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不眠の冒険者たち

机から眺めたカウンターのイラスト

不眠の冒険者たち

長すぎる昼

誰も水に手を伸ばさない。

結露がジョッキの腹を伝い、卓に小さな沼を広げているのに、四人とも見て見ぬふりを決めこんでいる。
拭けば済む。拭く気力がない。それだけのことが、今の俺たちには山越えに等しい。

錆びた剣亭は、相変わらず騒々しかった。
冒険者の笑いが梁を震わせ、ジョッキの底が卓を叩くたびに、店全体がひとつの大きな獣みたいに脈打つ。
焦げた脂と古い革、染みついた汗、暖炉から這い出る煙。匂いの層が幾重にも折り重なって、この店が潜り抜けてきた年月を喉の奥に押しこんでくる。

その熱が、俺たちの卓にだけ届かない。
炎の勢いは変わっていない。距離も変わっていない。
ただ、光が途中で力尽きる。


三日眠っていない。
皮膚の目盛りが、すっかり狂っている。
服の縫い目が、解除し損ねた針金みたいに肌へ食いこむ。背は汗で湿っているのに、爪先まで血が回りきらない。

この冴え方を、俺は知っている。
仕掛けを張った藪で、夜明けまで一人で標的を待った朝。神経だけが先に焼き切れていく、あの過剰な覚醒だ。


「まだか……」
ガレスが、何度目とも知れない吐息をついた。

普段なら卓の角に肘を置いても崩れない背が、今は椅子に丸ごと沈んでいる。目の下の翳りは、昨日より一段濃い。

「私だって、わかれば、苦労は……」
セリアの声が、糸の最後の一撚りみたいに細る。

眼鏡の奥は、床の一点を見ている。いや、自分の指先を見ている。――どこも見ていない。
いつもきっちり結われている髪が、今日はほどけたまま卓に落ちて、その毛束を爪が掻く。頭皮を立てる硬い音が、さっきから途切れない。

「落ち着きなさいな」
ブレンダが、数珠の珠を一つずつ繰りながら言う。木玉の擦れる音が、店の喧騒の底に細く沈んでいる。
「朝いちばんに古物院へ預けたんだもの。じきに返事が来るわ」

ドワーフの神官だけは、まだ顔色を保っている。ただ、眼差しが宙を泳いでいた。

俺は卓に突っ伏したまま、頬で樫の冷たさを舐めていた。
木目の溝。細かな刃の傷。何百もの肘がここへ体重を落としてきた痕が、こうして顔を寄せると値踏みできる。俺はその最新の客というわけだ。

瞼を閉じる。裏側が重い。
だが、眠りは来ない。
暗がりに、あの仮面の輪郭がぼうと浮かぶ。それだけが、来る。


三日前の夜、ガレスが悲鳴で跳ね起きた。何かに追われる夢を見た、と蒼い顔で言った。
二日前は、俺とセリアが同じ夢を分け合った。黒い影、逃げ場のない圧。覚めた後もしばらく、寝台の向きと灯りの位置が頭の中で噛み合わなかった。
昨夜は、誰も横にならなかった。

あの仮面のそばで眠ると、悪夢が来る。そして夜ごと深くなる。
それだけは、四人とも疑わなかった。


その時——卓の上の匂いが、変わった。

土の匂い。掘り返した墓穴の底の、湿った泥と朽ちた何かの匂いが、エールと脂の層を切り裂いて滑りこんでくる。
気配。背後の路地に尾行者が現れたときの、あの首筋がざわつく感じだ。
敵意のある、こちらの臓腑を覗きこむような何か。

顔を跳ね上げた。

卓。椅子。煤けた壁。暖炉の炎が、いつも通り揺れている。
何も、いない。
だが、火がやはり遠い。手放したはずの仮面が、まだ俺の頭蓋の内側に居座っているのだ。

カップを持ち上げ、口へ運び、また下ろした。
味が、しない。


「おい、フィン。生きてるか」
ガレスが覗きこんでくる。吐く息が、こめかみにかかった。

「……ああ。ちょっと、ぼけてた」
嘘だ。罠の気配を拾い続けているときの張りつめ方に、これはよく似ている。ぼけてなどいない。
だが正直に言って、どうなる。仮面は引き取ってもらった。それでも肌の下で警告が鳴り続けている——まだ終わっていない、と。


