芸術家の眼
運搬
あの短剣が、ようやく嵌まる。
エレノアの封印展示棚が昨日のうちに美術館三階へ据えられて、あとは中身を迎えに行くだけになった。
棚の設計図は三度見た。三度目に、ようやく理解できた。
ガラスの厚みが五段階で変えてある。防護陣の照りを、どの角度から入っても均等に返すように。あれは檻ではない。台座だ。呪物を封じるための構造で、あそこまで見せることに奉仕した設計を、ほかに知らない。
くやしい。あの女は、遺すことしか考えていないふりをして、ちゃんと見せる。
本館二階、呪物保管室。廊下の石が冬を吸って、靴底から足首まで冷えが上がってくる。
扉を押すと、先客がいた。
「あら、顧問さん」
「ごきげんよう、ソフィアさん」
ミセリコルデ顧問が会釈する。掌の中に短剣。刃の意匠が窓の明るみを薄く返して、柄頭の魔石が緩い周期で明滅している。呼吸に似せてあるのではない。緩い周期が、呼吸に似ているだけだ。
視線が、吸い寄せられた。
芸術的価値は分かっている。分かった上で、別の引力がある。
一歩、前に出ていた。
「その短剣……美術館へ?」
「ええ、ご依頼をいただきまして。移設をお手伝いに」
ああ、そうか。棚に嵌めてしまえば呪いは切れる。けれど、そこまでの道中は立派な呪物だ。
この部屋から美術館まで、これを安全に運べる人間が、そう多いはずもない。
顧問さんが腰の小袋から銀糸の手袋を取り出して、指先まで丁寧に嵌めていく。低い詠唱とともに、壁際の箱へ短剣を納めた。
その箱は、ただの木箱ではなかった。蓋の内側に鉛の裏打ち。内壁に銀の象嵌で陣が切ってある。象嵌の座が浅い——後から彫り足したのだ。設計者と施工者が別人で、施工の途中で仕様が変わった。安く上げようとして、途中でやめている。
短剣が収まると、青白い筋が内壁を走った。焦げた羊皮紙に似た匂いが立って、すぐ消える。
錠が落ちた。
部屋の空気が、一段沈む。肌に貼りついていた呪いの膜が、剥がれていく。
「運んでくださる?」
「了解」
従者さんが箱に近づく。
寡黙な人だ。顧問さんの三歩後ろにいつもいる。
名前を、そういえば聞いたことがない。聞く機会がなかったし、聞こうと思ったこともない。
箱の外寸は40×30×20といったところ。
鉛の裏打ちと鉄の外装で、50Kgは下るまい。普通なら二人がかりか、台車を回す。
両の掌が箱の側面に据えられた。膝が落ちる。
箱が、上がった。
水平だった。
完全に。
重さを受けるとき、体は必ず何かを犠牲にする。肩が沈む、腕の腱が浮く、息が一拍止まる。犠牲の出し方に、その人の癖が出る。
手元の目録を、いつのまにか握り潰していた。
「では、参りましょうか」
顧問さんが微笑む。
頷いた。頷いたが、目は箱から離れなかった。
廊下、階段、渡り廊下。
歩幅が、変わらない。
階段を降りる。
荷を抱えて段を降りれば、箱は前後に振れる。重心が移るのだから、振れないほうがおかしい。
振れなかった。十五段、一度も。
足音も奇妙だった。
人の足音には歪みがある。左右差、呼吸、抱えた荷に引かれた重心——それが全部、靴底と石の間に刻まれる。
この足音には、息遣いがない。
修行僧だと聞いた気がする。
修行で、クセは消せない。
研ぎ
美術館三階、収蔵庫。
冬の斜光が塵を照らして、粒が沈んでいく。
23度、湿度50。数字の中にいると落ち着く。
第三王朝期の青銅鎧を検めていた。緑青が薄く浮いて、爪の背を当てると冷たさが返ってくる。
肩の関節が、よく出来ている。可動域を稼ぎながら防御を捨てていない。
鋳の跡に鍛の目が重なっていて、途中で工法が替わっていて、いえ替わったのではなくて、同じ職人が途中で気を変えたのだ。迷った跡がそのまま残っている。
迷いを残した作品が、好きだ。
廊下を、足音が通った。
手が、止まる。
警備スタッフではない。彼らの足音は重い。板金が互いを叩くような重みのある音が混ざる。
これは違う。もっと細い。研いだばかりの刃を布で拭うときの、あの抵抗のない音だ。
扉を、指の幅だけ開けた。
顧問さんと、従者さんが歩いている。
深緑のロングコートの裾が振れて、金の縁取りが明るみを拾っては手放す。
