異常なし
救援要請
午前のうちに、備品棚の在庫を二度数えた。
一度目は仕事だった。
二度目は、ほかにすることがなかった。
消耗品の補充も終わっていた。机の上に残っていた軽い書類も片づいた。
セシルは普段なら後回しにする薬草棚まで整理して、もう一人は窓際の検査器具を磨いていた。
「金彩亭の新しいやつ、食べた?」
向かいから声がした。
「新しいやつ?」
「果物の」
「ああ。まだだな。セシルは?」
「昨日食べましたよ」
セシルが薬草棚の瓶を一本戻した。
「どうだった?」
「美味しかったですよ」
それだけだった。
珍しく、話を広げる必要すらなかった。
魔法学研究室には、こういう日もある。
何も運び込まれず、何も破裂せず、誰も四階へ走らず、午前の仕事が午前のうちに終わる日。
だから廊下から速い足音が近づいてきたとき、三人ともそちらを見た。
製作部門の人だった。
扉を開けたまま、息を整えるより先に言った。
「悪い。何人か来てくれ。試作品を見てほしい」
「故障?」
「分からん」
そこで言葉が切れた。
「うちの部門長と特別顧問が、離れなくなった」
僕はセシルを見た。
セシルも僕を見た。
「……くっついた?」
「そういう意味じゃない」
よかった。いや、よくはないらしい。
製作部門の人は額を拭った。
「朝からずっと使ってたんだ。チェス盤なんだけど」
「チェス盤」
「試作品だ。途中の局面を自動で作る。そこまではいい。コグワース部門長が顧問殿を呼んで、試験を始めた」
「それで?」
「十四局やった」
十四。多いのか。
チェスの駒の動かし方は知っている。学校でも何度か指した。十四局続けてやりたいとは思わないが、それだけで呪いを疑うほどなのかは分からなかった。
セシルが聞いた。
「休憩は?」
「昼飯は食った」
「なら、休んではいるんですね」
「盤の横でな」
判断が難しくなった。
「止めようとはした?」
「した。最初は声をかけた。駄目だった。それでロザリン警備長に相談した」
そこから先は早かった。
椅子ごと盤から離した。それでも二人は続けた。
さらに離した。コグワース部門長はまだ指そうとした。特別顧問は盤に手が届かなくなった。
「それで?」
製作部門の人は僕を見た。
「魔法を使った」
雑談をしていた顔が、三人とも消えた。
「何を?」
「《魔法の手》」
僕は備品台帳を元の位置に戻した。
「行こうか」
三人で研究室を出た。
突入
二階の廊下を製作部門へ向かう。同じ階にあるので遠くはない。
歩きながら事情を聞いた。
二人とも会話は普通だった。昼食も取っている。
生成された局面について記録も残している。
制作部門長は試作品の仕様について普段通り説明できる。
顧問さんも、製作スタッフが聞いた範囲ではおかしなことは言っていない。
ただ、チェスだけをやめなかった。
「十四局って、多いのかな」
僕が言うと、製作部門の人が肩をすくめた。
「私は三局で嫌になった」
「趣味の人なら?」
「知らん」
僕も知らない。だから数は一度脇へ置いた。
止められた後に魔法まで使って続けた。そちらの方が分かりやすい。
201号室へ入ると、最初にチェステーブルが見えた。
次に紙が見えた。多い。
卓の脇にまとめられた束だけではない。別の机にも記録用紙が積まれ、盤面図らしいマス目の並んだ紙が何枚も重なっている。
その近くにコグワース製作部門長がいた。盤からは離されている。
もっと遠い壁際に、顧問さんが座っていた。
隣には従者さんが立っている。従者さんは、僕が部屋へ入ったときから動かなかった。
顧問さんは扇子を開いていた。僕たちに気づくと閉じた。
ロザリン警備部門長がこちらへ来た。
「ありがとうございます。急にすみません」
声も表情も、いつもの業務中と変わらない。
「使用していた二人は盤から離しています。ほかに目立った異常はありません。会話もできますし、体調にも問題はなさそうです」
「触った人は二人だけ?」
「最初の試験では製作部門の方も何人か。ただ、長時間使ったのはこの二人です」
「分かりました」
「検査が終わるまでは、二人とも盤には触れさせないでください」
正しい。
警備長が顧問さんの方を向いた。
「だから妹ちゃん、ちゃんと待っててね」
顧問さんの扇子が開いた。
「承知しています」
「検査もお任せするんだよ」
「ええ」
「魔法も駄目だからね」
扇子が閉じた。
「……分かっています」
「よし」
警備長は満足したらしい。
こちらへ向き直ると、
「では、お願いします。巡回に戻りますので、何かあれば呼んでください」
また普通のロザリン警備長に戻った。
足音が廊下へ消えた。
「移動させても大丈夫そうかな」
僕が言うと、コグワース制作部門長が鼻を鳴らした。
