店主さん

賑やか

ギルバートがお酒を運んでいる日は、だいたい席が足りない。
今日もそうだった。

錆びた剣亭は、人が多い。
入口から奥まで、椅子の背と肩と荷物が詰まっている。
焼いた肉の脂と葡萄酒の匂いが混ざって、厨房の扉が開くたびに熱まで足された。

給仕がひとり、盆を頭の高さまで持ち上げて人の間を抜けていく。その後ろを、空いた皿を両腕に積んだギルバートが追いかけていた。
店主まで働いてる。


「詰めておくれ」
マグダが言った。
返事より先に、空いていた椅子の背を掴んでいる。

ミーちゃんが椅子を少し引いた。
ミルも足を寄せた。

「どうぞ」
「ありがとよ、おチビちゃん」
マグダは座った。

これで、このテーブルは三人。

卓の上は、皿が二枚、取り皿と、お酒。
ミルの前の肉はもう半分ない。
ミーちゃんの方はあまり減ってなかった。

「それ食べないなら、もらっていいっすか」
「駄目です。まだ食べています」
「さっきから減ってないっす」
「会話というものをしているんですよ、ミルさん」
「食べながらできるっすよ」
「あなたを基準にしないでください」

マグダが笑った。
「相変わらずだねえ」
「何がです?」
「両方さ」

何が両方なのかは、別に分からなくてもよさそう。

肉を切る。

妖精の名前

卓の横から瓶が一本出てきた。
「赤、飲むか」
ギルバートだった。
片手にワイン瓶、反対の手には空いた皿が重なっている。

ミーちゃんが顔を上げる。
「あら。新しいものですか?」
「昨日入った。問屋がうるさく勧めてきたやつだ。悪くはない」

瓶が卓へ置かれた。
カッコいいラベルだった。読めないわけじゃない。人名っぽい、おそらく偉い人の名前だろう。

「人の名前っすか?」
「妖精だとさ」
ギルバートは言った。
「なんでも話じゃ、昔の英雄についてた妖精の名前らしい。旅の途中で知り合って、そのまま最後まで一緒だったとか。恋人とか言ってたな」

「あら」
ミーちゃんの手が瓶の首で止まった。声は軽かった。
「それは、ずいぶん後のお話ですわね」
「違うのか?」
「ええ。古い形では」

瓶を少し回す。ラベルの文字を確かめている。
「この妖精が登場するのは、英雄がある道を通ったときだけです。道を教えた、というよりは……むしろ、横道へ誘い込んで迷わそうとした可能すらありますわ」
「守護妖精じゃないのか」
「まるで反対ですわ」

ギルバートが瓶を見た。瓶は何も返さない。
「恋人は?」
「それも後世ですね。原典には、恋仲を示すものは特にございません」
「じゃあなんで最後までついてくる話になったんだ」

ミーちゃんは少し考えた。
「皆が、気に入ってしまったのでしょうね。英雄より、妖精の方を」
「そんなもんか」
「物語なんて、案外そんなものですわ」

ギルバートは「ふうん」と言った。
空いた皿を持ち直す。
後ろから給仕に呼ばれて、そちらを見る。


その横で、マグダが酒杯を持ち上げた。
「……あんた、昔その話やってなかったかい」

ミルの耳が立った。
「やってたっす!」

ギルバートがまだ一歩しか進んでいなかったので、振り返った。

ミーちゃんは、瓶を回していた手を止めたままだった。

「やってたっすよね。勇者がそのまま引っ掛かるやつ」
「……よりにもよって、そちらを覚えていらっしゃるんですの?」
「覚えてるっすよ」
面白かったから。

妖精が道を外させようとする。英雄はそれを退ける。
本当の話は、たしかそこで先へ進む。
ミーちゃんの話は進まなかった。

「最初は、道を調べるって言ってたっす」
ミルは肉を置いた。
「二回目も道を調べるって言ってたっす」
「二回目は地形の確認です」
「同じじゃないっすか」
「英雄本人に言って差し上げてください」
「三回目は斥候だったねえ」
マグダも入ってきた。

そうだ。
三回目は斥候だった。
仲間に何を言われても、ひとりで行く必要があると言い張っていた。帰ってきたとき、やたら機嫌がよかった。

四回目には、仲間も誰も信じていなかった。
「四回目……四回目は……」
「そこまで覚えているなら、ご自分で思い出してください」
「おチビちゃん、魔物の痕跡を調べるとか言わせてなかったかい?」
「……ええ」
「で、魔物は?」
「出ません」
「妖精は?」
「出ましたね」

マグダが喉を鳴らして笑った。

ギルバートもまだいた。
「そういや、そんな話だったな」
「あなたまで覚えていらっしゃるんですか」
「あれだけ客が笑えばな」

ミーちゃんが少しだけ目を細めた。
「学術的には何の価値もない話ですよ」
「そうなんスか?」
「原典とも違います」
「そうなんスか?」
「一般に知られている異本ですらありません」
「そうなんスか?」
「では、なぜそんなに嬉しそうなんです?」
「面白かったからっす」