あの仮面だけは、勝手が違った。
錠は開けられる。罠は見抜ける。暗号は解ける。それが俺の値打ちだ。
だが、精神に滲みる毒に対して、俺の指先は一文の役にも立たない。

結露したカップの腹に、歪んだ顔が映っている。
何の値もつけられない顔が、水の膜の上で揺れていた。


「窓口で言われたよ。こっちで預かる、結果は追って知らせるから酒場で待て、ってな」
ガレスが力なく笑う。声の端に、昨日よりわずかに柔らかいものが戻っていた。

「あの仮面から離れられただけで、もう御の字よ」
セリアが頷く。血の気の引いた肌が、暖炉の赤を受けても紫がかって見える。
また、髪を掻く音。


「おい、お前ら」
カウンターからギルバートが声を投げた。
元冒険者のがっしりした肩。灰色の髪、陽に灼けた顔、腕を何本も横切る古傷。布巾でジョッキを拭きながら、こちらを見ている。
「報せが来た。担当が今からこっちへ来るとよ」

「本当か」
ガレスが上げた顔が、ほんの少しふらついた。

「ただな。来るのは、特別顧問だそうだ」
低い声。珍しい獲物を遠目に見つけた猟師の口ぶりだった。

特別顧問。
長い白髭の老爺か、それとも妙な衣裳を着た道化の類か。
少しだけ、興味が戻る。いや――別の何かに頭を向けていたいだけの、焦りかもしれない。
誰が来ようと構わない。この呪いから抜けられるなら、それでいい。

炎髪の来訪者

カラン、と扉の鈴が鳴った。

反射で目が動く。直せない癖だ。扉の開く音だけは、いつも先に確かめてしまう。

戸が開く。風が滑りこんだ。
白檀の香に、針で刺すような薬草の刺激。甘さは、少し遅れて追いかけてくる。


外光が、店の薄闇へ切れこんだ。
逆光の芯に、小さな影が立つ。

長い耳の縁が、光で銀の線に縁取られている。エルフだ。
だが、背丈は子供のそれ。炎の色をした髪が、風を受けて一度だけ大きく揺れた。

そして――纏っているのは、戦装束ではなかった。
幾重にも段を重ねた、淡い薔薇色のドレス。裾でフリルが波を打ち、白いレースが光を含んでふくらんでいる。胸元に大ぶりのリボン、首には青い石が一粒。
古物院の使いと聞いて身構えた頭が、絵札を一枚、取り落とした。こんな格好で呪いの始末に来る人間は、俺の知る台帳のどこにも載っていない。

手には黒いステッキ。柄に嵌まった石は見たことのない種で、内側で何かがゆっくり渦を巻いている。
柄を握る指に、宝石が連なっていた。緑に青、それから赤。数えるのが惜しくなる数の指輪が、一つずつ別の値札を提げている。
ざっと見積もって——俺が今まで関わった依頼の総額より、たぶん上だ。


後ろに、もう一人。

細身の従者が、音もなく続いた。
軽装。修道僧めいた灰緑色の衣に、目元を覆うように伸びた前髪。腰には細身の片手剣を一振り、儀礼のように帯びている。
背は――主人と、ほとんど変わらない。子供ほどの背丈の護衛だ。

俺は目を細めた。

歩みに、継ぎ目がない。
床板は軋むのに、足音そのものはほとんど立たない。体重を一点に乗せない歩き方だ。
だが――

(……匂いが、ない)

人なら、必ず匂う。
汗、脂、吐く息。どれだけ身を清めても、生きていれば滲み出る。
赤毛の主人からは白檀と薬草。ギルバートからは酒と煙草。ガレスからは疲労の酸。
従者からは――何も来ない。

