長い昼下がり
錆びた剣亭は、今日も騒がしかった。
冒険者たちの笑い声が壁を震わせる。ジョッキが打ち合わされる度、喧騒の波が店内を揺らした。
空気は重い。エールの酸味、焦げた獣肉の脂、冒険者たちの汗と革の匂い。何層にも重なった匂いが、湿った木材の匂いと混ざり合う。
暖炉の煙が、喉の奥にまとわりつく。息を吸うだけで、この酒場の歴史を飲み込むような感覚。
だが、その暖炉の温もりすら、俺たちのテーブルには届かない。まるで、見えない壁に隔てられているかのように。
いつもと変わらない昼下がりの風景。
でも、俺たちだけは違った。
重苦しい沈黙が、石のように肩にのしかかっている。
俺の皮膚がピリピリする。
三日間の不眠が、神経を過敏にしている。
服の縫い目すら、針で刺されるように痛い。
体温調節もうまくいかない。背中は汗ばんでいるのに、指先は冷たい。
「まだか……」
リーダーのガレスが、何度目かの溜息をついた。
その息には、疲労が混じっている。
傷だらけの顔に刻まれた疲労の皺。目の下の隈が、ここ数日でさらに濃くなった。
いつもなら背筋を伸ばしている男が、今は椅子にもたれかかっている。肩が前に丸まり、呼吸が浅い。
三日間の不眠は、さすがに堪えているようだ。
俺だって同じだ。頭に鉛を詰められたのかと思うほど、思考が重い。
「私だって……わかれば、いいんですけど……」
魔術師のセリアが、声を絞り出すように呟く。
眼鏡の奥の瞳には悔しさ、だけではない。もっと深い、暗い感情。
自己嫌悪。
彼女は自分の頭引っ張っている。
ガリガリと音を立てている。ずっとだ、下手したら血が滲んでいてもおかしくない。
普段は完璧に結っている髪が、今は乱れたままだ。
机に置かれた指先が小刻みに震えている。疲労だけではない。これは、感情をコントロールできない時の、彼女の特徴だ。
「落ち着きなさい」
ドワーフの神官、ブレンダが穏やかに言う。
「今朝、王立文化古物院に持ち込んだのよ。もうすぐ結果が出るわ」
ブレンダだけは、比較的落ち着いて見える。その手には、祈りの数珠が握られている。
木の玉が擦れる音が、かすかに聞こえる。指先で一つ一つを撫でている。祈りの儀式だ。
あの落ち着きは、信仰の力だろうか。それとも、ドワーフの頑健さか。
彼女の顔色はさほど悪くない。ただ、眼差しが宙をさまよっている。平気というわけでもなさそうだ。
「俺も全然寝れてないんだけど……」
俺――フィンは、テーブルに突っ伏したまま呟いた。
姿勢よく椅子に座る元気はない。冷たい樫材が、頬に触れる。木目の凹凸。細かな傷跡。
何百人もの冒険者が肘をついた痕跡が伝わってくる。
このまま眠れたらどんなにいいだろう。でも、眠れない。
意識だけが妙に冴えている。まぶたは重いのに、眠れない。
三日前の夜。ガレスが悪夢で飛び起きた。
「何かに追われる夢を見た」と、彼は蒼白な顔で言った。
二日前の夜は、俺とセリアが同じような悪夢を見た。
黒い影。逃げられない恐怖。目が覚めても、心臓がずっと跳ねていた。
昨日の夜は、誰も眠れなかった。寝ようとすると、あの仮面の不気味な表情が瞼の裏に浮かんでくる。
あの仮面の近くで寝ると、悪夢を見る。そして、どんどん悪化する。それだけは確実だった。
今朝、耐えかねてリーダーが王立文化古物院に持ち込んだ。
そして、この酒場で待つこと数時間。眠気で食欲もないし、酒を飲む気分でもない。
店主の厚意で冷たい水を貰った。結露したジョッキが、テーブルに並んでいる。水滴が、ゆっくりとガラスの表面を伝う。
その時——空気が、変わった。
重くなる。肌に纏わりつく。
まるで、目に見えない縄で全身を縛られたような圧迫感。
匂いがする。
土の、墓の匂い。
湿った土と朽ちた何か。
気配がする。敵意のある、おぞましいなにか。
反射的に顔を上げる。
——そこには何もない。
テーブル。椅子。壁。
いつもの酒場の風景。
でも、確かに感じた。
黒いもや。いや、どうだろう。……影の、そのまた影。
実体を持たない悪意。あの仮面が、俺の意識に巣食っている。
冷気が背骨を這い上がる。
こめかみを汗が一筋伝う。
心臓が、一拍遅れて脈打つ。
「おい、フィン。大丈夫か?」
ガレスが心配そうに覗き込んでくる。その生暖かい息が、俺の顔にかかる。
