭皮を引っ掻く音がまたする。ガリガリと。
「おい、お前ら」
店主のギルバートが、カウンターから声をかけてきた。
元冒険者らしいがっしりした体格の男だ。灰色の髪、日焼けした顔、古い傷跡が腕を何本も横切っている。濡れた布巾でジョッキを拭きながら、こちらを見ている。
「連絡が来たぞ。担当者が今から来るそうだ」
「本当か!」
ガレスが顔を上げる。その動きが、ほんの少しだけふらついた。
「ただし、特別顧問が来てくれるそうだ」
ギルバートが付け加える。低い声。珍しいものを見た時の口調だった。
「特別顧問……どんな人だろうな」
少しだけ好奇心が戻ってくる。いや、好奇心というより、別の何かに意識を向けたい焦りかもしれない。
王立文化古物院の特別顧問。長い白髭の老人か、あるいは奇抜な衣裳の道化師か。
——誰が来ようと構わない。この呪いから解放されるなら、それでいい。
炎髪の来訪者
カラン、扉のベルが鳴った。
反射的に視線を向ける。これは直せない癖だ。扉が開く音は、常に確認しなければならない。
扉が開いた。
風が吹き込む。白檀の香りに、針で突くような薬草の刺激。甘さが後から追いかけてくる。
日差しが差し込んだ。
逆光の中に、小さな影が浮かびあがった。
長い耳が、光の縁取りを受けている。エルフだ。
だが、背丈は子供ほど。炎のような赤い髪が、風に揺れた。夕焼けが人の形を借りたような、という形容が浮かんでくる。
纏うローブは、夜空を染め上げたような深い黒。銀糸の刺繍が複雑な紋様を描き、光を受けるたびに模様が変わる。
歩くたびに裾が揺れ、白檀の香りが波のように押し寄せる。
黒いステッキをついている。柄には見たことのない宝石が嵌め込まれ、内側で何かが渦を巻いている。
そのステッキを握る手の指には、宝石が光る。エメラルド、サファイア、ルビー。数える気が失せるほどの指輪が、それぞれ別の話を語っている。
俺の仕事の相手には、こういう人間はいない。
後ろには背の高い従者がついていた。
片手剣に盾。どちらも上質な作りだ。フードを深々と被り、顔を闇の中に沈めている。
足音は囁き程度なのに、床板が悲鳴を上げる。体重を分散させる歩き方だ。
目を細めて観察する。
歩き方が、流れるように無駄がない。
だが——
(……匂いがしない?)
人間なら、必ずある匂いがある。
汗、皮脂、息。どんなに清潔にしていても、生きていれば発する。
少女からは白檀と薬草の香りがする。
ギルバートからは酒と煙草の匂いがする。
ガレスからは疲労の酸味が漂っている。
従者からは——何も感じない。
動きも不自然だ。呼吸のリズムが感じられない。
生命の温もりが感じられない。
命をやり取りする日陰で何年も生き延びてきた俺が知っているのは、人型の存在には必ず「生きている証拠」がある、ということだ。
あの従者には、それがない。
(人間じゃない)
確信が、静かに落ちてくる。
赤髪の少女が、こちらを見た。
紅玉色の瞳。深い、底の見えない色。
次の瞬間——
何かが、頭の内側に入り込んできた。
思考の合間に指先を差し込まれるような、繊細な侵入。
暗号文を解読していた時の集中が、水で洗い流されていく感覚。
(……何を、考えていた?)
さっきまで確信を持っていたなにかが、砂のようにこぼれ落ちる。
掴もうとしても、掴めない。
(ああ、そうだ。優秀な従者だ)
そうだ。
訓練された護衛だから動きに無駄がない。目立たないよう足音を殺す技術。
それだけのことだ。
何を疑っていたんだ?
