前髪
珍しい瞬間
ミルさんが、言葉を選んでいた。
呪物特別鑑定室の扉を閉めたところで、それに気づいた。
四階の廊下に、ロゼさんとミルさんがいる。
正午前ならロゼさんがいること自体は珍しくない。昼食へ行く頃合いになると、鑑定室の前まで迎えに来ることがある。
珍しいのはミルさんだった。
「だから、その……そういうのは、本人が……いや」
後頭部を掻く。
いったんロゼさんを見る。すぐに廊下の奥へ視線を逃がす。
戻ってきたと思えば床を見る。
耳が寝ていた。
長い尻尾も、いつもより低い。脚の後ろへ沿わせたまま、先だけが所在なさそうに向きを変えている。
普段のミルさんなら、言いたいことはだいたい最初に出る。
少なくとも、ロゼさん相手にこれほど長く入口を探すところは、ほとんど見ない。
「だから何なの?」
ロゼさんは返事に詰まっていた。怒っている様子ではない。
本当に話の行き先が分からないらしい。
「いや、もういいっす。昼行きましょ。ミル腹減ったっす」
「よくないよ。途中でやめられた方が気になるじゃない」
「気にしなくていい話なんすよ」
そこでロゼさんがこちらを見た。
表情が変わった。
「あ、妹ちゃん。ちょうどよかった」
ミルさんは目を閉じた。
わずかな間を置いて、また後頭部を掻いた。
どうやら、ミルさんにとってはまったくちょうどよくなかったらしい。
「何のお話ですか」
二人のところまで歩く。
ロゼさんは待ってましたと言わんばかりにこちらへ向き直った。
「妹ちゃんの髪の話」
思っていたより軽い答えだった。
「わたくしの?」
「うん。さっきね、髪を左右で結んでる子を見たの。高いところで二つに分けてて、かわいかったから」
ロゼさんの両手が、自分の頭の左右へ上がる。
それだけで、おおよその形は分かった。
「妹ちゃんも似合うと思うんだよね。髪も長いし。前も上げて、こうして二つに分けて」
前。
額に触れている髪の先が、急に重さを持った。
「前髪も、ですか」
「うん。その方が顔がよく見えるでしょ?」
「それっす」
ミルさんが割って入った。
ようやく一つ、迷わない言葉が出た。
「だから、そこっすよ」
「そこ?」
「ミーちゃん、ずっとそこ隠してるじゃないっすか」
ロゼさんがわたくしの前髪を見る。
「髪で?」
「髪じゃなくて。いや髪なんすけど。そうじゃなくて」
また駄目になった。
ミルさんは耳まで伏せ、廊下の窓へ視線をやった。
この話を続けたくないのだろう。
ならば黙ればいい。
普段のミルさんなら、おそらくそうする。それでも言葉を探している。
「見えないようにしてるなら、見せたくないのかもしれないじゃないっすか」
「だから本人に聞けばいいんじゃない?」
「それ聞いたら、なんで隠してるかまで、答えないといけなくなって……」
ロゼさんの返事が止まった。
わたくしも、前髪には触れなかった。
「昔、いたんすよ」
ミルさんが言った。
今度はわたくしではなく、床を見ていた。
「ずっと隠してたやつ。強かったし、名前も知られてたし、そういうの関係ないくらい評価されてたのに」
そこで切れた。
ロゼさんが待つ。
「……でも、隠してたんすよ。ずっと」
それだけだった。
何を隠していたのか。どうして隠していたのか。最後まで言わない。
おそらく、言わないことまで含めて話している。
ミルさんが何を想像しているかは、だいたい分かった。
わたくしのものは、おそらくそちらではない。
だが、訂正する理由も見つからなかった。
この髪の下にあるものは、戦闘でついた傷ではない。……もっとおぞましいもの。
見せれば、驚くだろう。目を逸らすことも、反対に見つめることもある。何も変わらない可能性もある。
ロゼさんなら、受け入れてくれるかもしれない。
だからといって、今日、前髪を上げる理由にはならない。
「ミーちゃん」
ミルさんが、ようやくこちらを見る。耳はまだ伏せている。
「ミル、余計なこと言ったなら、ごめんっす」
「いいえ」
それはすぐに答えられた。
「ありがとうございます、ミルさん」
ミルさんが少し困った顔をした。
「いや……そういうんじゃ」
また視線が逸れた。
本当に、今日は言葉の置き場所が見つからないらしい。
ロゼさんを見る。
先ほどまで髪型を作っていた両手は、もう下りていた。
「ロゼさん」
「うん」
「前髪は、今日はこのままでお願いします」
ロゼさんは一度だけ瞬いた。
「嫌だった?」
嫌。その言葉だけでは、少し違う。
見せたくないのは事実だ。
見せた結果が怖い、と言えば、それも間違いではないのかもしれない。
ただ、どの反応が返ってくるにせよ、それを受け取るところまで、いま進む必要を感じられなかった。
答えを決めずに済むなら、その方がよい。
「嫌、というより」
一度、言葉を置く。
「少し、心の準備をさせてください」
ロゼさんはわたくしを見ていた。
いつものように、答えを急がせる様子はなかった。
やがて、
「分かった」
とだけ言った。
「じゃあ今日はやめる。前髪も触らない」
「はい」
ミルさんの耳が、片方だけ起きた。
「それでいいっす」
「ミルが決めることじゃないでしょ」
「今のは別に決めてないっすよ」
「さっきからずっと止めてたじゃない」
「止めてたんじゃなくて、その……」
また始まった。
ロゼさんが笑う。
ミルさんはしばらく黙っていたが、諦めたらしい。
「……もう昼行くっす」
先に歩き出す。
数歩もしないうちに、尻尾はいつもの高さへ戻っていた。
ロゼさんもその後を追う。
わたくしも並ぶ。
階段へ向かう途中で、ロゼさんがこちらを見る。
「でも、二つ結び自体は保留だからね」
「保留なのですか」
「前を上げなきゃいいんでしょ?」
「ロゼちゃん、まだ髪やる気だったんすか」
「かわいいと思ったのは本当だもん」
先ほどの話とは、どうやら別らしい。
それなら別で構わない。
昼食へ向かう間、ロゼさんは一度も、わたくしの前髪へ手を伸ばさなかった。