動作確認

一歩

本を読むなら、執務机に限る。
少なくとも、わたくしには。

ベッドへ本を持ち込むと、続きを読んだ記憶より先に朝が来る。
だからその日も、読みかけの本は机の上にあり、紅茶は右手側、栞はまだ使っていなかった。


扉が叩かれた。

「はい」
閉じる前に頁を覚える。段落の頭から三行目。
立って扉を開けると、コグワースさんがいた。

「時間があるか、ミセリコルデ嬢」
「ございますけれど。何か鑑定ですの?」
「いや。チェスだ」

一度、机の方を見た。
本の頁は覚えている。

「チェス?」
「手伝ってほしい。ロザリンがな、きみはかなり強いと自慢していた」

どこでそんな話になったのだろう。
ロゼさんがわたくしについて他人へ話すこと自体は珍しくない。問題は、何をどこまで話しているかだった。

「なにか……試作品ですの?」
「そうだ。何人かに付き合ってもらったが、試験にならん」
「でしたら、拝見しますわ」

コグワースさんのことだ、その試作品を見るのが早い。
栞を挟むために席に戻った。

入城

製作部門の工房は地下にある。

コグワースさんに連れられて入ると、中央近くに置かれた一卓だけが、周囲から浮いて見えた。
立派なチェステーブルだった。
試作品という言葉から、機構の露出した盤を想像していた。実物は違う。マス目は整い、白黒の駒も一式揃っている。盤の縁だけが普通のチェステーブルより厚く、その内部に何かを収めていると分かる程度だった。

「綺麗に作っていらっしゃるのね」
「盤として使えなければ意味がないからな」

コグワースさんが盤の縁へ手を置いた。
「問題は序盤だ」
「オープニング?」
「ああ。中盤の判断を楽しんでほしいのに、知識に差があると、その前に差がつく。特に定跡から外したときだ、ギャンビットを一つ知らんだけで崩れる」
「それで?」
「序盤だけ、盤にやらせる」

なるほど。
コグワースさんが機構を動かすと、白のポーンが一つ前へ出た。
黒が応じる。次はナイト。
駒の底がマス目を擦る細い音を残し、白と黒が交互に位置を変えていく。ときには盤外へ退けられ、対局が誰の手にも触れられないまま進み、やがて止まった。

「合法手だけで進める。極端な駒損や、ほとんど詰んでいる局面は捨てる。双方に選択肢が残っているところで止める仕組みだ」

盤面を見る。
白は中央に空間を持っていた。黒は駒組みこそ終えているが、キングの安全が確保できていない。

「棋譜は?」
「出さない」
「記録していない?」
「内部には残る。だが使用者には見せん。序盤を飛ばしたいのに、わざわざ教えてどうする」

それは正しい。
だからこそ、妙だった。

「……このナイト」
「ああ」
コグワースさんも同じ場所を見ていた。

白のナイトが、自然に展開したにしては一手ぶん余計な場所へいた。

「一度、別のマスを踏んでいますね」
「だな。中央を追われたか」
「でしたら、白は最初からこのポーン配置ではなかったでしょう」
「途中で交換した?」
「おそらく。黒はこちらから圧力をかけて、それを白が受けた。そうでなければ、このビショップがここへ出る順番が合いません」

コグワースさんが盤へ顔を寄せた。

「……とすると、黒は途中で最善を外しているな」
「ええ」
「悪手か?」

もう一度見る。
黒のキング側。白の中央。
二手ほど仮に進める。

「いいえ。正解ではありませんけれど、悪手でもありません」

コグワースさんが笑った。
「面白いだろ」
「面白いですわね」

わたくしは手前の席に座った。
それから対局を始めた。


最初の一局は、試験として有益だった。
中盤から開始しても、局面の成り立ちを完全に無視できるわけではない。残ったポーンの形から過去を推測すれば、どちらが何を狙っていたかはある程度読める。
とはいえ、その推測には不確実さがあり、手になじんだ定跡をそのまま再生するのとは違う。

終局後、わたくしはいくつか指摘を出した。
コグワースさんは書き留めた。スタッフの方も記録した。

「もう一つだな」
コグワースさんが言った。

「そうですわね。一局では比較になりません」


二局目を生成した。

今度は最初から盤面がひどく歪んでいた。
駒得はほぼ同じ。だが白はクイーン側に空間を持ち、黒は中央のポーンが孤立している。

「これは何をしたんでしょうね」
「こっちから始まったんじゃないか?」
「それでは黒のビショップが遅すぎます」
「なら先に交換か」
「ええ。それで白が一度、意味の薄い受けを挟んでいます」
「なぜだ?」
「それを考えております」