呼吸の上下もない。布の下に、生きものの温度がない。
日陰で命の取り引きを重ねてきた俺が知る限り、人の形をした者には必ず「生きている証し」がある。
あの長衣の下には、それが無い。

(人じゃ、ない)
答えが、静かに胸へ落ちてくる。


赤い髪の少女が、こちらを見た。
紅玉の瞳。底の知れない色。

次の瞬間――

何かが、頭の内へ忍びこんだ。
考えと考えの隙間へ、細い指先を差しこまれるような侵入。
暗号を一文字ずつ追っていたときの集中が、水で洗い流されていく。

(……俺は、何を考えていた)
たった今まで確かに握っていたはずの何かが、砂みたいに指の間からこぼれる。
掴み直そうとしても、形が残っていない。


(……ああ、そうか。よく仕込まれた従者だ)
そうだ。
訓練された護衛だから、無駄なく動く。気取られないよう足音を殺す。それだけのことだ。
何を、俺は疑っていた。

……でも。
腹の底に、薄い澱だけが残っている。
何かを見落とした。
大事な手がかりを、たった今、手放したばかりだ。
それが何かは――思い出せない。

頭を小さく振る。寝不足のせいにしておく。今は、そう決めておく。


緋色の髪が、店内をくるりと見回した。
顔を子供っぽく振る仕草。だが視線の運びは別物だ。客の数、出口までの線、卓ごとの人の配置——巡回路を引く者の順序で、瞳が滑っていく。
サーカス小屋に来た子供の目では、断じてない。

その視線が、俺を捉えた。

尾けている相手に、ふいに背中を見られたときの感覚がある。背骨の芯を細い針が下から上へ抜けていく、あれだ。

少女が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
コツ、コツ、とステッキが床を打つ。足取りに迷いがない。白檀の香が、一歩ごとに濃くなる。


ガレスが、戸惑い顔で腰を浮かせた。
「あー……どちら様、で?」

少女が、口角を品よく持ち上げた。
「ごきげんよう。王立文化古物院、呪物特別顧問でございます」
掠れた、けれど人懐こい声。だが、その声色と先ほどの値踏みの目は、まるで別々の人間の持ち物だった。

差し出された身分証。上質な紙に銀の徽章。古物院の紋が、きっちりと刻まれている。


「お待ち、しておりました」
ガレスが、ふらりと立ち上がる。

少女が一同を見渡す。さっき俺が従者へ向けたのと同じ目で、こちらを丁寧に検めている。
「三日間の不眠、と伺っております」
声に、わずかな気遣いが滲んだ。
「軽い治癒程度でしたら、わたくしにも心得が――」

その視線が、ブレンダで止まる。そして、蕾がほどけるように顔つきが変わった。検分の色が、すっと引いていく。
「あら。優れた神官さまが、おそろいですのね」
「わたくしの拙い祈りなど、足元にも及びません。お仲間は、どうかこの方に癒していただいて」

ブレンダが、少し驚いた顔をした。数珠を胸に当て、唇が静かに弧を描く。
「ご丁寧に。では、後ほど」


セリアは、緋色の少女をじっと見つめていた。

眼鏡の奥の視線が、手元へ。指輪へ。ステッキの石へ。それから、耳の形へ。
魔術師として情報を拾っているのか、別の何かを呑みこもうとしているのか――俺には、後者に見えた。

セリアの唇が、わずかに動く。
「……失礼ですが」
声が上ずっている。抑えきれない何かが、隙間から漏れていた。
「こんなに、お若い方が……本当に、王立の、特別顧問で――」
そこで言葉が詰まる。開きかけた口が、何度か閉じる。自分の手のひらを見て、また少女を見た。

少女は、笑みを崩さなかった。だが、瞳孔がほんの少し開いた。
「まぁ。あなたほどの術者が、見た目だけでものを量られるとは」

セリアは、何も返せなかった。
口は動く。声が出ない。肩が内へ丸まっていく。
「……すみません」
聞き取るのがやっとの声だった。

少女が、短く咳払いをひとつ。
「呪いの力が、相当に強いようですわね。判断力を、ずいぶん削られていらっしゃる」
事務的な響きだった。ブレンダを持ち上げたときとは、温度がまるで違う。通行札を改める衛兵の、あの平らな声に近い。