それ以外に何かいるんだろうか。

ミーちゃんは黙った。

マグダが杯の中を覗きながら言う。
「そもそも、真面目にやったら一晩も持たないじゃないか。妖精が迷わせに来ました、英雄は惑わされませんでした、はい次の旅路」
「原典は、その後も長いんですよ」
「そこじゃないよ」
「分かっています」

別の卓から注文が飛ぶ。
「親父、エール二つ!」
「聞こえてる!」

その返事が、頭の上を飛んでいった。

ギルバートが笑って、今度こそ行った。

もう一回

ミルはワインを少し飲んだ。
酸っぱい。ミーちゃんが好きそう。
もう一口飲んでいた。

「ミーちゃん」
「嫌です」
「まだ何も言ってないっす」
「顔を見れば分かります」
「またやってほしいっす」
「ほら」
「当たったっすね」
「当てたくありませんでした」

尻尾が椅子の脚に当たった。
さっきまでは床に落としていたのに、いつの間にか上がっている。

マグダがこちらを見る。
「ミル。食べ物を飲み込んでからお願いするんだよ」

まだ口に残っていた。
噛む。
飲み込む。
「またやってほしいっす」
「言い直せばいいって話じゃないよ」
「マグダは見たくないんすか?」
「そういう聞き方をするんじゃないよ」

マグダは杯を傾けた。一口。
「まあ、あたしも久しぶりに聞きたいけどね」
「ほら」
「ほらじゃない」

仲間が増えた。

ミーちゃんはワインを飲んだ。
こっちを見て、マグダへ目を移す。
それから、店の中へ顔を向けた。

入口側では四人組が椅子を寄せている。奥では誰かが立って飲んでいた。
壁際の樽の横だけ、人が通れるくらい空いている。
前も、あそこだった。樽は替わっていて、柱の傷も増えている。でも立てる。奥まで見える。

「まだできるっすよ」
「何がです?」
「あそこ」

指した。
ミーちゃんも見る。

「昔もあそこだったっす」
「……よく覚えていますね」
「見てたんで」


それだけ。見ていたものは覚えている。

ミーちゃんが立って、最初に奥の卓へ何か言う。
手前の誰かが笑う。その笑いに別の卓が振り向く。
気づけば、聞いている人間が増えている。
終わったあとには、知らないやつがミーちゃんのところへ来て、何か話していた。

そんなことが何度かあった。


「いまなら、もっと人いるっすよ」
「そこを利点として数えるんですか」
「人いないよりいいっす」
「それは、まあ」

ミーちゃんはまた店内へ目を向けた。今度はさっきより長い。
誰がどこに座っているかを確かめているようだった。
ミルには分からないものまで見ているときの顔だ。

でも、嫌がってはいない。
嫌なら、もう断っている。

「おチビちゃん」
「何です、マグダさん」
「やらない理由でもあるのかい」
「……特には」
「なら決まりだね」
「どうしてそうなるんです?」
「二対一だからさ」
「多数決で芸をさせられるとは思いませんでしたわ」

ミルは身を起こした。
ミーちゃんがこちらを見る。

「……何です、その顔は」
「なんでもないっす」
「絶対に何かありますね」
「やるんすよね?」
「まだそうとは」
「やるんすよね?」
「ミルさん」
「やるんすよね?」
「三回言えば通ると思わないでください」
「勇者は四回目まで行ったっすよ」



マグダが先に笑った。

ミーちゃんも、とうとう息を漏らした。
「……そこへ戻しますか」
「戻ったっす」
「本当に、よく覚えていますね」

ミーちゃんは杯を置いた。
酒がまだ少し残っている。
扇子を卓から取る。
それまで指の間で遊んでいたのに、きちんと閉じた。

椅子から立つ。
まだ誰も気づいていない。
近くの卓では笑い声が続いているし、入口では新しい客が押し込まれている。

ミーちゃんはすぐには歩かなかった。

ギルバートが戻ってきたからだ。
「皿、下げるぞ」
空いた皿を重ねる。

ミルのも持っていこうとした。
「まだ食べるっす」
「なら持ってろ」

取り返した。

ギルバートは次にマグダの皿を取った。

「こほん」
小さな咳払い。

ミルの耳が動いた。
知ってる。これだ。

ギルバートも顔を上げた。

ミーちゃんは、さっきまでと同じところに立っている。
なのに背筋が少し違った。
扇子を両手の前に置いて、きれいに頭を下げる。
そして言った。
「店主さん」

ギルバートの手が止まった。

「少々、お客様へお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
よそよそしい声だった。

ギルバートはミーちゃんを見る。
ミーちゃんも、澄ました顔で見返している。

少しして、ギルバートの頬が動いた。
「……客が嫌がらなきゃな。商売の邪魔はするなよ」
「もちろんでございます」

ミーちゃんは、さっきより深く頭を下げた。
「寛大なお取り計らい、心より御礼申し上げますわ」
「お前な」
ギルバートが吹き出した。

マグダも笑った。

尻尾が、今度こそまっすぐ立った。
押さえる理由はない。

始まる。

あれが、また見られる。