後ろ姿。
目が、勝手に服装へ行った。
胸当てが暗い。磨いていない金属だ。手入れは行き届いているのに、艶を殺してある。
殺してある。
その言い方が自分の中に落ちたとき、指先が扉の端を締めた。
暗色の金属は、隠すために暗いのではない。隠すべきものが下にあるから、上を暗くしてある。
ゴーゼットの縁、ほんの数分の隙間。
コートの襟が振れたとき、その奥で何かが返った。
白い。青みの立った白だ。
銀ではない。銀はもっと濁って、もっと甘く返す。
あれは硬い。返しているのではない。
切っている。
ミスリル。
喉が鳴った。
ミスリルを構造材に使う工房を、三つしか知らない。
うち二つは百年前に閉じている。三つ目は装身具しか作らない。指輪と、留め具と、髪飾りと——小さきものしか、作らない。
なのに、あの白は、面積を持っている。
白が、動いている。
布の下で、水平に、規則的に、歩幅と同じ周期で。
——ああ。
肩が、外へ15度、開いている。正確に15度で、誤差がない。
肘が、逆へ、わずかに反った。
そこは反らない。腱が、骨頭の形が、そこを反らせない。
人体は完璧には動かない。動けないことが、生きている証拠だ。
彫刻を30年やって、ようやく分かったことだ。
不完全さは、彫らなければならない。彫らなければ、死んで見える。
あの体には、彫るべき不完全さが、ひとつもない。
扉の隙間から、そのまま、見ていた。
足音は、廊下の端で消えた。
手の中で、目録の角が折れている。折った覚えは、ない。
はめる
三日、寝ていない。
いえ、寝てはいる。目を閉じている時間はある。閉じると天井に肩関節が浮いて、15度のところで止まる。
止まったところから先を、朝まで削っている。
四日目の午後、収蔵庫を出た。
展示室の配置を確認しに行く。行かねばならない。行かねばならないので、行くのだ。
廊下に、立っていた。
展示室の扉の前。直立。
扉の隙間から詠唱が漏れているから、顧問さんは中にいる。
足音を殺して歩いた。エルフの癖であり、見るときは静かにいると、里の職人に叩き込まれている。
横を通る。三歩、二歩、一歩。
近い。
篭手の縁と、袖口の間。指一本の隙間。そこに、白がある。手首だ。
返りが、面で揃っている。研磨の目が一方向に寝かせてある。鏡面ではない。鏡面にすると跳ねて、暗いところで居場所を教えてしまう。だから目を揃えて、一方向へ逃がしてある。
逃がす向きが、下だ。
床へ落としている。人の目の高さへは、返さないように。
三日削っていた形が、そこではまった。
はまってしまえば、あとは早い。
歩幅に息遣いがない。箱は振れなかった。肘が反り、胸当ては暗く殺してある。
そのすべてが同じ座に落ちて、一つの銘になる。
「……構築体」
声が、出た。
出すつもりはなかった。出るときは、いつもそうだ。
頭が、動いた。
滑らかに。首から上だけが、体を残して、こちらへ。
そして。
プラチナブロンドの前髪が、両目を覆っている。ずっと覆っていた。会うたびに覆っていて、だから顔を見た記憶がない。
見る必要がなかった。
従者さんの顔を、思い出せない。
その前髪の、奥で。
赤い。
髪の隙間から、滲んでいる。紫の底に赤が差して、こちらを、捉えている。
——見られた。
わたくしが。
下がった。二歩さがったところで、石の床が急に硬くなった。
148年、見てきた。見る側にいた。
見るとは、対象を静止させて、こちらの尺度に載せて、切って、削って、重みをはかることだ。
作品は見返さない。
だから安全に、いくらでも近づける。
この距離まで近づいてよかったのは、見返さないからだ。
それが。
喉に、息が詰まっている。吸ったところで、止まっている。
赤は、動かない。逸らしもしない。捉えたまま、ただ、そこにある。
——ということは。
息が、抜けた。
ということは。
この子は、見ている。
意識がある。
対象を捕捉して脅威度の値を振るだけの機構なら、わたくしはとうに切り分けられ、はかられ、それで終わっている。
終わっていない。
赤が、迷っている。
迷っている。