「……ああ、ちょっとボーッとしてた」
嘘だ。ボーッとなんかしていない。本能が警告を発している。まだ呪いは消えていない、と。
密偵として、常に警戒を怠らない。罠を見抜き、敵の動きを読み、仲間を守る。それが俺の役割だ。
でも、あの仮面は違った。
物理的な罠じゃない。目に見える敵でもない。
精神を侵食する猛毒。俺の技術は、何の役にも立たなかった。
この無力感が、余計に苛立たしい。
俺は冷たい水のジョッキを見つめる。結露した表面に顔が歪んで映っている。疲れ切った役立たずの顔。
「こちらで預かる。結果は後で伝えるから、酒場にいろ……って窓口で追い払われてさ」
ガレスが苦笑する。
あのリーダーが、不眠でこんなに弱々しくなるのか。俺は少し意外だった。いつもは頼りになる男なのに。
「あの仮面から離れられただけでも助かったわ」
セリアが頷く。でも、その声には力がない。
消耗の影響で顔色は悪い。白い肌は青白く、目の下にはクマ。
髪を引っ張るように持ち上げる。爪で頭皮を引っ掻く音が、ガリガリと聞こえる。
「おい、お前ら」
店主のギルバートが、カウンターから声をかけてきた。
元冒険者らしい、がっしりした体格の男だ。灰色の髪。日焼けした顔。腕には、古い傷跡がいくつも走っている。
濡れた布巾でジョッキを拭いている。
「連絡が来たぞ。担当者が今から来るそうだ」
「本当か!」
ガレスが顔を上げる。その動きが、ほんの少しだけふらついている。
「ただし、特別顧問が来てくれるそうだ」
ギルバートが付け加える。低い声。少し驚いているような口調だった。
「特別顧問……どんな人だろうな」
俺は少しだけ興味が湧いた。
王立文化古物院の特別顧問。きっと、大きな魔法杖を握った、長い白髭の老人だろう。いや、鮮やかな服の道化師かもしれない。
——まあ、誰が来ようと構わない。この呪いから解放されるなら、それでいい。
炎髪の来訪者
カラン、扉のベルが鳴る。
俺は反射的に視線を向けた。密偵の癖だ。扉の開閉音には、いつも敏感になる。
扉が開く。
風が吹き込む。
白檀の香りに、ピリっとした刺激がある。……あと、甘い香り、薬草のような香りもする。
日差しが差し込む。
逆光の中に、小さな影が浮かび上がった。
長い耳が、光の縁取りを受けている。エルフだ。
だが、背丈は子供ほど。炎のような赤い髪が、風に揺れた。まるで、夕焼けが人の姿を取ったかのような。
纏うローブは、夜空のような深淵の黒。銀糸の刺繍が、まるで星座のように煌めいている。
歩く度に、ローブの裾が揺れ、白檀の香りが強くなる。布地に染み込ませているのだろう。
黒いステッキをついている。柄には、見たこともない宝石が嵌め込まれている。魔法的な加工が施されている、なにかが渦巻いている。
それを持つ手、その指には宝石が光る。指輪の数は……数える気が失せるほど付けている。エメラルド、サファイア、ルビー。
貧乏冒険者とは縁遠い存在。
金持ちだと嫌でもわかる。
後ろには背の高い執事。
武器は片手剣に盾。両方とも上質な作りだ。
フードを深々と被り、顔を闇に沈めている。
足音は囁き程度。だが、床板が悲鳴を上げる。
矛盾した存在感だ。
瞳孔を絞り込んで観察する。
歩き方は流水のよう。訓練された動き。
だが、その動きには——
(……匂いがしない?)
人間なら、必ずある匂い。
汗。皮脂。息。
どんなに清潔にしていても、生きている人間なら必ず発する匂い。
少女からは白檀と甘い薬草の香りがする。
ギルバートからは酒と煙草の匂いがする。
ガレスからは中年臭い疲労の匂いがする。
執事からは何も感じない。
動きも不自然だ。
人間離れしている。呼吸のリズムが感じられない。
生命の温もりが感じられない。
まるで、精巧に作られた自動人形。もしくは、死者を操る死霊術の産物。
(どちらにせよ……人間じゃない)
確信する。密偵として何年も命を懸けてきた、この俺の本能が。
赤髪の少女がこちらを見た。
こちらを見ている。紅玉色の瞳。深い、底の見えない色。
そして。
何かが、頭の中に滑り込んできた。
しなやかな指先が、脳を直接撫でるような。
俺の脳を、土のついた野菜のように水で洗うような。
不快感。いや、それ以上の何か。
侵入されている。
意識の、最も深い部分に。
(……何を、考えていた?)
