4回目

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とおくから

ミーちゃんの従者が、いつの間にかカウンターの方へ行っていた。
戻ってきた手には、小さなコップがいくつか重なっている。
それを受け取ったミーちゃんは、壁際へ行く前に、いちばん近い卓へ寄った。


商人らしい人が何人かと、その護衛。
荷物は椅子の下に寄せられて、護衛の剣だけが邪魔にならないところに立てかけてある。

何か言った。ここからでは聞こえない。
商人が笑う。
ミーちゃんも笑った。

コップを一つずつ卓へ置く。
持ってきた瓶から酒を注ぐ。護衛にも一杯。
最後に瓶を少し持ち上げて、もう一度何か言った。
商人がコップを上げた。


それからミーちゃんは、樽の横へ行った。


まだ店はうるさい。
奥の卓では誰かが大声で笑っているし、入口では椅子を詰めろと揉めている。
ギルバートも注文を怒鳴り返していた。

だから最初は、何を喋っているのか分からなかった。

聞こえるのは、ときどき、ミーちゃんの近くの卓から上がる笑い声だけ。
商人のひとりが笑う。護衛が遅れて笑う。
隣の卓がそちらを見る。

ミーちゃんが扇子を開いた。
また笑い声。

何を言ってるんだろう。

身を乗り出しても聞こえない。
耳だけ向けた。

「ミル」
マグダが言った。
「落ちるよ」

椅子から尻が半分出ていた。
戻る。

「聞こえないっす」
「そのうち聞こえるさ」

きこえる

マグダの予言は本当だった。

少しすると、言葉が混じるようになった。

「……ですから、その時点では、誰も疑っていなかったのです」
ミーちゃんの声。最初より大きい。
違う。周りの声が減っていた。
近くの卓で喋っていた二人が、いつの間にか同じ方向を向いている。

「勇者は申しました。『道を調べてくる』と。ええ、殊勝な心掛けでございましょう?」
近くで声が上がった。
「危険な土地でございます。先に進む者が道を確かめる。これを責める仲間などおりません」

扇子が横へ動いた。道らしい。
反対の手には瓶。妖精はあっちなんだろう。
「そして勇者は、道を外れました」

近くの商人が一番先に笑った。


一回目。

これは覚えてる。
勇者は帰ってきた。何もなかったと言った。
仲間もそうかと言った。
それだけだった。

「翌朝でございます」
扇子が閉じた。
「勇者は、もう一度申しました。『昨日の道だが』」

少し間。

「『馬車が通れるか、確認する必要がある』」

商人の卓からすぐ声が上がった。

「仲間は当然、尋ねました。『我々は昨日、無事に歩いただろう』」

ミーちゃんが身体の向きを変えた。
勇者らしい。胸を張っている。
「『我々の話ではない』」
声まで違った。
「『荷を積んだ馬車だ。人が通れるからといって、車輪が安全とは限らない。道幅もある。轍もある。雨が降ればぬかるむかもしれない。旅人の安全を思えば、確かめておくべきだろう』」

商人のひとりが卓を叩いた。
「そりゃそうだ!」
笑いながら言った。

ミーちゃんがそちらへ扇子を向ける。
「ええ。まったく、その通り」

その卓の杯がいくつか持ち上がった。

「困ったことに、仲間たちも昨日の道幅までは覚えておりませんでした」

護衛も笑った。

「こうして勇者は、再び道を外れました」
瓶が少し持ち上がる。妖精のところへ。

知っているのに笑えた。

とどく

三回目になる頃には、もう身を乗り出さなくても全部聞こえた。

ミーちゃんの声は、二回目より大きくなっていない。
扇子が閉じる音まで聞こえる。瓶の横を、扇子の骨が軽く叩いた。それも聞こえた。
皿と杯の音が、いつの間にか減っている。