……でも。
胸の奥に違和感だけが残っている。
何かを、見落としている。
何か重要なことを、忘れている。
それが何なのか——思い出せない。
頭を小さく振る。どうせ寝不足のせいだ。そう決めることにした。
緋色の髪の少女が、店内をキョロキョロと見渡す。顔をくるりと振る仕草は子供らしく見えるが、視線の動きは別物だ。客の数、経路の出口、各テーブルの人員配置。そういう順序で目が動いている。瞳は危険を探っている。サーカス小屋を見渡す子供のそれではない。
その眼差しが、俺を捉えた。
尾行対象に気配を感じ取られた瞬間、背骨の中心を細い針が通り抜けるような感覚がある。
あれと似ている。
少女がゆっくりとこちらへ歩いてくる。
ステッキが床を叩く音。コツ、コツ、コツ。一定のリズム。
足取りに迷いがない。だんだんと白檀の香りが強くなる。
ガレスも困惑していた。
「……あの、どちら様で?」
少女がにこやかに口角を上げた。
「ごきげんよう。王立文化古物院、呪物特別顧問です」
ハスキーで愛嬌のある声。だが、声色とあの観察眼は別々のことを説明してくる。
彼女が身分証明を差し出す。上質な紙に、銀の徽章。王立文化古物院の紋章が刻まれている。
ガレスがふらりと立ち上がった。
「あぁ、お待ちしておりました」
少女が俺たちを見回す。観察している。俺が従者に向けたのと同じ目線で、こちらを精査している。
「三日間の不眠と報告を頂いています」
声にわずかに配慮が混じる。
「簡単な治癒でしたら私にも心得が……」
少女の視線がブレンダへ動いた。そして、花がほころびるように表情が変わった。さっきまでの査定の色が消える。
「あら、優れた神官がいらっしゃいますわね」
「私の呪文では足元にも及ばないでしょう。お仲間を癒してさしあげてください」
ブレンダが少し驚いた顔になった。胸に数珠を当て、唇が弧を描く。
「ありがとうございます。では、後ほど」
セリアが、緋色の髪の少女をじっと観察していた。
眼鏡の奥の視線が、少女の手元に向かう。次に指輪に。次にステッキの宝石に。それから少女の耳の形に。
魔術師として情報を拾い集めているのか、それとも別のことを考えているのか。
セリアの唇が、わずかに動いた。
「……失礼ですが」
声が上ずっている。感情が漏れている。
「こんなお若い方が……本当に、王立の、特別顧問なので」
そこで詰まる。何度か口を開けては閉じる。自分の手を見て、また少女を見た。
少女は笑顔を崩さなかった。でも、瞳孔がわずかに開いた。
「まぁ……。あなたほどのウィザードが見た目だけで判断なさるとは」
セリアは何も言えなかった。
口が動いているが、声がない。肩が丸まる。
「……すみません」
か細い声だった。
少女が短く咳払いをした。
「呪いの力がかなり強そうですわね。呪いが判断力を奪っているのでしょう」
事務的な口調だった。ブレンダを褒めた時とは明らかに違う。衛兵が通行許可を出す時の、あの平坦さに似ている。
「では、鑑定結果を」
従者が小さな革の鞄を差し出した。中から書類を取り出す。紙が擦れる音。
「今朝お預かりした仮面ですが」
書類を広げる。
「古代の儀式用仮面。死霊術が強く宿っていました」
俺は身を乗り出した。ようやく、答えが聞ける。
「……当院の設備と職員でも時間がかかりました」
「やはり……!」
セリアが顔を上げた。さっきまでの悔しさが消えて、魔術師の顔に戻っている。
手が無意識に動く。メモを取る仕草。羽根ペンも紙も持っていない。
「精神を蝕む呪いです。おそらく、犠牲者の人格を破壊するために作られたものでしょう。……悪夢は初期段階の反応ですわね」
「人格を破壊……!」
ブレンダが息を呑む。顔色が変わった。
数珠を握りしめる。木の玉が軋む音。
あと数日、持ち続けていたら……想像して、考えるのをやめた。
「手放す判断が早かったので軽傷ですわ。精神力までは奪われていないでしょう」
炎髪の少女が、陽光を集めたような笑みを見せた。今度は本物の表情だった。
「数日間しっかり寝れば元通りですわ」
「それは助かります……」
ブレンダが息を吐いた。数珠を握る手が、少しだけゆるんだ。
「で、これからどうすればいいんだ?」
ガレスが尋ねた。
そうだ、鑑定してもらっただけだ。処分の方法がまだ決まっていない。
「選択肢は主に二つございます。解呪、もしくは我々への売却です」
少女が書類を持つ手の指輪がこすれ合い、金属の軽い音が響く。