さっきまで考えていたことが、洗い流されていく。
捕まえようとしても、掴めない。
砂のように、こぼれ落ちていく。
(ああ、そうだ。優秀な執事だ)
そうだ。
プロの護衛として訓練を積んでいる。だから動きに無駄がない。
従者として目立たないようにするために、足音を殺し、気配を消す技術。
それだけのことだ。
何を疑っていたんだ?
……でも。
胸の奥に違和感だけが残る。
何かが、おかしい。
何かを、見落としている。
何か重要なことを、忘れている。
でも、それが何なのか——思い出せない。
小さく頭を振る。
考えるのをやめる。
どうせ、寝不足で頭が回っていないだけだ。
緋色の髪の少女は、店内をキョロキロと見渡す。顔をクルクルと振る仕草は、子供っぽく見える。
でも、視線の動きは鋭い。客の数と位置、経路の確認。警戒している。
その眼差しが、俺を捉えた。
全身に電流が走ったような感覚。
肌が締め付けられるような感覚。
鳥肌が、波のように広がる。
でも、あの視線は、俺の内側まで見通したような。いや、違う。見通したんじゃない。「この男は脅威か?」そう問いかけるような、冷徹な眼光。
彼女は微笑んだ。「あなたは合格」とでも言うように。
そして、少女はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
ステッキが床を叩く音。コツ、コツ、コツ。一定のリズム。
足取りに迷いがない。
だんだんと、白檀の香りが強くなる。
ガレスも困惑している。彼の目が少女をじっと見ている。
「……あの、どちら様で?」
少女がにこやかに口角を上げた。
「ごきげんよう。王立文化古物院、呪物特別顧問です」
ハスキーで愛嬌のある、子供の声。
彼女は身分証明を差し出す。
上質な紙に、銀の徽章。王立文化古物院の紋章が刻まれている。光を反射して、きらりと光った。
ガレスがフラフラと立ち上がる。彼の足が、わずかによろめいた。
「あぁ、お待ちしておりました」
炎髪の少女が、俺たちを見回す。観察している。俺と同じことをしている。
「三日間の不眠と報告を頂いています」
声に同情の色が混じる。
「簡単な治癒でしたら私にも心得が……」
少女がブレンダに目線を走らせた。そして、花が開くように笑った。さっきまでの警戒心が消えた。
「あら、優れた神官がいらっしゃいますわね」
賛辞を込めた口調。わざとらしいくらい、丁寧に。
「私の呪文では足元にも及ばないでしょう。お仲間を癒してさしあげてください」
ブレンダが少し驚いた表情になる。そして、嬉しそうに唇が弧を描いた。握っていた数珠を、胸に当てる。
「ありがとうございます。では、後ほど」
さりげなく相手を持ち上げる。それは単なるお世辞じゃない。ブレンダの立ち振る舞いを観察したうえでの判断だろう。
だからこそ言葉に重みがあり、説得力がある。そのうえで、自分を下に置いて相手を立てる。
これが金持ちの余裕なのだろうか。
セリアが、じっと緋色の髪の少女を観察していた。
その目には、複雑な感情。
憧憬。嫉妬。
そして、絶望。
完璧な身なり。完璧な所作。
王立文化古物院の特別顧問という肩書き。
おそらく、完璧な魔術の知識。
セリアが目指していた、全て。
この少女は、既に持っている。
しかも、若い。10歳前後に見える。
セリアの唇が震える。
爪が、掌に食い込む。皮膚が破れる寸前まで。
そして——言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「……失礼ですが」
声が、わずかに上ずっている。
感情を抑えようとして、失敗している。
「こんなお若い方が……本当に、王立の、特別顧問なのでしょうか」
セリアは言葉の途中で、食べ物を詰めてしまったような音を出して止める。
頭を掻きむしる。何度か口を開けては閉じる。
挙動不審。衛兵がいたら駆け寄ってくるだろう。
少女は笑顔を崩さなかった。でも、その目が変わった。瞳孔がわずかに開いた。
「まぁ……。あなたほどのウィザードが見た目だけで判断なさるとは」
セリアの口があいたまま、唇だけは動くが声になっていない。
蛇に睨まれた蛙。貴族に睨まれた貧乏冒険者。
少女は笑顔は保っているが、目が笑っていない。怒りを抑えている。
「呪いの力がかなり強そうですわね。呪いが判断力を奪っているのでしょう」