「持ち運べるように作ってある。当然だ」
「試作品だと、当然じゃないものもありますから」
「わしのは違う」
そこは自信があるらしい。
間を置いて、コグワース製作長が言った。
「そもそも、チェス盤を運び出す必要はあるのか?」
「まだ動かすとは言ってませんよ」
「ならいい」
僕たちは盤を囲んだ。
顧問さんは壁際に残った。従者さんも残った。
検査
まず停止状態を見る。
僕は眼鏡の位置を直して、盤の縁へ目を落とした。
色がある。盤面そのものより、その下。
縁の内側を細い線が回り、ところどころで沈み、別の線と並んでいる。淡い。熱は低い。記録側らしい部分だけ、乾いて見えた。
右側。冷たい。
「ここ」
指は触れずに示した。
隣で《魔法感知》を使っていた同僚が視線を移す。
「右端?」
「うん。ここだけ冷たい」
製作スタッフが仕様書をめくった。
「駒制御系の待機回路です」
「停止中は?」
「魔力を落とす。正常だ」
「じゃあ、これは正常か」
その隣は滑らかだった。
二本の回路が近いのに、混ざって見えない。
顔を寄せる。
記録側の線が一度細くなり、駒制御の流れを避けている。
継ぎ目も荒れていない。
「……綺麗だな」
「だろう?」
すぐ後ろから声が飛んできた。振り返らなくても分かった。
「そこは三回組み直したんだ」
製作スタッフも寄ってくる。
「最初、記録側が駒の移動を拾ってたんですよ。部門長が分けろって」
「分けないと連続生成で誤差が出るからな。あと、ここの幅は最初もっと」
「制作部門長」
同僚が止めた。
「いま検査中です」
「だから説明している」
「説明は聞きます。近づかないでください」
製作長が一歩下がった。
「面倒だな」
僕は盤へ戻った。
綺麗なのは事実だ。安全かどうかとは別だけど。
停止状態では、少なくとも余計なものは見えない。
別の二人も同じだった。
外から重なった呪詛らしい反応はない。
既知の精神作用に似た術式構造もない。
仕様書にない強い反応も見つからない。
なら、動かして見る。
製作スタッフが盤を起動した。
白のポーンが動いた。遅れて黒が動く。
僕には駒より、その下の方がよく見えた。
制御側の線が温まる。
一つ動いて止まり、次へ移る。記録側が細く明るくなり、交換された駒が盤外へ退くたび、また別の線が働く。
余計な色は増えなかった。途中で左側だけ濃く見えた。
「左、濃い」
「どこです?」
「端から三つ目。……いや、濃いというより重なってる」
同僚が確認する。
仕様書を見る。
「同時制御の合流点だね」
「ああ」
それなら合う。
やがて駒の動きが止まった。
同時に、別のものも止まった。
壁際で肘掛けを指先で叩いていた顧問さんの手。
製作長の独り言。
二人とも盤を見ていた。
僕も見る。何か出たのか。盤へ視線を戻す。
なにも大きな変化は見つからない。
「……これは黒が嫌だな」
製作長が言った。
「そこまででは」
顧問さんが答えかけた。言葉が切れる。
扇子が開いた。
「……失礼しました」
製作スタッフが僕の横で言った。
「朝から、ずっとこれなんです」
僕は盤面を見た。
白い駒と黒い駒がある。
中央のポーンはそれなりに減っている。
それ以上は分からない。
同僚が首を傾げた。
「これ、さっきの局面とそんなに違うんですか?」
製作長がこちらを見る。
「全部違うだろう」
「駒の場所が違うのは分かります」
「そういう話じゃない」
顧問さんの扇子が閉じた。
盤を見る。開く。
何も言わない。
一次検査では、異常は見つからなかった。
追試
それで終わりにはしなかった。
初期化して別の局面を生成し、停止後まで同じ箇所を追った。僕は前回との差を見て、隣では術式反応を測る。
変わらない。
通常の運搬で起こる程度に盤を動かし、駒を外して戻し、再起動しても回路は安定したままだった。
その間、顧問さんは扇子をやめていた。
代わりに耳飾りへ触れている。
盤を持ち上げると、その指が止まる。
元へ戻すと、やがてまた触れる。
隣の従者さんは、ずっと同じ姿勢だった。
二回目も異常なし。
盤から出ないなら、次は使用中の記録を見ることになった。
僕は卓の脇に積まれていた紙を持ち上げた。
見た目より重い。
「これ……全部ですか?」
「全部だ」
製作長が答えた。
壁際から声が追加された。
「後半は記録方式を変更しています。そちらからの方が確認しやすいかと」
顧問さんだった。
言われた通り、後ろから半分ほどを取る。
確かに違う。
最初の方は盤面と対局結果が中心だった。
後半は、生成直後の局面について別の欄が増えている。
想定される序盤。手数を余分に使った駒。不自然な交換。内部棋譜と照合すべき箇所。
「増えてますね」
「はい」
「記録量が」