「では、鑑定の結果を」

従者が、革鞄から書類を抜いて差し出す。紙の擦れる音。
少女がそれを広げた。
「今朝お預かりした、仮面の件ですが」
「古い儀式用の仮面。屍の魔法が、深く根を張っておりました」

俺は身を乗り出す。やっと、答えだ。

「当院の設備と人手をもってしても、読み解くのに難儀いたしました」

「やっぱり……!」
セリアが顔を上げた。さっきまでの惨めさが引いて、術者の目に戻っている。
手が宙で動いた。書き取る仕草。羽根ペンも紙も、その手にはない。

「精神を蝕む呪いです。おそらくは、被った者の人格そのものを壊すために編まれたもの。……悪夢は、ほんの入口の反応ですわ」

「人格を、壊す……」
ブレンダが息を呑む。顔色が変わった。数珠を握りこむ手の中で、木玉が軋む。

あと数日、抱えて眠り続けていたら。
その先を、考えるのをやめた。

「手放すご判断が早うございました。ゆえに、軽傷ですわ。芯まで持っていかれてはおりません」
少女が、陽だまりを集めたような笑みを見せる。今度のは、作り物ではなかった。
「数日しっかりお休みになれば、元通りですわ」

「それは……助かる」
ブレンダが太い息を吐く。数珠を握る指が、ほんの少しゆるんだ。


「で、これからどうすりゃいい」
ガレスが尋ねた。そうだ、鑑定が済んだだけ。始末の付け方が、まだ決まっていない。

「道は、主に二つございます。解呪か、当院への売却か」
書類を持つ指で、指輪同士が触れ、金属の細い音が鳴った。

「呪われた品を……買い取るのか?」
ガレスが言葉を繰り返す。

俺も意表を突かれた。呪物といえば、こちらが始末料を払って引き取ってもらうのが筋だ。
セリアが幾晩も鑑定に挑み続けたのも、その費用を浮かせるためだった。

「ええ。買い取らせていただきますわ」
少女が頷く。
「国の方針として、ありとあらゆる魔の術理を研究しております。呪物も、立派な研究の種です。お値は、1200ゴールド」

四人で割れば、それぞれ300ゴールド。悪くない。
いや、呪われた品にしては、出来すぎだ。

「安く買い叩いている自覚は、ございます。ですが解呪は要りませんし、今朝の鑑定料も頂きません。……それに、買い手が今ここにおります。すぐ金に換わりますわ」
少女が、少しだけ申し訳なさそうに言う。事務の口ぶりの底に、たしかに気遣いが混じっていた。


少女が軽く手を上げる。
言葉はない。それだけで従者が動いた。革鞄から、小さな袋を取り出す。チャリ、と金属の触れ合う音。


「俺はもう、アレに関わりたくない」
ガレスが一同を見回した。「売る。それでいいか」

「賛成」セリアが即答する。
「私も」ブレンダが頷く。
「俺も」手を上げた。悪夢は、もう沢山だ。


「では、証文を」
少女が口角を上げる。

従者が契約書を広げた。
「呪物の権利を譲るための証文です。お確かめのうえ、ご署名を」

ガレスが目を通す。不眠で霞む目を何度もこすりながら、一行ずつ指でなぞっていく。
羽根ペンが羊皮紙を引っかく、細い音が続いた。


少女が、金貨の袋を渡す。
ガレスが中を検める。一枚ずつ指の腹で確かめるたび、卓の上で銀の色が小さく跳ねた。
「……割って、300か」
ガレスが呟く。「今夜は一番上等な部屋を取って、泥みたいに眠ろうぜ」

四人で、深く頷いた。
命を賭けた稼ぎとしては安すぎる。だが今の俺たちには、解呪を待つ時間も、あの仮面をもう一晩運ぶ気力も残っていない。
何より——悪夢を見ずに眠れる。それで、釣りが来る。