二局目を始めた。一局目より長かった。


三局目は短かった。


四局目は、生成された時点でコグワースさんが盤を見て首を傾げ、対局を始めるまでの方が長かった。

その途中で、ロゼさんが工房へ入ってきた。
巡回だろう。

盤の脇まで来て、わたくしではなくコグワースさんへ声をかけた。
「コグワースさん、どう?」
「どう、とは?」
「妹ちゃん。強いでしょう?」

なぜロゼさんが得意そうなのかは分からない。

コグワースさんは盤を見たまま答えた。
「強いな。助かっている。わしが良いと思った手の先で、崩される。これなら全力で試せる」
「でしょう?」

ロゼさんは満足そうだった。
自分が褒められた人の顔に近い。
「じゃあ、お仕事の邪魔しないようにするね。妹ちゃん、頑張って」
「はい」

ロゼさんは去った。

盤へ戻る。

コグワースさんのルークが空いていた。
「取ります」
「待て、そこは」

取った。

「……嫌な手を指すな、ミセリコルデ嬢」
「褒め言葉として受け取りますわ」

その一局が終わる頃には、最初の茶器が下げられていた。


次の局面を生成した。

白のポーンが一つ多かった。ただし位置が悪い。

「駒得だけ見れば白だな」
「このポーンなら、無い方が綺麗です」
「ひどい評価だ」
「事実です」


次。
黒のビショップ二枚が残っている。


次。
双方キャスリング済み。ただし白のキング前だけが崩れている。


次。
中央がほとんど消えている。


盤の横へ置かれた局面記録が、一枚から数枚になった。

昼食が運ばれてきた。
食べた。


次の盤面を見る。

食器が下げられた。


また生成する。

コグワースさんとの会話から、いつの間にか余分な言葉が減っていた。
「そこ、守らないんですか」
「守らん」
「取ります」
「取ればナイトが出るぞ」
「出していいです」
「……ああ。そういうことか」


盤だけを見ればよかった。

通りがかり

途中、工房の端にロゼさんの姿が見えた。
今度はこちらまで来ず、スタッフの方が二人ほどロゼさんを呼び止めていた。

一人は、ここまでの局面記録を持っている。

何か話している。
ロゼさんが記録へ目を落とした。
スタッフの方は困った顔をしていた。

夜間利用の申請だろうか。検証数がまだ足りない以上、可能性はある。
あるいは、生成局面そのものを後から精査する負担について相談しているのかもしれない。

それなら、改善できる。
盤が組み上げられた時点で、こちらが何を不自然と感じ、どの駒から過去を逆算したかまでは記録されていない。
一局が終わってからスタッフの方々が照合するより、生成直後にこちらで整理して渡した方が早い。

「コグワースさん」
「なんだ」
「次から、対局前の確認を記録に残しませんこと?」

コグワースさんが顔を上げた。
「何を?」
「生成された局面について、想定される序盤の系統、手数を余分に使った駒、不自然な交換、評価が割れそうな箇所を先に記します。そうすれば、スタッフの方々が一局ずつ最初から精査する必要が減ります」

コグワースさんは盤を見た。
それから記録用紙を見る。

「なるほどな。検証側で疑わしい場所を先に絞るのか」
「ええ」
「その方がいい。やろう」

話は早かった。


次の局面を生成する。

すぐには駒へ触れない。
「白はおそらくキングズ・ポーン系から」
「ここで一度外れてるな」
「ナイトが二手使っています。交換前に追われたのでしょう」
「黒のこのポーンは?」
「前進したのではなく、隣が消えた結果でしょうね」

スタッフの方へ記録を渡す。書くべきことは思ったより多かった。
対局開始までの時間は伸びた。
しかし記録は厚くなった。
これなら後から検証する側の負担は減るだろう。

コグワースさんも同じ考えらしく、生成のたびに以前より細かく意見を出した。
「この局面、記録しておけ。中央の評価は割れるぞ」
「こちらのビショップも。経路が二通り考えられます」
「両方書くか」
「ええ」