優しい口調だが、ブレンダを褒めたときとは明らかに違う。声が低く、かすかに震えている。
セリアは俯いた。
口をグッと絞り、反論を諦める。
肩が震えている。
彼女の中の何かが、崩れ落ちている。
「……すみません」
か細い声。
まるで、親に激怒された子供のように。
頭を垂れて、許しを待つしかない。
炎髪の少女が気まずそうに咳払いをする。
「では、鑑定結果を」
従者が、小さな革の鞄を差し出した。中から、書類を取り出す。
「今朝お預かりした仮面ですが」
書類を広げる。紙が擦れる音。
「古代の儀式用仮面。死霊術が強く宿っていました」
俺は身を乗り出す。ようやく、答えが聞ける。
「……当院の設備と職員でも時間がかかりました」
「やはり……!」
セリアが顔を上げる。
少女の報告を真剣に聴いている。さっきまでの悔しさが消えて、魔術師の顔に戻っている。
手が、メモを取る仕草をしている。でも、羽根ペンも紙も持っていない。無意識の癖だろう。
「精神を蝕む呪いです。おそらく、犠牲者の人格を破壊するために作られたものでしょう。……悪夢は初期段階の反応ですわね」
「人格を破壊……!」
ブレンダが息を呑む。顔色が変わった。
手に持った数珠を、強く握りしめる。木の玉が軋む音。
俺の背筋を、冷たいものが這い上がる。もしあと数日、仮面を持ち続けていたら……。
「手放す判断が早かったので軽傷ですわ。精神力までは奪われていないでしょう」
炎髪の少女が陽光のような笑みを見せた。今度は、本当に安心させるような表情だった。
「数日間しっかり寝れば元通りですわ」
「それは助かります……」
ブレンダが安堵の溜息をついた。肩の力が抜けているのが、見ていてわかる。吐き出された息には、緊張の名残が混じっている。
「で、これからどうすればいいんだ?」
ガレスが尋ねる。
そうだ、鑑定してもらっただけだ。まだ処分方法が決まっていない。
少女が、丁寧に説明を始める。書類を持つ手の指輪がこすれ合い、金属の軽い音が響く。
「選択肢は主に二つございます。解呪、もしくは我々への売却です」
「呪われているのに、買い取るのか……?」
ガレスが繰り返す。
俺も驚いた。普通であれば、呪物は処分費用を払って引き取ってもらう。
セリアが鑑定に何日も挑み続けたのは、この処分費用を浮かすためだった。
「ええ。呪物を、買い取り致しますわ」
少女が頷く。
「国策として、森羅万象の魔術を研究しています。呪物も研究対象です。買取金額は一律で120Gです」
4人で割れば、それぞれ30G。悪くない。いや、呪われた品にしては破格だ。
「……安く買い叩いているのは承知です。ですが、解呪は不要ですし、今回の鑑定料も請求しません。……それに、買い手が目の前に居ます、今すぐ換金できますわ」
少女が、少し申し訳なさそうに言う。実務的な口調。でも、配慮がある。
冒険者の立場を理解している。命がけの冒険の対価が120G、それを気遣ってくれているのだろう。
少女が手を軽く上げると、執事が動き出した。
無言の指示。完璧な連携だ。
執事が、革の鞄から小さな袋を取り出す。チャリン、と金属が擦れ合う、乾いた音。
「俺は……もうこれ以上アレに関わりたくない」
ガレスが俺たちの方を向く。
「売却でいいか?」
「賛成」
セリアが即答する。
「私も」
ブレンダが頷く。
「俺も俺も」
手を上げた。もう、悪夢はこりごりだ。
緋色の髪の少女が無邪気な笑顔を作る。
「では、契約書を」
従者が契約書を取り出す。
「呪物の権利移譲の契約です。……確認ののちに署名を」
ガレスが契約書に目を通す。不眠で目が霞んでいるのか、何度も瞬きをしている。でも、内容を真剣に確認している。リーダーとしての責任感だ。
ガレスがサインを済ませる。
羽根ペンが紙を走る音。カリカリと、羊皮紙に文字が刻まれる。
少女が、金貨の入った袋を渡した。
ガレスが袋の中を確認する。硬貨を一枚一枚、指先で確かめている。光を反射して、きらりと光る。
「……分けたら30Gか」
ガレスが呟く。
「今夜は一番いい部屋を借りて、しっかり寝ようぜ」
俺たちは深く頷いた。命を懸けた報酬としては安すぎる。
でも、今の俺たちには、解呪にかかる時間も、これ以上仮面を持ち運ぶ気力も残っていない。
何よりも、悪夢を見ずに眠れる。それだけで十分だった。
乱入者
その時だった。
ガチャン!