乱入者

その時だった。

ガチャン、と扉が乱暴に開いた。

反射で視線が飛ぶ。木枠が壁を打つ鈍い音。勢いが強すぎる。よほど気が立っているか、酒で度胸を借りているかの、どちらかだ。


「おう、ギルバート! 酒だ酒!」

千鳥足で入ってきたのは、ひと目で酔いと知れる大男だった。
酒灼けした顔、厚い肩。汗染みと泥と、茶に乾いた血の痕で汚れたよれよれの服。皮鎧は手入れの跡もない。腰の短剣は刃がこぼれている。安物だ。

俺は一目で値を読む。
駆け出し。この街に流れ着いて間もない。まともな依頼にありつけず、昼間から安酒で気を紛らせるしかない口だ。
かつての俺が、まさにそうだった。だから、わかる。


「またお前か」
ギルバートが渋面を作る。
「昼間から飲むなと言ってるだろう」

「うるせえ!」
男がカウンターへ向かう。足がもつれ、卓に手をついて体を支えた。

俺は短く息を抜いた。面倒が一つ、転がりこんできた。


男の濁った目が、店内を泳ぐ。焦点が定まらない。
そして、炎髪の少女で止まった。

嫌な予兆がする。尾行中の標的が、予定外の細道へ折れる直前の、あれだ。

「おいおい、こんなとこに、迷子のガキか?」
にやつきながら近づいてくる。足音が大きい。床板が鳴く。周りの客が迷惑そうに首を向けた。酒の匂いが、こちらまで濃く流れてくる。

やめとけ、と小声で投げた。届かない。


「お嬢ちゃん、おじさんに小遣いを恵んでくれや」
男が少女の前に立った。酒臭い吐息が、その細い肩へ吹きかけられる。
「護衛料ってことでよ」

炎髪の少女は、薄く削いだ氷のような笑みを浮かべた。
「……あら。ご親切に」

「おう、話のわかるガキだ」

「ですが、お断りいたしますわ」

「あ?」
男の顔が歪む。

「役立たずに雇用費を積むほど、わたくし、暇ではございませんの」
少女が上体をわずかに前へ傾けて言う。声だけが愛らしく、目はどこまでも凪いでいる。
「仕事も品性もない、どこぞのおバカさんと違って。ねぇ?」

「バカ、だと——!」
男の顔が朱に染まる。吐く息が荒くなった。


その瞬間——従者が、出た。

音もなく前へ滑りこみ、男と少女の間へ体を入れる。

「なんだテメェ、どけ!」
男が拳を振りかぶった。力任せの、雑な一打。

振り下ろされる。
——が、当たらない。

従者が、拳の届く寸前で体の軸をひと捻りした。
当たるはずの一撃が、布の表面を撫でて虚空へ流れる。男の腕が、的を失って空を掻いた。

「……っ?」
男が、たたらを踏む。


「くそっ!」
左右の連打。重い右の突き。技はない。だが、力はある。
俺は息を詰めて見ていた。あの体格差なら、小柄な護衛など一撃で吹き飛んでもおかしくない。

掠りもしない。

従者は、一つとして真正面で受けない。
紙一重で軸をずらし、肩で逃がし、布の上を滑らせる。拳が来るたび、その細い体が背の高い雑草みたいにしなって、衝撃だけを横へ受け流していく。
重さで受け止める護衛なら、何人も見てきた。これは違う。止めない。
ぶつかる手応えそのものを、相手に与えないのだ。


俺は目を細めた。

いなしながら、従者は少しずつ立ち位置をずらしている。
卓から離れ、客から離れ、店の中ほどの開けた床へと、男を釣り出していく。
男の足がもつれても、客に当たらない。卓も倒れない。罠師が仕掛けの作動範囲を測るように、巻き添えの線をあらかじめ外してから、相手を誘っている。
ただの護衛じゃない。これは、間取りを読む者の動きだ。