「呪われているのに、買い取るのか……?」
ガレスが繰り返した。
俺も驚いた。呪物は処分費用を払って引き取ってもらうのが普通だ。
セリアが鑑定に何日も挑み続けたのは、その費用を浮かせるためだった。
「ええ。呪物を、買い取り致しますわ」
少女が頷く。
「国策として、森羅万象の魔術を研究しています。呪物も研究対象です。買取金額は1200ゴールドです」
四人で割れば、それぞれ300ゴールド。悪くない。いや、呪われた品にしては破格だ。
「……安く買い叩いているのは承知です。ですが、解呪は不要ですし、今回の鑑定料も請求しません。……それに、買い手が目の前に居ます、今すぐ換金できますわ」
少女が、少し申し訳なさそうに言う。実務的な口調の中に、配慮が入り混じっている。
少女が手を軽く上げると、従者が動いた。
無言の指示。革の鞄から小さな袋を取り出す。チャリン、と金属が触れ合う音。
「俺は……もうこれ以上アレに関わりたくない」
ガレスが俺たちを見回した。
「売却でいいか?」
「賛成」
セリアが即答した。
「私も」
ブレンダが頷く。
「俺も」
手を上げた。悪夢はこりごりだ。
「では、契約書を」
緋色の髪の少女が口角を持ち上げた。
従者が契約書を取り出す。
「呪物の権利移譲の契約です。……確認ののちに署名を」
ガレスが契約書に目を通す。不眠で霞む目を何度もこすりながら、書かれた内容を一行ずつ追っている。
羽根ペンが紙を走る音。カリカリと、羊皮紙に文字が刻まれる。
少女が金貨の入った袋を渡した。
ガレスが袋の中を確認する。硬貨を一枚一枚、指先で確かめている。光が弾けるたびに、金の色が跳ね返る。
「……分けたら300ゴールドか」
ガレスが呟いた。
「今夜は一番いい部屋を借りて、しっかり寝ようぜ」
俺たちは深く頷いた。命を懸けた報酬としては安すぎる。
でも今の俺たちには、解呪にかかる時間も、これ以上あの仮面を持ち運ぶ気力も残っていない。
何よりも、悪夢を見ずに眠れる。それだけで十分だった。
乱入者
その時だった。
ガチャン!
扉が乱暴に開いた。
反射的に視線を向ける。扉の木枠が壁にぶつかる鈍い音。勢いが強すぎる。よっぽど気が立っているか、酒で度胸が戻っているかだ。
「おう、ギルバート!酒だ酒!」
千鳥足で入ってきたのは、見るからに酔っ払いの男だった。
酒焼けした顔。がっしりした体格。ボロボロのヨレた服——汗染みと泥と血のような茶色い染み。皮鎧は手入れをしていない。腰の短剣は刃こぼれしている。安物だ。
俺は一瞬で読む。
駆け出しの冒険者。この街に流れ着いたばかりで、まともな依頼も取れていない。安酒で昼間から憂さを晴らすしかない、そういう男。
俺もかつてはそうだった。だから分かる。
「またか……」
ギルバートが渋い顔をした。
「昼間から飲むな」
「うるせえ!」
男が、カウンターへ向かう。足元がふらついて、テーブルに手をついて体を支えている。
俺は小さくため息をついた。面倒な奴が来た。
酔っ払いが店内を見回した。濁った目。焦点が定まっていない。
そして、炎髪の少女で視線が止まった。
嫌な予感がする。尾行対象が予定外の路地に入る直前の、あの予感だ。
「おいおい、こんなところに迷子の子供かぁ?」
ニヤニヤしながら近づいてくる。足音が大きい。床板が軋む。周囲の客が、迷惑そうに眼差しを向けている。
近づくにつれ、酒の匂いが濃くなる。
やめとけよ、と小声で言った。
でも届かない。
「お嬢ちゃん、おじさんに金を恵んでくれよ」
酔っ払いが少女の前に立った。酒臭い息が、少女の方向へ吐き出される。
「護衛料ってことでさ」
泥酔していても冒険者だ。筋肉質で背もそれなりに高い。
炎髪の少女は、氷を薄く削り出したような笑みを浮かべた。
「……あら、ご親切に」
「おう、わかってんじゃねえか」
「ですが、お断りしますわ」
「あ?」
酔っ払いの顔が歪んだ。
「役立たずの雇用費を申請するほど、私は暇はしておりませんの」
少女が上半身を軽く突き出すような動きで話す。声だけが愛らしく、目は一切笑っていない。
「仕事も品性もない、どこかのおバカさんと違って。ねぇ?」
「バカだと!?テメェ……!」
酔っ払いの顔が朱を帯びた。吐き出される息が荒くなる。
その瞬間——従者が動いた。
瞬時に前に出て、酔っ払いと少女の間に割って入る。
「なんだテメェ!どけよ!」
酔っ払いが拳を振り上げた。力任せの雑な動き。
ドゴッ!