店の奥を見る。
立って飲んでいた男が、いつの間にか樽の方を向いている。
入口の四人組も椅子の向きを変えていた。

給仕がミーちゃんの前を横切ろうとして、少し止まった。
ミーちゃんが一文を終える。
そこを通った。

「三度目ともなりますと、仲間たちも学びます」

先に笑う人がいた。まだ何も起きていない。

「勇者は言いました。『斥候に出る』」

「またか!」
誰かが言った。

「いいえ」
ミーちゃんは涼しい顔をしている。
「斥候でございます」
「どこへだよ!」
「道の外へ」

前の方で机を叩く音がした。


ミーちゃんは待った。
声が少し下がる。
「偶然にも」

瓶を持ち上げる。
「たいへん偶然にも」

もう一度待った。
「例の妖精が住む方角ではございましたが」

瓶のラベルが、店の方へ向いた。

商人の卓から声が上がった。
奥からも返った。

妖精の名前が聞こえた。

最初はミーちゃんが言った。
次は仲間の台詞の中で出た。
その次は、客が言った。

「またあの妖精か!」
誰かが叫んだ。

ミーちゃんがそっちを見る。
「また、とは失礼な。勇者に言わせれば、三度目でございます」
「十分だろ!」
「まだ三度目ですわ」

入口の卓でも誰かが机を叩いた。

ギルバートが奥を通る。
注文が飛んだ。妖精の名前だった。酒の名前でもある。
「一本!」

ギルバートが瓶を見て、それからミーちゃんを見た。
「聞こえてる!」
いつもの返事。でも笑っていた。

そのあと、同じ名前をもう一度聞いた。
別の卓からだった。

ミーちゃんは何も言わなかった。瓶を置いただけ。
ラベルはこちらを向いていた。

ひろがる

三度目の勇者は帰ってきた。
もちろん、魔物はいなかった。

「何を見つけた」と仲間に聞かれて、勇者は周辺に異常なしと答えた。

「妖精は?」
客の誰かが聞いた。

ミーちゃんが止まった。
勇者の顔のまま。
「安全だ。あぁ、安全だった……」

商人が卓を叩いた。
入口の方からも声が返った。


四回目。覚えてる。
でも、前に見たときより、始まるまでが長かった。

勇者は行こうとする。
仲間が止める。道は調べた。馬車も通れる。斥候も済んだ。
「では、何をしに行く」
ミーちゃんが仲間の声で言う。

勇者へ戻る。
口を開く。閉じる。
扇子を開く。地図を見るみたいに覗く。
「道は……」

客が待っている。

「道は、もう良いだろう」
「良いのかよ!」
「ああ、いいんだ」

勇者は少し縮んだ。
「では……看板だ」
胸を張る。
「看板が必要だ。これほど整えた道であれば、旅人が迷わぬよう道標を」
「さっき立てただろ!」

「立てたんすか」
思わずマグダに聞いた。
「立ててたねえ」

覚えてない。店の誰かも覚えていたらしい。
あちこちから声が飛んだ。
「二本立てたぞ!」「妖精んとこまでか?」

「違う!」
勇者が怒鳴った。これまでで一番大きかった。
「妖精に会いに行くわけじゃない!」

あの商人がコップを置き損ねて、卓の縁に当てた。
護衛は片手で顔を覆っている。
誰もそんなことは聞いてなかった。

ミーちゃんも少し笑った。勇者じゃない方の顔で。

すると、奥の方から酔った声が飛んだ。
「もう妖精に会いに行け!」
入口の卓で椅子が大きく鳴った。後ろへ反りすぎた男を、隣の人が背中から押し戻している。

ミーちゃんは声の方を見る。笑っていた。
何か返すのかと思ったら、姿勢を戻した。

「仲間たちだけではございませんでした」
語り手の声。
「町へ戻れば、宿の主人に言われます。武具屋に言われます。通りすがりの子供にまで言われます」
扇子が閉じる。
「かつて魔物を退け、盗賊を追い払い、名を呼ばれれば人々が振り向いた勇者でございます」

少し置く。
「その人が今や、町中から『もう妖精に会いに行け』と言われておりました」

「勇者にも、守れないものはございます」
ミーちゃんが扇子で勇者を示す。
「この頃には、威厳がそうでした」

商人のひとりがとうとう卓に伏せた。
護衛がその背中を叩いている。

給仕は盆を持ったまま壁際で止まっていた。
通るのを諦めたらしい。

われる

ミーちゃんが勇者へ戻る。
四度目の勇者はひどかった。
瓶を見ない。見ないようにしているのに見る。
扇子を開いては閉じる。
立派に立とうとして、途中でやめる。
「違う。そうではない」