「必要な確認箇所を先に絞れますから、後から検証する側の負担は減ります」
確かに減っている。
少なくとも、僕はいま助かっている。
紙は増えている。
もう一枚めくる。字は乱れていない。
後半ほど項目が揃っている。
十四局目まで。
精神作用を受け続けて判断が崩れていった記録には、あまり見えなかった。
むしろ途中で仕事のやり方を改善している。
セシルも同じところを見ていた。
「これ、いつからおかしくなったんでしょう」
製作スタッフが困った顔をした。
「それが分からないから呼んだんです」
なるほど。
僕たちは盤を調べている。
製作部門は二人を見ていた。
どちらから始めても、まだ答えがない。
採点
「報告を」
入口から声がした。
三人とも振り返った。
アッシュフォード部門長が立っていた。
いつ来たのか分からなかった。
工房の全体をゆっくりと見渡すと、僕たちへ視線を移す。
そのとき、頬の線が緩んだように見えた。
眼鏡の位置を直したときには、もういつもの顔だった。
見間違いかもしれない。
「停止時、起動時ともに未知の術式反応はありません」
僕が報告した。
「あの、精神作用に近い追加構造も、いまのところ確認できていません」
「反復は」
「二回です。初期化して別局面を生成。差はありません」
「残留」
同僚が答える。
「正常範囲です」
「手順は」
使用した術式と確認箇所を順番に説明した。部門長は途中で口を挟まなかった。
最後に僕が言った。
「通常の移動を想定して動かしましたが、それでも変化はありませんでした」
「記録は」
セシルが束を渡した。
部門長は数枚だけ確認する。前半から一枚。後半から一枚。
十四局目。
「記録方式が途中で変わっているな」
「顧問さんの提案だそうです」
「改善か」
「はい。実際、後半の方が確認しやすいです」
部門長は紙を戻した。
「手順は問題ない」
「私が同じことを繰り返す必要はない」
後頭部を掻きたくなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うところではない」
部門長は盤の周囲を見た。
「ここでは不足だな」
コグワース製作長が反応した。
「何がだ」
「環境だ。四階へ移す」
沈黙が一つ挟まった。
「待て」
さっきまでより、製作長の声がはっきりした。
「異常はないんだろう」
「一次確認ではな」
「なら、ここで続ければいい」
「専用室の方が条件を切れる」
「これは製作部門の試作品だぞ」
「知っている」
「設計者がいた方が話が早い」
「仕様書がある」
「いや、それだけでは」
アッシュフォード部門長が僕を見た。
「ホルト」
「はい」
「通常搬送で変質する可能性は」
盤を見る。
さっき持ち上げた。駒を外した。戻した。
二度起動した。
何も変わらなかった。
「……確認した範囲では、低いと思います」
コグワース製作長が僕を見る。
「おい」
「でも、さっき制作部門長も持ち運べるように作ったって」
「それとこれは別の話だ」
たぶん別ではない。
アッシュフォード部門長はすでに製作スタッフへ指示を出していた。
「搬送準備。四階の特別鑑定室を使う」
壁際から、扇子の閉じる音がした。
顧問さんは何も言わなかった。
アッシュフォード部門長がそちらを見る。
「ミセリコルデ。君は引き続き検査対象から外す」
「承知しています」
短い返事だった。
製作長はまだ諦めていない。
「待て。せめて駒はそのまま運べ。生成後の状態だ。記録との照合に使える」
顧問さんが顔を上げた。
「それは、その方がよろしいかと」
初めて援護した。
アッシュフォード部門長が盤を見る。
「内部棋譜は残っているのだろう」
「残る」
「なら不要だ」
製作長が黙った。
顧問さんも黙った。
搬送のため、製作スタッフが盤の両側へ回る。
僕も記録の束をまとめた。
チェステーブルが持ち上がった。
顧問さんが耳飾りから手を離した。何も持たなくなった手が、肘掛けの上に残る。
製作長も盤を見ている。
二人の視線が、同じところへ揃った。
局面を生成したときと同じだった。
あのときは、何かが発動したのかと思った。
いま盤は止まっている。
魔力の流れも、さっき確認したままだ。
「わしも行く」
製作長が言った。
「不要だ」
「設計者だぞ」
「必要なら呼ぶ」
「呼ぶくらいなら最初から」
「コグワース」
そこで止まった。
盤が部屋を出る。
記録も続く。
僕たちも四階へ運ぶ準備をする。
振り返ると、中央にあった卓がなくなったせいで、201号室はさっきより広く見えた。
製作長は、その空いた場所を見ていた。
顧問さんも同じだった。
従者さんだけが、僕たちが来たときと同じ姿勢で立っている。
十四局分の紙は、僕の腕の中に残った。