従者の胸に拳が叩き込まれる。肉と金属が衝突する音が、朝の大鐘のように店内に響いた。
でも——従者は微動だにしなかった。
あの拳の威力なら、普通は一歩か二歩、後退するはずだ。従者は酒場の柱のように動かない。
「なっ……!?」
酔っ払いが声を上げた。
「くそっ!」
左右の連続フック、重い左ストレート。力任せで、技術はない。でも力はある。
ガン、ガン、ガン!
頭に響く轟音が何度も走った。衝撃でテーブルの上の水が揺れ、波紋が広がる。
全て従者が受け止めた。
「ックソ!鉄板付けてるからってナメやがって!」
何度殴っても従者は倒れない。反撃もしない。ただ、黙って立っている。
酔っ払いは蹴りを混ぜはじめた。だが、それもすべて吸収される。
目を細めて観察する。
拳が当たる瞬間、従者がわずかに体を捻っている。軸をずらして衝撃を流す動きだ。
だが、それだけではない。
従者がゆっくりと、少しずつ位置を変えている。テーブルから離れ、客から離れ、店の中央の開けた場所へ移動している。
酔っ払いの足が滑っても、客には当たらない。テーブルも壊れない。罠師が仕掛けの作動範囲を計算するように、周囲の安全を確保してから動いている。
ただの護衛じゃない。
炎髪の少女を見た。
口が小さく動いている。言葉は聞こえない。でも唇の形が、呪文の発音のそれだ。
周囲の空気がかすかに揺れ始めている。
俺の視線に気づいたのか、ウインクを返してきた。
前衛が視線を集める間に、魔術師が呪文を構える。完璧な連携だ。
「くそっ……くそっ!」
額に汗が浮いている。酒に混じった酸っぱい匂いが漂う。
何度殴っても従者は倒れない。反撃もしない。ただ立っているだけ。
その沈黙が、酔っ払いの顔に焦りを滲ませていた。
そして、従者が動いた。
酔っ払いの両腕を掴む。鉄の手袋が腕に食い込み、動きを封じる。
「な、離せ!」
暴れる。でも従者の腕は一ミリも動かない。鍛冶師が錠前を閉じるような力で、腕が固定されている。
「……ちっ」
酔っ払いが舌打ちをした。勝てない、と悟った顔だ。
でも——
その目は諦めていない。
俺は直感した。まだ終わっていない。
床に空き瓶が転がっている。
酔っ払いの視線が、一瞬そこへ向かった。
まずい——!
酔っ払いが片腕を無理やり引き抜いた。皮膚が擦れ、肉が裂ける音。痛いはずだ。でも止まらない。血が手首から伝う。
地面に転がり込み、エール瓶を掴む。
「くらえ!」
投げた。従者の方向ではない。少女の方向へ。
——勝てる勝算のある方を、狙った。
瓶が酔っ払いの手を離れ、回転しながら宙を舞う。ガラスが光を受けて色を散らす。残ったエールが遠心力で内側を走る。
放物線の先には、炎髪の少女がいる。
俺は立ち上がろうとした。膝が揺れる。身体が言うことを聞かない。
椅子の脚が床を擦る音だけが響く。
遅い。遅すぎる——!