炎髪の少女に目をやる。
唇が小さく動いていた。声は聞こえない。だが、形が呪文のそれだ。
周りの空気が、かすかに張りを帯びはじめている。

俺の視線に気づいたのか、片目をつむってみせた。
前衛が視線を集めるあいだに、後衛が術を組む。出来すぎた連携だ。


「くそっ、ちょこまかと——!」
男の額に汗が浮く。酒に酸の混じった臭いが立った。
何度打っても掠らない。反撃も来ない。ただ、滑られる。
その沈黙が、男の顔に焦りを刷いていく。


そして——従者が、はじめて踏みこんだ。

低い姿勢から、男の踏みこんだ足の内側へ、ひと足。
体当たりではない。掬うような、小さな掛け。
小柄な体が、低い重心ごと男の軸足をさらった。

大男の巨体が、足元から泳ぐ。
両腕が宙を掻き——倒れる。


ドゥッ、と床が鳴った。
背中から落ちた男の上に、埃が舞う。


従者が、腰の細剣を抜いた。

銀の切先が、仰向けの男の喉のすぐ上で——止まる。
触れていない。皮一枚ぶん、手前で静止している。

言葉はない。だが、刃がすべてを言っていた。
殺せた。殺していない。
ここで終わりにしろ——と。

俺は、息を呑んだ。
この細さで、この背丈で、大男を一度も触らせずにいなし、足を払い、喉元へ刃を据えて、なお一滴の血も流させない。
情けじゃない。情けなら、もっと熱がある。これは値踏みの結果を、刃の先で突きつけているだけだ。


男の目が、刃と従者を往復する。
そして——その奥が、まだ折れていない。
俺は直感した。
まずい。終わっていない。


床に、空き瓶が一本転がっている。
男の視線が、一瞬そこへ飛んだ。

(——よせ!)

剣の下から、男が無理やり身をよじった。
喉先の切先をかいくぐり、転がりざまにエール瓶の首を掴む。

「くらえっ!」
投げた。従者へ、ではない。少女の方へ。
——勝てる目のある側を、狙ったのだ。

瓶が手を離れ、回りながら宙を行く。ガラスが暖炉の赤を弾き、底に残ったエールが遠心で内壁を駆けあがる。
放物線の終点に、炎髪の少女がいる。

立ち上がろうとした。膝が言うことを聞かない。三日ぶんの不眠が、ここで一気に足を縛る。椅子の脚が床を擦る音だけが、空しく鳴った。
遅い。遅すぎる——

御業の名残

少女は、片手を胸の前で組んだ。

もう一方の手を、挨拶でもするように前へ伸ばす。
そして、宙で何かを掴むように、その手を握った。

次の刹那——その手の中に、エール瓶があった


瓶が、間を飛ばした。
そうとしか言いようがない。

俺は、動体視力が商売道具だ。毒矢の筋も、火球の弧も、欠かさず見切ってきた。
その俺が——拾えなかった。あの一瞬を、俺の目はとり逃がしてしまった。酔っ払いの放ったタマを、この俺が、だ。

寝不足のせいか。
——いや。それだけでは、勘定が合わない。
空中のものを手繰り寄せる類の魔法。そういう直感が鳴っている。
だが、証す手立てがない。俺の目はこの速さを「おかしい」と叫べるのに、それが魔法だと暴く鍵を、俺は持っていないのだ。
逆に、魔法かどうかを検める眼を持つ者は、たいていこの速さを目で追えない。
見える者には測れず、測れる者には見えない。その裂け目に、この一瞬はすっぽり落ちて消える。


少女が、瓶を軽く掲げた。
ガラスが光を含み、底のエールが緩く回る。物音の絶えた店内で、その一本だけが、すべての視線を吸い寄せていた。
そして少女は、それを俺たちの卓へ置いた。

コトン——

その音だけが、店に落ちた。

静寂。誰も動かない。誰も声を出さない。


少女が、ひとつ深く吸気した。

セリアが探知の魔法を組みはじめる。手を前へ伸べ、宙に指で円を描いた。術者にしか見えない何かが、そこで動きだす。
セリアの横顔が、刃みたいに研がれていく。


少女の面差しが、変わった。
瞼を半ば伏せ、表情から角が落ちる。さっきまでの鋭さが、別の層の下へ沈んでいった。
神官が祈りに入る、その直前の——いや、もっと静かな何かだ。