扉が乱暴に開いた。
俺は反射的に注意を向ける。扉の木枠が壁にぶつかる、鈍い音。
勢いが強すぎる。
よっぽど気が立っている。もしくは、酒で気が大きくなっている。
「おう、ギルバート!酒だ酒!」
千鳥足で入ってきたのは、見るからに酔っ払いの男だった。
酒焼けした顔。がっしりした体格。ボロボロのヨレた服——汗染みと、泥と、血のような茶色い染み。皮鎧は汚れている。手入れをしていない証拠だ。腰に短剣——刃こぼれしている。安物だ。
俺は一瞬で判断する。
駆け出しの冒険者。腕は大したことない。おまけに、酒癖が悪い。
そして、貧しい。
この街に流れ着いたばかりで、まともな依頼も取れず、安酒で憂さを晴らすしかない、そんな男。
俺もかつてはそうだった。
だから、分かる。
「ロドリック、またか……」
ギルバートが渋い顔をする。
「昼間から飲むな」
「うるせえ!」
ロドリックと呼ばれた男が、カウンターに向かう。
足元がふらついている。テーブルに手をついて、体を支えている。
俺は小さくため息をついた。面倒な奴が来た。
ロドリックが店内を見回す。濁った目。焦点が定まっていない。
そして、炎髪の少女に目が留まった。
嫌な予感がする。
「おいおい、こんなところに迷子の子供かぁ?」
ニヤニヤしながら近づいてくる。足音が大きい。床板が軋む。周囲の客が、迷惑そうに眼差しを向けている。
近づくにつれ、酒の匂いが濃くなる。
やめとけよ、小声で呟いた。
でも、この酔っ払いには届かない。
貴族に喧嘩を売るなんて、正気の沙汰じゃない。
「お嬢ちゃん、おじさんに金を恵んでくれよ」
ロドリックが、少女の前に立つ。酒臭い息が、少女にかかる。
「護衛料ってことでさ」
泥酔していても冒険者だ。筋肉質で背もそれなりに高い。
薄汚れた野生の肉食獣と、可愛らしい小動物。正反対の存在。
そして、力の差は歴然。
炎髪の少女は、氷の微笑を浮かべた。
「……あら、ご親切に」
笑顔の裏に、何かが潜んでいる。
怒り。いや、それ以上の何か。軽蔑?嫌悪?
「おう、わかってんじゃねえか」
「ですが、お断りしますわ」
「あ?」
ロドリックの顔が歪む。
「役立たずの雇用費を申請するほど、私は暇はしておりませんの」
少女が上半身を軽く突き出すような動きで話す。わざとらしく、快活な子どもマネしているのだろう。
顔は無邪気さの一切ない、冷たい目のままだが。
「仕事も品性もない、どこかのおバカさんと違って。ねぇ?」
「バカだと!?テメェ……!」
ロドリックの顔が真っ赤になる。吐き出される息が、荒くなる。
その瞬間——執事が動いた。
速い。瞬時に前に出て、ロドリックと少女の間に割って入る。
護衛として訓練を積んでいる。間違いない。
「なんだテメェ!」
ロドリックが怒鳴る。唾が飛ぶ。
「どけよ!」
ロドリックが拳を振り上げた。力任せの雑な動き。
ドゴッ!
執事の胸に、拳が叩き込まれる。鈍い音。肉と金属が衝突する音。プレートアーマーだ。
まるで朝の大鐘。店内の空気が震える。
でも——従者は微動だにしなかった。
あの拳の威力なら、普通は一歩か二歩、後退するはずだ。
でも、執事は全く動かなかった。この酒場の柱のように、地面に固定されているように微動だにしない。
「なっ……!?」
ロドリックが驚愕する。
「くそっ!」
ロドリックが連続で殴りかかる。左右の連続フック、その後に重い左ストレート。
力任せ。技術はない。でも、力はある。
ガン、ガン、ガン!
席を離れたくなる、頭に響く轟音が何度も響く。
衝撃でテーブルの上の水が揺れ、波紋が広がる。
全て執事が受け止める。
「ックソ!鉄板付けてるからってナメやがって!」
首から上が真っ赤になっている。血管も浮き出ている。
何度も殴った拳も赤くなっている。皮膚が裂け、血が滲んでいる。
それでも拳を振る、蹴りも混ぜはじめた。従者のいろんな部位を狙う。だが、その全てが受け止められる。
瞳孔を絞り込んで観察する。
従者の動き。拳が当たる瞬間、わずかに体を捻っている。体の軸をずらして、衝撃を逃がしている。武術の基本だ。
——だが、執事はおそらくダメージを受けていない。
そうなると、話が変わる。
トップクラスの剣闘士、もしくは暗殺者ギルドの仕事人だ。
だが、疑問がある。
あの動きができるなら、力任せの打撃は全て避けられるはずだ。なのに、わざと受けている。なぜだ?