膝の力が、抜けた。抜けたのは恐怖ではなかった。恐怖だったものが、途中で別のものに変わって、変わったものに、膝が耐えられなかっただけだ。
迷いを残した作品が、好きだ。
迷いは、彫るものだった。
彫らなくても、そこに、ある。
「——ああ」
声が、震えている。震えているのは分かる。
分かるが、止め方は知らない。
148年で、こんな。
こんな、逸品を。
扉が開いた。
ミセリコルデ顧問が、こちらを見る。
薄紫の目。
扇子を持つ指が、止まった。
「ソフィアさん。どうかなさいました?」
いつもの微笑み。いつもの声。
笑っていた。
自分が笑っているのが、頬の張りで分かった。
「……少し」
声を、整える。
「お話、できるかしら」
扇子が、音もなく閉じられる。
「……ええ。構いませんわ」
据える
本館五階、511号室。
今まで、扉を叩いたこともなかった。五階は用がない。
招き入れられた部屋は、狭かった。元は物置だったと聞く。
装飾がなく、絵も彫刻もない。埃ひとつない。デスクと椅子と本棚と作業台が、必要な数だけ据えてある。
生活の跡が、ない。
誰かが暮らしている部屋ではなく、誰かが待機している部屋だった。
従者さんが扉の前に立つ。
両の掌を腰の高さに置いて、いつでも動ける構えのまま、前髪の奥の赤はこちらを向いている。
「それで、お話とは」
顧問さんが問う。微笑みは崩れていないが、扇子だけが動かない。
「告発は、いたしませんわ」
掌を、前に出した。空だと見せる。
顧問さんの肩が、数ミリ落ちた。それだけだった。それだけで、この人が何を抱えていたかが分かる。
沈黙。
次の言葉を、待たれている。
「あの子は」
あの子。
三日前まで、従者さん、と呼んでいた。
「構築体、ですわね」
扇子が、完全に止まった。そして——戻る。見事な戻し方だった。
この人は、自分の顔を工具のように扱う。
「……どうして、そう思われますの?」
「白ですわ」
言葉が、勝手に出ていく。
「ミスリルの、あの白。銀ではありませんの。銀はもっと濁りますでしょう。あれは切っておりますのよ。それで、暗い胸当てを上から着せていらっしゃる。隠すためではなくて、下にあるものが隠さなければならないほど白いから、上を暗くしていて、しかもあの胸当ては磨いていなくて、磨けるのに磨いていないというのは、それはもう、下の白を知っている者にしかできない判断で——」
一歩、前に出ていた。
「——研磨の目が、揃っているのですわ。手首の。一方向に寝かせて、床へ逃がすように。あれをやるのは装身具の工房ですわ。指輪の内側と同じ処理ですのよ。着けたときに指の腹へ刺さらないように、目を寝かせて逃がすの。あれを、人の背丈でやった者がいる。人の背丈で、指輪と同じ手つきで」
息が、足りない。
「素晴らしい」
顧問さんが、こちらを見ている。何か言いかけて、止まった。
「……ソフィアさん」
「申し上げましたでしょう。告発はしませんわ」
笑った。
「こんな逸品を、失くすわけには参りませんもの」
契り
「秘密は、守りますわ」
胸に掌を当てた。エルフの誓いの形で、骨に近いところまで押し込んで止める。
「誰にも申しません。マーガレットさんにも」
顧問さんの目が、探ってくる。
「工房も、製作地も、推測なさらないでいただけますか」
三つしかない工房のうち、二つは閉じている。
残りは一つだ。
もう、推測は終わっている。
「わかりましたわ。詮索はいたしません」
嘘ではない。
推測しないのと、口に出さないのは、別のことだ。
顧問さんの目が、細くなった。それだけだった。この人も、たぶん、そう聞いている。
「……ありがとうございます」
「ただ」
誓いの掌を、そのまま保つ。
「ときどき、拝見させてくださいまし」
顧問さんが、動きを止めた。
「触れませんわ」
すぐに続けた。
「触れたりは、いたしません。見るだけですの。約束いたします」
約束は、守る。
148年、一度も破ったことがない。爪を短く切っているのも、そのためだ。
触れないと決めておけば、いくらでも近づける。
「それと」
言葉が、先に出た。考える前に、口の形が決まっていた。
