串焼きの歌

三番通りの角

煙が、道の形をしていた。
三番通りの角を曲がった途端、炭と醤の焦げる匂いが低く這って足首を巻く。露店の軒布がはためくたびに、煙はちぎれて路地の奥まで流れ、また集まる。
ミルさんが半歩先を歩いている。尻尾の先が、鉤のように上を向いていた。


「ここっす」

屋台、と呼ぶのが正確だろう。間口は四歩もない。
焼き台の奥に、大柄な男性が立っている。日に灼けた太い腕。前掛けの端が油で色を変えている。串を返す手首の動きだけが、不思議に正確だった。

「おう、ミル。ひさしぶりだな」
男性は串から目を離さなかった。
「連れ?」

「後輩っす。優秀な後輩」

後輩。勤続年数ではミルさんが先輩にあたる。わたくしは特別顧問で、序列と実績のどちらで測ってもこの紹介は正確ではない。
訂正する必要があるかどうか。ない。ここは三番通りの角であって、RACAの廊下ではない。

店主の視線がこちらへ来た。太い眉が、一拍だけ持ち上がった。わたくしの衣装と後ろに控える従者をひと撫でに見渡して、何か計算をしたらしい。

「お嬢さん、辛いのいけるかい」

「普通で結構ですわ」
答えながら、この店に腰を据える場所があるのかを探していた。椅子はない。
立ち食いだ。
杖を持ったまま串を食べる段取りを、頭の隅で組み立てている。


ミルさんは、すでに焼き台の前に陣取っていた。

店主の笛

串が焼ける。
店主がタレの壺に串を浸し、戻し、炭の上に落とす。
脂が弾けて火が舐め上がる一瞬、匂いが変わった。醤と蜜と、何か樹皮のような渋みが立ちのぼって混ざる。
鑑定の癖が、勝手に匂いを分解し始めている。蜜は粗い。精製を通していない、花の混ざった百花蜜。その下に穀物を焦がしたような底が——いけない。止める。
串焼きを味わいに来たのであって、調合を崩しに来たのではない。


店主が、串を返しながら口笛を吹いた。
三拍子。あの旋律だ。

軽く、跳ねて、どこにも着地しない節回し。先日、研究部門の紙から鳴っていたのと同じ曲。
あの場ではアッシュフォードさんが手袋を外すまでの三日間を費やした音が、ここでは串の裏返しと同じ拍で転がっている。

「ミーちゃん、これこれ。この曲っすよ」
ミルさんが振り向いた。半眼の奥が、得意げに光っている。
「ミルが言ったでしょ、串焼きの曲だって」

言っていた。あのとき研究部門の空気を一瞬で串の匂いに変えたのは、この人だった。


「ご店主さん」
声をかけると、口笛が途切れた。
「その曲に、歌詞はあるのですか」

「歌詞?」
店主は串を持ったまま眉を上げた。
「ねえよ。親父が吹いてた。親父もたぶん、どっかで拾ってきた。いい曲だろ、手が動くんだよ、これ吹いてると」

「手が動く」
ミルさんが尻尾を揺らした。
「ミルも巡回のとき、口ん中で鳴ってることあるっす。あれ無意識っすけど」


曲と、手が動くこと。手が動くことと、串が焼けること。
原詞が存在しないのではなく、原詞が手そのものだったのかもしれない。
呼び込みの幻術を作った誰かは、街で拾った曲に「この旋律を聴くと手が動く」という実感だけを込めた。
歌詞は後から各々が足す。手が先で、言葉が後。

アッシュフォードさんは言葉から攻めて止まった。ヴァレリアさんも、セシルさんも。
言葉の人間は言葉で読もうとする。
この歌は、言葉より先にある。


店主が最初の串を差し出した。
竹串に、油の弾けた痕。肉の端が焦げて縮れ、タレが照り返している。

串を食む

串焼きを手で受け取る。
持ち手の竹は、ざらついている。ガラスや磁器のようなものではない。だが——嫌ではなかった。
竹の繊維の感触は渋いが、干渉しない。串焼きの味を浸食することはない。