周囲を見渡す。
従者の位置。ロドリックの位置。
そして、気づいた。
従者は少しづつ、店の中央付近の開けた位置へ移動している。テーブルから離れている。客から離れている。
そうか——
開けた場所であれば、ヤツが足を滑らせてもほかの客には当たらない。テーブルも壊れない。周囲への被害を最小限にするための動きだ。
戦闘のプロだ、立ち位置をコントロールしている。ただの護衛じゃない。
炎髪の少女を見た。
彼女は呪文を詠唱している。口が小さく動いている。言葉は聞こえない。でも、唇の形が呪文のそれだ。
周囲の空気がわずかに震え始めている。魔力が集まっている証拠だ。
俺の視線に気づいたのか、ウインクを返してきた。
前衛が注目を集め、魔術師が安全に呪文を唱える。完璧な連携だ。
「くそっ……くそっ!」
ロドリックが息を切らす。額に汗が浮かんでいる。汗の匂いに酒と混じった、酸っぱい匂い。呼吸が荒い。
何度殴っても、従者は倒れない。反撃もしない。ただ、黙って立っている。
沈黙が、威圧感を生んでいる。
ロドリックの顔に、焦りの色が浮かぶ。彼の自慢の拳が、腕力が、プライドが——全て無視されている。
そして、従者が動いた。
ロドリックの両腕を掴む。鉄の手袋が、ロドリックの腕を挟む。金属が皮膚に食い込む。そのまま、動きを封じる。
「な、離せ!」
ロドリックが暴れる。でも、従者の腕は少しも動かない。まるで万力だ。筋力の差は歴然だ。
「……ちっ」
ロドリックが、舌打ちをした。
勝てない、そう悟ったのだろう。
でも——
ロドリックの目は諦めていない。
俺は直感した。まだ終わっていない。
床には空き瓶が転がっている。
ロドリックの視線が、一瞬、瓶に向かった。ロドリックの顔に、悪意が浮かぶ。
まずい——!
ロドリックが無理やり片腕を引き抜く。泥酔の勢いで、力任せに。皮膚が擦れ、肉が裂ける音。痛いはずだ。でも、アイツは気にしていない。血が、手首から垂れる。
そのまま地面に転がり込む。並んでいたエール瓶を掴む。
「くらえ!」
瓶を投げた。だが、従者の方向ではない。少女の方向を向いている
——勝てる勝算のある方を狙った。
瓶が、ロドリックの手を離れる。回転しながら宙を舞う。光を受けて、ガラスが虹色に輝く。中途半端に残ったエールが遠心力で円を描く。琥珀色の液体がガラスの内側で波打つ。
軌道は放物線。その先には、炎髪の少女。
俺は立ち上がろうとした。膝が震える。身体が重い。
椅子の脚が床を擦る。ギィィという不快な音。
遅い。遅すぎる——!
少女は、片手を胸の前で組む。
もう片手を、握手を求めるように伸ばした。そして、空中で何かを掴むように手を握った。
次の瞬間——その手には、エール瓶が握られていた。
瓶が瞬間移動した。そう説明するしかない。
俺は動体視力に自信がある。罠の毒矢も、呪文の火球だって、全て避けてきた。
その俺が、今の動きを見逃した。
酔っ払いの投げた瓶を、矢の軌道を追える、この俺が?
寝不足だからか?