「あの子の、油は」
顧問さんの眉が、動く。
「関節ですわ。あの静音の精度は、油で保っているものですのよ。歯車の目が特殊ですから、その辺りの獣脂では利きませんし、切れれば音が出ますわ。音が出れば、誰かが気づきますでしょう」
「……ええ」
顧問さんの指が、扇子の要にかかった。
「工房は、卸す相手を選びますのよ。25年、取引しておりますわ」
置いた。丁寧に、座に。
「月に一度、お届けしますわ」
沈黙が、落ちた。
顧問さんが、こちらを見ている。この人は賢い。賢い人ほど、この提案の形をよく検める。
検めて、そして、断れない。
断れば、あの子の関節が鳴る。鳴れば、いつか誰かが気づく。
わたくしのように。
「……お願い、できますか」
声が、いつもより低かった。
「ええ、もちろん」
最初から、そのつもりだった。
返す
「では、拝見しても?」
顧問さんが、従者さんを見た。
数秒。
言葉のない会話が、そこにある。
顧問さんの目が、変わった。毎日そこにあるものを、初めて別の角度から見ている目だ。
「……いいえ」
ミセリコルデ顧問が、言った。
「本人に、訊いてくださいまし」
——本人。
その語が、耳の中で座を探して、しばらく、落ちなかった。
従者さんが、扉の前から動かない。前髪の奥は、まだ赤い。
顔を、見た。
人の顔はいつも最後に見てきた。
留め具を検め、縫い目を検め、指輪を検めて、それで足りるからだ。顔からは何も読めない。
人は、自分の顔を工具のように使う。ミセリコルデ顧問がそうであるように。
この子には、目がない。前髪に覆われていて、読むものが何もない。
それなのに。
「……見せて、いただけますかしら」
声が、掠れた。
従者さんが、動いた。
左の篭手を、片方だけ外した。白が、部屋の明るみの中に出た。
息が、止まる。
掌。指。第一関節の、彫金の座。細い。装身具の細工師が指輪の内側へ入れるのと同じ深さの、同じ角度の彫りが、この大きさで、ある。
膝を、床に折った。近づいて、爪の背を——止めた。
止めて、両の掌を、後ろで組んだ。
三秒。数えた。
「……申し訳ありません。つい」
顔が、熱い。
従者さんは、腕を引かない。差し出したまま、動かない。
前髪の奥の赤が、わたくしの指先の位置を、追っている。
追っている。指が動くたびに。
「今、追っていらっしゃるでしょう」
言った。
「わたくしの指を。ずっと」
赤が、揺れた。一度だけ。
「……肯定」
声だった。低く、起伏がない。ないのだが、それは答えだった。
訊いたから、返ってきた。
「……そう」
膝が、床から離れない。
作品であり、護衛であり、そして。
「素敵ですわ」
言った。
ほかに、何と言えばよいのか、分からなかった。
従者さんが、篭手を嵌め直す。
白が、暗色の下へ戻っていく。
立ち上がった。膝の埃を、払わなかった。
「それでは、失礼しますわ」
扉へ。
振り返った。
「大切になさってくださいましね」
顧問さんに向けて、言った。
言ってから、それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなくなった。
「こんな子は、ほかにおりませんもの」
従者さんが、深く頭を下げた。礼の形だった。
廊下へ出る。
扉が閉まる。
階段を、降りた。
五階から四階、四階から三階。
段を数えている自分に気づいて、やめた。
三日、削っていた形が、はまった。
はまったのに、まだ、削っている。
月に一度。十二回で、一年。
関節は17ある。一度に全部は見られない。
左だけで、40分かかった。40分で、彫金の座の深さと、目の向きと、歯車の歯形の一部までしか、取れていない。
足りない。
窓の外で、日が落ちていく。
冬は、短い。
美しいものを追ってきた。追ってきて、追いつけたと思ったことは、一度もない。
作品は、こちらを見ない。
だから、いつまでも追える。
あの子は、見る。
見て、迷う。
迷って、それでも、腕を差し出す。
階段の途中で、足が止まっていた。
石の手すりが、掌の熱を吸っていく。
冬の石は、いつまでも、こちらの温度を返さない。
——次は、右を。