少女が、両手を顔の前で合わせる。

「あれは……お祈り?」
ブレンダが声を漏らした。数珠を持つ手が、宙で止まっている。

「祈りの構えで、召喚術を……」
セリアの声が上ずる。「天の力を、借りる気——!?」


少女の唇が、ひらいた。

神々よ。その慈愛をお貸しください。熱を沈め、心を改める時間をお恵みください。

音が——いや、音ではない。
耳ではなく、皮膚で、骨の芯で受け取る震えだった。

手袋が、ほのかに灯りはじめる。
冷たい燐光。だが、目を灼かない。月明かりをひと匙、硝子に閉じこめたような、穏やかな光だ。

少女が、合わせた手を天へ掲げた。

冷えた金物の匂いと、香を焚いた後の煙。古い神殿の戸口に立ったときの、あの背筋を正させる気配が立ちこめる。

灼けるような熱と、吹雪の芯のような静けさが、同時に背を流れていった。
皮膚が引き攣れる。何かに、深く踏みこまれた。
痛みはない。だが確かに、ふだん誰も触らない奥まった場所を、一度だけ叩かれた。

——召喚。
だが、何を呼んだ?

俺には、これの値が読めない。
錠前なら難度がわかる。罠なら仕掛けが読める。だが、今ここで起きているものには、目盛りの当てようがない。
測れないものを前にしたとき、人は頭を垂れる。それしか、できることがない。


男が、よろめいた。
「う……っ」

膝から、崩れていく。根を断たれた大木が前のめりに傾ぐように。


ドサッ。


大男が床に落ちた音だけが、店を走り抜けた。
誰も動かない。物音ひとつ、立たない。


セリアが、口を開けたまま固まっていた。眼鏡が、わずかにずり落ちている。直す余裕もない。
「召喚だけじゃ、ない……」
震える声に、言葉にならない欠片が混じる。
「神聖術……いえ、それだけでも……励起術? 違う、もっと……理論が、追いつかない——」
「どうやって、あんな……」

セリアが少女を見る。唇がわなないていた。眼鏡の縁に、光が滲んでいる。
視線を逸らせないまま、声も出せないまま、ただ座っていた。


炎髪の少女が、喉に手を当てた。
ゆっくりと、小さく咳払いをする。呼吸が、わずかに乱れていた。額に薄く汗が滲んでいる。

「失礼。わたくし、贈り物はお受けしない主義ですの」
わざとらしい声だった。さっきまで店を満たしていた荘厳な重みが、一拍で霧散する。
「それに、淑女への贈り物ですわよ? エールの空き瓶ではなく、花束にしていただけないかしら」
茶目っ気を含んだ顔。

その一言で、張りつめた膜が弾けた。
拍手、歓声、ジョッキの底が打ち合う音——錆びた剣亭の喧騒が、潮みたいに戻ってくる。
いつもの、昼へ。

後片付け

しばらくして、衛兵が二人、店に入ってきた。

戸が開き、外の風が流れこむ。新しい空気が、染みついた店の匂いを一瞬だけ押し戻した。

若い男と、中年の女。女のほうは足の運びに迷いがない。場数を踏んだ者の歩き方だ。

「ああ、またミセリコルデさんか」
女の衛兵が、少女を見て言った。

——ミセリコルデ。それが、炎髪の少女の名らしい。

「お久しゅうございます、マーサさん」
ミセリコルデが、にこやかに返す。

「エドワード、聞き込みを頼む」
マーサと呼ばれた女が、若いほうへ指示を飛ばす。
「はい!」
エドワードがギルバートや客に話を聞き始める。書き取りながら、真剣な顔で頷いていた。


マーサがミセリコルデへ向き直り、事情を聞いている。
やり取りは聞き取れない。だが、瓶のくだりに差しかかったのだろう、その顔の眉間に皺が刻まれた。
無理もない。一部始終を見ていた俺たちですら、あれを言葉にできないのだ。口で説明されたところで、訳がわからなくなるに決まっている。