いやそんなはずはない。そうでないと信じたい。
瓶が少女の手に瞬間移動した。それ以外の説明ができない。
少女が、瓶を見せつけるように掲げる。
光を受けて、ガラスが輝く。残ったエールが、ゆっくりと瓶の底に流れる。瓶が、店の光と客の注目を集め、光り輝いている。
そして、この酒場の主役になった瓶を、少女は俺たち机に置いた。
コトン——
静まった酒場に、その音だけが響いた。
静寂。
酒場全体が、息を呑んでいる。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
神の御業
少女が、深呼吸をした。
セリアが探知魔法を構える。手を前に伸ばして、空中に円を描く。
魔術師にしか分からない何かが始まったようだ。
セリアの表情が変わった。集中している。
少女の表情が変わる。
瞼を半ば閉じて、慈愛に満ちた表情を浮かべる。優しい笑顔。さっきまでの冷たい目とは、まるで別人だ。
まるで神官のような
——いや、神そのもののような。
少女が、両手を胸の前で組む。
「あれは……祈り……?」
ブレンダが驚きの声を上げる。数珠を握る手が、震えている。
「祈りの姿勢で、召喚魔法……」
セリアの声が上ずっている。
「神の力を借りるつもり!?」
ミセリコルデの唇が、動いた。
音が——いや、音ではない。言葉が、空間に染み出してくる。
聞こえるのではなく、感じる。耳ではなく、皮膚で、骨で、血で。
古代の言葉。いや、言語ですらないかもしれない。
世界の成り立ちを記述する、原初の音。
鼓膜ではなく、魂に直接響く。
手袋が光り始める。
銀色の、だが眩しくはない光。
まるで月光が凝縮されたような、冷たく優しい輝き。「祝福」そのものが可視化されたもの。
少女の周囲の空気が、震えている。
いや、震えているのは空気ではない。
世界という織物そのものが、波打っている。
少女が、両手を天へ掲げた。
匂いがする。冷たい金属の匂い。
教会の香炉から立ち上る、神聖な煙の匂い。
視界が、白く染まった。
音が消える。
時間が止まる。
世界の全てが、一点に収束する。
魔力が、皮膚を撫で、奥まで入ってくる。
筋肉を、骨を、血管を、全てを通り抜けて、
魂の、最も深い部分に到達する。
肌を焼くような熱さと、
吹雪のような冷たさが、
同時に全身を駆け巡る。
鳥肌が波のように広がる。
皮膚が引き攣る。
心臓が、一瞬だけ止まる。いや、止められる。
痛みはない。
だが、確かに「侵された」
魂の、最も深い部分を。
——召喚。
だが、何を呼んだ?
どこから呼んだ?
ただ理解できたことがある。
少女に、手を合わせたくなった。
この瞬間に立ち会えたことに、膝を付いて、頭を下げて、感謝したくなる。
これが、魔法なのか……。
ロドリックがよろめいた。
「うっ……」
膝から崩れ落ちる。まるで糸が切れた操り人形のように。彼の身体が床に倒れる
——その直前、俺は見た。ロドリックの目から光が消えるのを。意識が切り取られた。
ドサッ。
静寂。
酒場全体が、静まり返った。
大男が地面に崩れ落ちる音。酒場の全員がこの音だけを聞いていた。
誰も動かない。誰も息をしていない気がする。
セリアが呆然としている。
口を開けたまま、固まっている。
眼鏡が、わずかにずれている。
それすら、直す余裕がない。
「召喚呪文だけじゃない……」
震える声。
いや、声になっていない。呼吸に混じった、呟き。
「神聖魔法……いや、それだけじゃない……複合呪文?違う、もっと……理論が……」
「どうやって、あんな……」
彼女の脳に収まりきれなかった考えが、口から漏れ出ている。
理解しようとして、理解できない。
知っている全ての知識を総動員しても、説明できない。
セリアが、炎髪の少女を見る。その目には——
恐怖。
尊敬。
憧憬。
そして——深い、深い絶望。
ダンジョンですら堂々としているセリアが、怯えている。
自分が目指していた完璧な魔術師。その姿が、目の前にいる。
だが、あまりにも遠すぎる。
手を伸ばしても、届かない。
努力しても、追いつけない。
それを、理解してしまった。
セリアの目から、一筋の涙が流れる。頬を伝い、顎から滴る。
ただ、少女を見つめている。憧れと、絶望の混じった眼差しで。
炎髪の少女が、喉に手を当てた。
ゆっくりと、小さく咳払いをした。
疲れている。わずかだが呼吸が乱れ、肩が上下している。額に、うっすらと汗が浮かんでいる。
そして——
「失礼、私は贈り物は受け付けておりませんわ」
わざとらしい口調で言う。さっきまでの神聖な雰囲気が、一瞬で消えた。
「あと、レディへの贈り物ですよ?エールの空き瓶ではなくて、花束にしてもらえないかしら?」
茶目っ気のある表情。
緊張が一気に解ける。