噛む。
肉は固い。宮廷料理の仕立てとは、あらゆる点で別の食べ物だ。繊維が歯に引っかかり、噛み切るのに顎の力が要る。
その抵抗の奥から、タレが弾けた。

百花蜜の、分離されていない甘さ。穀物の焦げた渋み。醤の塩が甘さを押し返し、炭の煙が全体を燻している。精製を通していない。一様ではない。噛むたびに配合が変わる。

……悪くない。

悪くない、というのが正直な感想で、これ以上の語彙を充てると嘘になる。
金彩亭のヘレンさんの一皿とは素材の格が違う。だが格の違いは、味の違いとは別のものだ。
この歯ごたえと、この雑味の中で角を突き合わせている甘さと塩の喧嘩は、精製された皿の上では起きない。


二口目を噛み切ったとき、ミルさんが隣で三本目に手を伸ばしていた。
速い。

「ミーちゃん、タレ多めにしてもらった方がいいっす。この店、追いダレって言えば塗ってくれるんで」

追いダレ。
その語彙を、わたくしは持っていなかった。
「二度塗り」で通じるだろうか。いや、たぶん通じる。通じるが、通じ方が違う。追いダレは追いダレであって、二度塗りではない。
この店のこの炭の前でだけ成立する呼び名だ。

「……ご店主さん、もう一度、塗っていただけますか」

店主は串を受け取って壺に浸し、炭の上に戻した。脂が弾ける。匂いが、重なる。


ミルさんと店主が話している。
巡回中にこの通りを抜ける話、西市場の干し肉屋が看板を替えた話、先日ミルさんが搬入路から落ちかけた話。
店主は串を返しながら「死ぬなよ」と言い、ミルさんは「こんなのじゃ死なないっすね」と笑った。
オルガさんの口癖と、同じ返しだ。ミルさんにとって「死ぬなよ」は挨拶であり、挨拶には挨拶で返す。
それだけの話で、そこに重さはない。

わたくしは二本目の串を噛みながら、聞いている。
口を挟む必要がない会話だった。
ミルさんの「っす」と店主の短い返しが、炭の弾ける音と同じ拍で交互に来る。
店主が口笛を思い出したように吹き、ミルさんの尻尾が拍を拾い、タレが焦げて匂いが立ち、それがまた口笛の息継ぎと重なる。

会話の中に、わたくしの席がある。
発言しなくても存在を許される席。ミルさんは「後輩」と言ったきり、わたくしの説明を何もしていない。役職も、種族も、能力も。店主もそれ以上を訊かなかった。
猫の巡回兵が連れてきた、串焼きを食べる小さな客。
それで過不足のない席だった。

帰り道

三本目を食べ終えたとき、ミルさんは五本目を齧っていた。

「ごちそうさまでした」
串を返す。
代金を出そうとしたが、ミルさんが先に銅貨を置いていた。

「いいっす。ミルが誘ったんで」

あっさりしている。
わたくしの財布の中身がこの店の串の何百本分にあたるかなど、計算もしていないだろう。

「……ありがとうございます、ミルさん」
礼を言った。装飾のない、短い礼を。
社交の席なら「ご馳走になるなんて、ミルさんにはかないませんわ」と返すところだろう。
今それが口に乗らなかったのは、串焼きの後味がまだ舌の奥に残っていたからか、それとも別の何かか。


三番通りを戻る。
ミルさんが半歩先を歩き、その半歩後ろをわたくしが歩き、さらに後ろに従者が続く。
日が傾いて、露店の軒布の影が道を横切っている。
背中越しに、店主の口笛がまだ聞こえた。

軽く。跳ねて。
歌詞のない三拍子が、煙と一緒に追いかけてくる。

ミルさんの尻尾が、拍に合わせて揺れていた。
わたくしの歩幅は合わない。杖の音が三拍子の裏を打って、半端な四つ目の拍を挟む。


タレの焦げた匂いが、指先に残っている。
手袋を嵌め直すべきだろう。
嵌め直せば、消える。

嵌め直さないまま、三番通りの角を曲がった。