少女は、片手を胸の前で組んだ。
もう片手を、あいさつのように前へ伸ばす。そして、空中で何かを掴むように手を握った。
次の瞬間——その手には、エール瓶が握られていた。
瓶が瞬間移動した。そう説明するしかない。
俺は動体視力に自信がある。毒矢の軌道も、魔法の火球も、全て見てきた。
その俺が、今の動きを見逃した。
酔っ払いが投げた瓶ごときを、この俺が。
寝不足のせいか?
それだけでは、説明できない気がした。
少女が瓶を掲げる。
光を受けてガラスが輝き、残ったエールが瓶の底に流れる。静まり返った店内で、その瓶だけがあらゆる視線を集めている。
そして少女は、その瓶を俺たちのテーブルに置いた。
コトン——
その音だけが、酒場に響いた。
静寂。
誰も動かない。誰も声を出さない。
神の御業
少女が、深く息を吸った。
セリアが探知魔法を構える。手を前に伸ばし、空中に指で円を描く。魔術師にしか分からない何かが始まった。
セリアの表情が研ぎ澄まされていく。
少女の表情が変わった。
瞼を半ば閉じ、慈愛を帯びた顔になる。さっきまでの冷えた鋭さが、別の層の下に沈んでいく。
神官が祈りに入る直前の——いや、もっと静かな何か。
少女が両手を胸の前で組んだ。
「あれは……祈り……?」
ブレンダが驚きの声を上げた。数珠を握る手が揺れている。
「祈りの姿勢で、召喚魔法……」
セリアの声が上ずる。
「神の力を借りるつもり!?」
ミセリコルデの唇が、動いた。
音が——いや、音ではない。耳ではなく、皮膚で、骨の芯で感じる。
手袋が光り始める。
銀色の、しかし眩しくない光。月光を瓶詰めにしたような、冷たくて穏やかな輝き。
少女が両手を天へ掲げた。
冷えた金属と、香炉の煙。神殿の奥の空気に似た、聖なる燃え滓の匂い。
灼けるような熱と、吹雪の中心のような静けさが、同時に全身を流れた。
皮膚が引き攣る。
何かに、侵された。
痛みはない。だが確かに、魂の最も奥まった場所を。
——召喚。
だが、何を呼んだ?
ただ一つだけ分かったことがある。
この場に居合わせたことに、頭を垂れたくなった。
それ以外の言葉が出てこない。
酔っ払いがよろめいた。
「うっ……」
膝から崩れ落ちる。大木が根を断たれるように、前へ倒れていく。
ドサッ。
静寂。
大男が床に落ちる音だけが、店内を走った。
誰も動かない。誰も息をしていない気がする。
セリアが口を開けたまま、固まっていた。
眼鏡がわずかにずれている。それを直す余裕がない。
「召喚呪文だけじゃない……」
震える呼吸に混じった、声にならない言葉。
「神聖魔法……いや、それだけじゃない……複合呪文?違う、もっと……理論が……」
「どうやって、あんな……」
セリアが少女を見た。
唇が震えている。眼鏡の縁に、光が滲んでいる。
少女から目を逸らせないまま、声も出せないまま、ただそこに座っていた。
炎髪の少女が、喉に手を当てた。
ゆっくりと、小さく咳払いをした。わずかに息が乱れている。額に薄く汗が浮いている。
「失礼、私は贈り物は受け付けておりませんわ」
わざとらしい口調で言う。さっきまで漂っていた神聖な重さが、一瞬で霧散した。
「あと、レディへの贈り物ですよ?エールの空き瓶ではなくて、花束にしてもらえないかしら?」
茶目っ気のある表情。
その一言で、空気の膜が弾けた。
拍手、歓声、ジョッキがぶつかる音——酒場の騒々しさが、波のように戻ってきた。
いつもの昼下がりに。
後片付け
しばらくして、衛兵が到着した。
扉が開き、外の空気が流れ込む。新鮮な風が、酒場に染み付いた匂いを一瞬押し戻した。
二人組。若手の男性と、中年の女性。女性の方は歩き方に迷いがない、ベテランの雰囲気だ。
「ああ、またミセリコルデさんか」
女性衛兵が少女を見て言った。
——ミセリコルデ。それが、炎髪の少女の名前らしい。