酒場を包んでいた重苦しい空気が、消えていく。
拍手、歓声、ジョッキのぶつかる音——酒場の騒々しさが戻ってきた。
いつもの、賑やかな昼下がりに。
後片付け
少しして、衛兵が到着した。
扉が開き、外の空気が流れ込む。新鮮な風。酒場の重苦しい匂いが、一瞬だけ薄まる。
二人組。若手の男性に、おそらく上官の女性。女性の方は、ベテランの雰囲気がある。歩き方に迷いがない。
「ああ、またミセリコルデさんか」
女性衛兵が、少女を見て言った。
——ミセリコルデ。それが、炎髪の少女の名前らしい。
「お久しぶりです、マーサさん」
ミセリコルデが、にこやかに言う。
「エドワード、聞き込み頼む」
マーサと呼ばれた女性衛兵が、若い衛兵に指示を出す。
「はい!」
エドワードと呼ばれた若い衛兵が、ギルバートや周囲の客に話を聞き始める。メモを取りながら、真剣な表情で聞いている。
マーサが、ミセリコルデに向き直り話しかけている。うまく聞き取れないが、事情聴取だろう。
そして、マーサの眉間に皺が寄る。
おそらく、先ほどの瓶をキャッチした話をしたのだろう。見ていた俺たちですら理解できていない。口頭の説明では、ますます訳が分からないだろう。
若手が早足で戻ってくる。ブーツが床を叩く音。息が少し上がっている。
「マーサさん、目撃者複数います」
報告する。衛兵らしいハキハキとした声。
「店主と、あちらの冒険者パーティが一部始終を見ていたそうです」
マーサが俺たちを見る。射抜くような眼光。
無意識に背筋が伸びる。なにもしていないが、疑われているようで居心地が悪い。
ガレスが頷いている。
俺もあわせて頷く。
「よし、十分だな」
「ああ、そうだ」
マーサが苦笑する。顔の筋肉が緩んだ。少し親しみのある表情に変わる。
「うちの隊長が言ってたぞ。またあの赤毛の先生か……って」
「あら、それは申し訳ございません」
ミセリコルデが唇を弧の字に曲げる。困ったような、でも少し楽しそうな表情。
「私よりも話題になってほしい、当院の俳優がたくさんいるのですが、ね?」
「ははっ、そりゃそうだ」
マーサも笑った。
二人の間に、妙な親しさがある。何度も同じようなやり取りをしてきたのだろう。
俺は感心した。
荒事の後に緊張を解き、衛兵と談笑をする貴族。
魔術師の才能もあって、王立の組織の特別顧問。
——優秀すぎないか?
でも、同時に——トラブルに巻き込まれやすい体質なのだろう。
目立つ外見。挑発的な言動。絡まれるのも無理はない。
衛兵たちが、ロドリックを担架にのせて運び出す。
あの戦闘の痕跡は全てなくなり、いつもの酒場に戻った。
「では、失礼します」
ミセリコルデが、俺たちに一礼した。ローブが揺れ、白檀の香りが漂う。
「あ、ありがとうございました」
ガレスが慌てて腰を折る。
「本当に、助かりました……」
ブレンダも深々と礼をする。数珠を握りしめたまま。
セリアも、俯いたまま頭を垂れている。
ミセリコルデが、優雅に表情を綻ばせる。
そして、執事とともに退場していく。
扉に手をかけたその時——彼女が振り返った。
ルビーのような髪が、弧を描く。光を受けて、炎のように輝く。
紅玉色の瞳が、俺を射抜く。そして、微笑んだ。それは、子供の無邪気さを装った笑み。だが、その目の奥には深淵が広がっている。
「また会いましょう」
声は聞こえなかった。だが、唇が……いや、直接、脳に語りかけられた気がした。
扉が閉まる。
ベルが鳴る。その音が、やけに遠く聞こえた。
白檀とラベンダーの香りが、ゆっくりと薄れていく。
酒場の匂いがまた戻ってくる。でも、何かが変わった気がする。空気の質がわずかに違う。
心臓が、不規則に脈打っている。
シャツが背中に張り付いている——汗でびっしょりだ。
あの笑顔は——招待状だったのか。それとも、宣戦布告だったのか。
「……なんだったんだ、あの子」
ガレスが、ようやく口を開く。椅子に座り直す。木材が軋む音。
「……わからないわ」
セリアが答える。眼鏡を外して、目頭を押さえている。疲労か。それとも、悔しさか。
「でも、実力は本物ね」
少し前に失礼なことを言ったクセに。でも、認めざるを得ないのだろう。声に諦めが混じっている。
「神に祝福された子……」
ブレンダが呟いた。数珠を撫でながら。褒められたのが嬉しかったのだろう。ずっと口角が上がっている。表情が明るい。
「赤髪の特別顧問、なんて呼ばれてる」
ギルバートがカウンターから声をかけてきた。カップを磨きながら、こちらを見ている。布がガラスを擦る音。
「腕はいいがトラブルメーカーでもある」
「トラブルメーカー?」
俺は首を傾げた。
「まあ、本人が悪いわけじゃないんだがな」
ギルバートが苦笑する。肩をすくめる。
「目立つから絡まれる」
「……なるほど」