誰も何も言っていない。

「わたしには責任がある」

前の商人が顔を上げられない。

「道の安全を守る責任が」

護衛の肩がまた動いた。

「何か……何か、まだ」
勇者が止まった。
ミーちゃんが息を吸った。


そのとき、厨房で皿が割れた。
大きな音だった。


みんなそっちを見た。
ミルも見た。
ギルバートまで振り向いている。

ミーちゃんも厨房を見ていた。
口は開かなかった。
さっき吸った息を、細く吐いた。

珍しい。
息を吸ったら、ずっと次の言葉が来ていた。
今は来ない。

厨房の奥から、誰かが謝っている。

ミーちゃんがそちらを見たまま、もう一度息を吸った。
目が大きくなる。

「……そうだ」
小さかった。

「そうだよ!」
今度は大きい。
ミーちゃんが胸を張った。
さっきまで行く理由を探していた人と同じには見えない。立派な勇者だった。
少なくとも本人は、そのつもり。

「魔物がいたら、安全に通れない」

誰かが吹き出した。

勇者は構わない。
「旅人が襲われたらどうする。馬車が壊されたら。荷が奪われたら。せっかく整えた道が使えないではないか」

奥で膝を叩く音がした。
別の卓ではコップが二つまとめて置かれた。

勇者が言葉を足すたび、別の音が返ってくる。
「だろう?」
勇者が言った。

誰も答えない。

「だろう!」

「もう行け!」
誰かが叫んだ。
「妖精に聞いてこい!」
妖精の名前も飛んだ。別の卓から同じ名前が返った。

「違う!」
勇者が叫ぶ。
「わたしは魔物を!」
「妖精だろ!」
「魔物だ!」
「妖精!」
「魔物!」
店のあちこちから声が飛ぶ。

ミーちゃんは全部に返さない。
一つには勇者で怒る。
一つには仲間の声で呆れる。
一つは聞かなかったみたいに、そのまま話を進める。

誰かが途中で注文を入れた。
また妖精の名前。
ギルバートが返事をする。その返事まで話の中に混じった。

もう誰が話の人で、誰が客なのか、よく分からなかった。
分からなくても面白かった。

勇者は四度目の道を外れた。
誰も止めなかった。
止めても行くから。

おわる

「さて」
ミーちゃんが瓶を持ち上げる。少し残っていた酒が、底の方で動いた。
「この後、勇者が魔物を見つけたかどうかについては、写本によって差がございます」

「妖精は?」
すぐに声が飛ぶ。

「おります」

前の卓でまたコップが鳴った。

「そこだけは、どの写本にも」
一拍。
「……いえ。これは歴史書の朗読ではございませんでしたわね」
自分で言って、ミーちゃんが笑った。

客の方からも声が重なった。

「ともあれ、英雄の名は今も残っております」
扇子が閉じる。
「そして妖精の名も」

瓶のラベルを見せる。

店のどこかから、その名前が上がった。
別のところからも続いた。

もうみんな知っている。

「ええ。よく覚えていらっしゃいました」
ミーちゃんは頭を下げた。
「では最後に、今宵それをお話しした者の名も、片隅に置いていただけましたら幸いでございます」

顔を上げる。
「ミセリコルデと申します」

あの商人が、顔を上げて口を動かしている。
その隣も。
奥では誰かが、聞き取れなかったらしく隣の人に聞いている。教えてもらっていた。

ミーちゃんはもう一度、きれいに頭を下げた。
そこで終わった。

拍手が来た。
机を叩く音も混ざった。

もう一つ、と誰かが言った。
別の人も言った。

ミーちゃんは笑って、扇子を胸の前へ置いた。
「まあ。欲張りな方々ですこと」


それだけ。もう始めなかった。

かえってくる

ミーちゃんが壁際から戻ってくる。


途中で知らない人に呼び止められた。何か聞かれている。
答える。
別の人も来る。

前もそうだった。
終わると、知らない人がミーちゃんのところへ行く。


ミーちゃんは何人かと話してから、ようやく戻ってきた。

「お待たせいたしました」

「お疲れさん」
マグダが言った。
「まだ出来るじゃないか」

「もう十分でございます。昔ほど暇でもございませんので」
そう言いながら座る。

ギルバートが通りすがりに、空いた瓶を持っていった。
「また売れたぞ」
「それは何よりです」
「お前、最初からそれ狙ってたろ」
「何のお話でしょう?」

ギルバートが鼻で笑って行った。

ミーちゃんは残っていた自分の杯を取る。
もうほとんどない。

「ミルさん?」
「なんすか」
「ずいぶん静かでしたね」
「見てたんで」
「それは見れば分かります」

マグダがこっちを見た。
それから卓を見る。
「ミル」
「はい?」

指を差された。
皿。肉が残っていた。
始まる前から、ほとんど減ってない。
脂が白くなっていた。

「食べながらでも聞けるんじゃなかったのかい」

そうだった。
肉を見る。
ミーちゃんも見る。
もう一度、肉を見る。

「……これは別っす」