対局する。


終われば次を生成する。
また記録する。


次の局面を生成した。
また一つ、面白い形だった。

白のクイーンが早く出すぎている。

「これは、さすがに悪手でしょう」
「途中で何か取ったんじゃないか」
「それなら収支が合いません」
「じゃあ、なぜここにいる?」
「ですから、それを考えています」

盤の位置関係を追う。
コグワースさんも黙って見る。


記録用紙が一枚増えた。

足場崩し

何局か後、ロゼさんが三度目に来た。

今度は工房の端で止まらなかった。
まっすぐこちらへ来る。

眉間に皺が寄っている。

長く座っていることを心配しているのだろうか。
ロゼさんのことだから、何か食べさせに来た可能性はある。この時刻なら、甘味でも持ってきたのかもしれない。


一手考える。
黒のナイトを動かす。

ロゼさんが盤の横まで来た。

「妹ちゃん」
「はい」
「何局目?」

駒から目を上げた。
ロゼさんは何も持っていなかった

何局目。
盤の横には記録が積まれている。
数えれば分かる。

ただ、いまは白の手番だった。

「……何局目でしたかしら」

コグワースさんも記録を見る。
「さあ」

背後から声がした。
「十四局目です」

ロゼさんがわたくしたちを見た。
「終わり」

短かった。
意味を取り違える余地もなかった。

コグワースさんが先に口を開いた。
「待て。まだ連続利用時の生成傾向を」
「部門長、一局ごとに機構は初期化されています」
すぐ後ろから部下の方が答えた。

コグワースさんが黙った。

代わりにわたくしが言った。
「ですが、生成の偏向を論じるには十四局では少なすぎます」

「妹ちゃん」
「はい」
「今日は論じなくていいよ」
「しかし、せっかく記録が」
「明日見ればいいの」

明日。

ただ、盤上には現在の局面がある。
同じものがもう一度生成される保証はない。

「でしたら、せめてこの一局だけ終えても?」
「駄目」

コグワースさんが顔を上げた。

「いや、途中で切る方が記録として半端だろう」
「コグワースさんも終わり」
「あと数手だ」
「さっきから、ずっとそうなんでしょう?」

それは誰から聞いたのだろう。

スタッフの方を見る。数人が視線を外した。

なるほど。
二度目の巡回で話していたのは、夜間利用の申請でも、記録精査の相談でもなかったらしい。

そこだけは訂正する必要がある。
ロゼさんが、わたくしの左手を取った。いつもなら移動の合図だ。
今回は、盤から離すためだった。

「立って」
「この局だけです」
「終わり」

椅子が盤から離れた。

まだ右手は届く。
白のビショップを進めた。

「妹ちゃん」
「いまのは必要な手です」
「必要じゃないの」

コグワースさんが盤を見る。
「いや、その手なら黒はこっちだな」

黒のポーンが動いた。

「コグワースさん!」
ロゼさんがもう一度こちらを引いた。
盤との距離が増えた。

まだ届く。
クイーンを一つ戻す。

「あと数手ですから」
「その数手をやめるの!」

次にロゼさんが下がったとき、盤まで指が届かなくなった。
それでは駒を動かせない。

方法はある。
《魔法の手》
白のルークが盤上を移動した。

ロゼさんが駒を見る。
それから、わたくしを見た。

「妹ちゃん、魔法まで使わないの!」
「手が届きませんので」
「届かないところまで離してるの!」

目的は理解できる。
だが、手番は終わった。
黒の番だ。

「コグワースさん」
「分かってる」

コグワースさんが黒のナイトへ手を伸ばした。

ロゼさんが工房のスタッフへ振り向いた。
「そっちも止めて。コグワースさん、盤から離して」

三人ほどが動いた。

「部門長、失礼します」
「待て待て、いま指すところだ」
「もう終わりです」
「一手だけだ」
「十四局目ですよ!」

コグワースさんは力の強い方ではない。
製作部門の方々も、誰かが座っている椅子ごと持ち上げる仕事は未経験だったらしい。
一人が椅子へ手を掛け、もう一人がコグワースさんの腕を取り、残る一人が机の縁を掴んだ指をどう扱うべきか迷っていた。

椅子の脚が床を擦った。
盤の駒より、椅子の方がよほど大きな音を立てて動いた。

その間に、黒のナイトが動いた。

「指しましたね!」
「手番だったからな」

盤面を見る。見えにくい。
ロゼさんが間にいるせいで、左側の駒がいくつか隠れている。
黒のルークだけは見えた。
取れる。
いま確実に分かる手を選ぶ。

《魔法の手》でルークを取った。


「取ったぞ」
コグワースさんの声。

「ええ」
「なら、これはもらう」

黒のビショップが白のナイトを取った。
見えている駒が減った。
盤面は分かりやすくなった。

これは悪くない。

「妹ちゃん、いま何を納得した顔してるの」
「盤面が整理されました」
「そういう整理はいらないの!」

白のポーンで黒のポーンを取る。
黒のビショップが白のポーンを取る。
白のルークで取り返すと、黒のクイーンがそのルークを取った。

盤の一部しか見えていない以上、長い手順を読むのは難しい。だが取れる駒なら位置が明確だ。

コグワースさんも同じらしい。
「クイーン取れるぞ」
「見えています」

白のナイトで黒のクイーンを取った。

「なら、そのナイトをもらう」

また一つ減った。

スタッフの方がコグワースさんの椅子をさらに後ろへ動かした。
ロゼさんも同じだけこちらを離す。

盤が遠くなる。
《魔法の手》なら問題はない。

見える範囲で駒を取り、相手も取り返した。
取れるものがある限り、その交換だけは続いた。

戦力不足

どこかでキングを追う手を考えた方がよかったのかもしれない。

しかしロゼさんが位置を変えるたび、盤の見える場所も変わる。
なら、確実な方から処理すればいい。

盤上の駒が減っていった。
最後に白のポーンが消えた。

黒にも、もう駒らしい駒はない。
盤上に残っているのは、白のキングと白のビショップ、黒のキングだけだった。

盤の縁にある表示が切り替わった。


『引き分け』


コグワースさんが動きを止めた。
わたくしも《魔法の手》を解いた。

ロゼさんの声がした。
「終わった?」
「……はい」

「引き分けだな」
コグワースさんが言った。

ロゼさんは一度だけ盤を見た。
「うん。じゃあ終わり。二人とも、今日はもう触らないの」

異論を探した。
なかった。


ロゼさんに左手を取られたまま、工房を出る。

背後で、駒が初期位置へ戻っていく細い音がした。
十五局目は始まらなかった。