「お久しぶりです、マーサさん」
ミセリコルデが、にこやかに言う。
「エドワード、聞き込み頼む」
マーサと呼ばれた女性が、若い衛兵に指示を出す。
「はい!」
エドワードと呼ばれた若い衛兵がギルバートや周囲の客に話を聞き始めた。メモを取りながら、真剣な表情で頷いている。
マーサがミセリコルデに向き直り、事情を聞いている。うまく聞き取れないが、マーサの眉間に皺が寄った。瓶の話が出たのだろう。
見ていた俺たちですら説明できない。口頭での報告では、ますます訳が分からないはずだ。
若手が早足で戻ってくる。ブーツが床を叩く音。
「マーサさん、目撃者複数います。店主と、あちらの冒険者パーティが一部始終を見ていたそうです」
マーサが俺たちを見た。射抜くような眼光。
何もしていないのに、姿勢が正される。
ガレスが頷いた。俺も合わせて頷く。
「よし、十分だな」
「ああ、そうだ」
マーサが苦笑した。顔の筋肉が、少し柔らかくなる。
「うちの隊長が言ってたぞ。またあの赤毛の先生か……って」
「あら、それは申し訳ございません」
ミセリコルデが口角を歪めた。困ったような、でも少し楽しそうな表情。
「私よりも話題になってほしい、当院の俳優がたくさんいるのですが、ね?」
「ははっ、そりゃそうだ」
マーサも笑った。
二人の間に、妙な親しさがある。同じようなやり取りを何度もしてきたのだろう。
衛兵たちが倒れた男を担架にのせて運び出した。
戦闘の痕跡が消えて、いつもの酒場に戻る。
「では、失礼します」
ミセリコルデが俺たちに一礼した。ローブが揺れ、白檀の香りが漂う。
「ありがとうございました」
ガレスが慌てて腰を折る。
「本当に、助かりました……」
ブレンダも深々と礼をした。数珠を握りしめたまま。
セリアも、俯いたまま頭を垂れた。眼鏡は外したまま、目頭を指で押さえている。
ミセリコルデが優雅に表情を綻ばせた。
そして、従者とともに退場していく。
扉に手をかけたその時、彼女が振り返った。
ルビーのような髪が弧を描く。逆光を受けて、炎のように縁が燃えた。
紅玉色の瞳が、俺を射抜く。そして、子供の無邪気さを模した笑みを浮かべた。だが、その目の奥には深淵が広がっている。
「また会いましょう」
声は聞こえなかった。だが唇が——いや、直接、意識に落ちてきた気がした。
扉が閉まる。
ベルが鳴る。その音が、やけに遠かった。
白檀とラベンダーの香りがゆっくりと薄れていく。
酒場の匂いが戻ってくる。でも、何かが変わった。空気の質がわずかに違う。
シャツが背中に張り付いていた。気づかないうちに、びっしょりになっていた。
いつ、汗をかいたのか。
美しい宝箱ほど、仕掛けは致命的だ。可愛らしく、礼儀正しく、おまけに才能まである……。そんな人を、真っ先に疑ってしまうのは、俺の職業病だろうか
「……なんだったんだ、あの子」
ガレスが、ようやく口を開いた。椅子に座り直す。木材が軋む音。
「……わからないわ」
セリアが答えた。眼鏡を外したまま、目頭を指で押さえている。
「でも、実力は本物ね」
声に諦めが混じっている。認めざるを得ない、と判断した人間の声だ。
「神に祝福された子……」
ブレンダが呟いた。数珠を撫でながら。褒められたのが嬉しかったのだろう。口角が静かに上がっている。
「赤髪の特別顧問、なんて呼ばれてる」
ギルバートがカウンターから声をかけてきた。カップを磨きながら、こちらを見ている。布がガラスを擦る音。
「腕はいいがトラブルメーカーでもある」
「トラブルメーカー?」
俺は首を傾げた。
「まあ、本人が悪いわけじゃないんだがな」
ギルバートが肩をすくめた。
「目立つから絡まれる」
「……なるほど」
俺は水のジョッキに手を伸ばした。ようやく、飲む気になっていた。
口に運ぶ。冷たい水の味がした。
さっきまで、何も味がしなかった。