若いほうが早足で戻ってくる。ブーツが床を叩く。
「マーサさん、目撃者は複数。店主と、あちらの一行が、最初から見ていたそうです」

マーサが俺たちを見た。値踏みするような目つき。
何もしていないのに、勝手に背筋が伸びる。
ガレスが頷く。俺も合わせて頷いた。

「よし、十分だ」


「ああ、そうだ」
マーサが苦笑する。顔の強張りが、少しほどけた。
「うちの隊長がぼやいてたぞ。また、あの赤毛の先生か……ってな」

「あら。それは申し訳ございません」
ミセリコルデが口角を歪める。困ったような、それでいて少し面白がるような顔。
「わたくしより評判を取っていただきたい役者が、当院には大勢おりますのに。ねぇ?」

「はは、違いない」
マーサも笑った。

二人の間に、奇妙な親しさがある。同じやり取りを、何度も繰り返してきた者同士の呼吸だ。


衛兵たちが、倒れた男を担架に乗せて運び出していった。
争いの痕が消えて、ただの昼の酒場に戻る。


「では、失礼いたします」
ミセリコルデが俺たちへ一礼した。ドレスの裾が翻り、白檀がふわりと立つ。

「ありがとう、ございました」
ガレスが慌てて腰を折る。
「本当に、助かりました……」
ブレンダも深々と頭を下げた。数珠を握りしめたまま。
セリアも、俯いたまま礼をする。眼鏡は外したきりで、目頭を指で押さえていた。


ミセリコルデが、優雅に微笑んだ。
そして従者を引き連れ、戸口へ歩いていく。

把手に手をかけたところで、彼女が振り返った。

炎の色の髪が、弧を描く。逆光を受けて、縁が燃え立った。
紅玉の瞳が、俺を貫く。そして、子供の無邪気さを写し取った笑みが浮かぶ。だが、その目の奥には、底の見えない淵がひらいていた。

「また、会いましょう」
声は、聞こえなかった。
だが唇が——いや、言葉が、耳を経由せず、直接、頭の内側へ落ちてきた気がした。


戸が閉まる。鈴が鳴る。
その音が、やけに遠い。

白檀と薬草の残り香が、ゆっくり薄れていく。
店の匂いが戻ってくる。だが、何かが入れ替わった。空気の質が、わずかに違う。


シャツが、背中に貼りついていた。
いつの間にか、びっしょりだ。汗をかいた覚えが、まるでない。

細工の凝った宝箱ほど、仕掛けは命取りだ。
可憐で、礼儀正しく、おまけに桁外れの腕前ときている。そういう相手を、真っ先に疑ってしまうのは——たぶん、俺の職業病なんだろう。


「……なんだったんだ、あの子」
ガレスが、ようやく口を開いた。椅子に座り直す。木が軋む。

「……わからないわ」
セリアが答える。眼鏡を外したまま、目頭を押さえたままで。
「でも、腕は本物。それだけは、認めるしかない」
声に、諦めが混じっていた。

「神さまに、愛された子……」
ブレンダが呟く。数珠を撫でながら。褒められたのが、まだ胸に残っているのだろう。口角が、静かに上を向いていた。


「赤髪の特別顧問、なんて呼ばれてる」
カウンターからギルバートが言う。杯を磨きながら、こちらへ目を向けて。布がガラスを擦る音。
「腕はいいが、騒ぎを連れてくる。トラブルメーカーさ」

「トラブルメーカー?」
俺は首を傾げた。

「まあ、本人が悪いわけじゃないんだがな」
ギルバートが肩をすくめる。「目立つから、絡まれる」

「……なるほどな」

店の喧騒が、すとんと耳に戻ってきた。
さっきまで、あんなに遠かったのに。今は卓を叩くジョッキの音も、隣の卓の笑いも、ちゃんと近くで鳴っている。
俺は水のジョッキへ手を伸ばした。結露はもう、ただの結露だ。
ひと息に呷る。冷たさが喉を落ちていく。
背中の汗が、ようやく乾きはじめていた。