詞のない歌
陽気な歌
研究部門の一角に、人だかりができていた。
四人。多い方だ、この部門にしては。
三日前、同じ卓を囲む彼らを廊下越しに見かけたとき、そこには春の縁日めいた高揚があった。誰かが手を打ち、誰かが早口で持論を述べ、レイモンドさんが色付きインクを三本も並べていた。楽しそうだ、と思って通り過ぎた。
仕事の邪魔をするほど無粋ではない。
今日は、様子が違う。
四人とも、渋い。
渋面のアッシュフォードさんを頂点に、渋面が扇状に広がっている。銀髪の部門長が腕を組んで卓上の一点を睨み、その視線の先で、小さな譜面台に載った古い紙が、ひとりでに鳴っていた。
旋律だけが、部屋に落ちている。
軽い。跳ねる三拍子。祭りの露地で聞くような、悪く言えば締まりのない、陽気な節回し。
わたくしはその音に、覚えがあった。
どこで、とは出てこない。
「アッシュフォードさん。何か、お困りですか」
声をかけると、四つの渋面が一斉にこちらを向いた。溺れかけた者が浮木を見る目だ。
「顧問。ちょうどいい」アッシュフォードさんが眼鏡のブリッジを1ミリ押し上げた。
「見解が、割れている。事実のみを整理したい。まず、これは自動発動の可聴幻術だ。ここまでは全員が合意している」
「合意しているのは、そこまでです」ヴァレリアさんが赤ペンの先で紙を指した。
「そこから先が、四通りあります」
四通り。面白い数だ。
四通りの歌
セシルさんが最初に口を開いた。聖印の紐を指で辿りながら、声をひそめて。
「私には……これ、悔悛の詠唱に聞こえるんです。罪を数えて、赦しを乞う、あの形式の。歌詞のところどころに『我が過ち』『幾度も』って言葉が挟まって……夕暮れの祈りと同じ拍で」
彼女の耳は、届かなかった祈りを聞いてきた。だから沈黙にすら詞を読む。無音の紙にすら、悔悛を読む。
「違うと思うな」レイモンドさんが後頭部を掻いた。
「僕には……その、色が、桃色なんです。あたたかくて、縁がふわっとして。これはたぶん、求愛の歌だ。誰かが誰かに、その、口説いてる。歌詞は聞き取れないんですけど、色が、そう言ってて……」
言い終える前に耳まで赤くなって、メモ帳に「桃・ぬるい・甘」と走り書きした。
彼の目には魔力が色で見える。歌詞が像を結ばないぶん、色が勝手に意味を埋める。埋めた意味が、求愛だった。
ヴァレリアさんが一拍置いて、冷たく訂正した。
「求愛ではありません。歌詞は命令形が主体です。『進め』『止まるな』『置いていけ』、行軍歌の構文です。感傷の入る余地がない。動詞が命じているだけ」
彼女は行間の含みを嫌う人だ。書かれた単語だけが全て。だから命令形は命令として、額面どおりに耳に刺さる。そこに恋も祈りも滲みようがない。
そしてアッシュフォードさん。
30年、鑑定を外したことのない人だ。
「どれも、確定できない」低く、苦い声だった。
「原詞が読めん。銘があれば典拠を辿れる。呪符なら術式を分解できる。だがこれは、旋律が同一のまま、聴く者ごとに歌詞が変わる。基準が、ない。基準のないものを、私は……」
そこで言葉が切れた。
手袋の指先を、彼は引っ張った。落ち着かないときの癖だ。
外せない、という事実そのものが、この人には堪えている。30年ぶんの記録が、締まりのない三拍子の前で立ち往生していた。
わたくしにも、聞こえる。紙を覗き込む。
器は、ただのスクロールだ。上質だが、聖別された痕跡はない。
込められた術は最下級。込められた音を撒くだけの、子供でも扱える一節。危険度で言えば、最下段のさらに下。
手放せなくなる呪いも、握った者を蝕む付与も、どこにもない。
無害だ。
無害である、という一点だけは、口に出さずとも確信がある。
問題は、術ではなく歌詞の方だった。
四人が四通りに聞いたそれを、わたくしも聞いている。そして、わたくしにも像が結ばない。
分かることはある。歌詞は共通語の文法に沿っている。破格はない。音節も自然だ。だが意味が、砂のように指をすり抜ける。
聖歌ではない。格が軽すぎる。神を仰ぐ拍ではない。
呪詛でもない。呪いはこんなに陽気な足取りをしない。呪いは重い。これは、羽根のように軽い。
軽薄な、共通語の、正しい文法の歌。
中身だけが、ない。
扇子の要で、天板を一度、叩く。
考える。この既視感は何だろう。文法は読めるのに意味が来ない、この感覚。わたくしの舌がいつも水の器の素性を勝手に読んでしまうように、耳が旋律の出処を探して、探して、届かない。喉の奥まで来ているのに。
あの旋律を、以前どこで。
思い出せない。
思い出せない、というのが、気に入らない、と言っていいのかどうか。わたくしはたいてい、思い出せる側の人間だ。少なくとも、そう思ってきた。
「アッシュフォードさん。ひとつ確かなのは」口を開く。
「これに、術者を操る力はありません。聴く者を害する付与もない。幻を撒くだけの……」
そこまで言って、廊下の方から気配が近づいた。
腹が減る歌
巡回の途中らしい。
ミルさんが扉の枠に肩を預けて、半眼でこちらを覗いていた。尻尾の先が、拍子をなぞって、一つ、また一つと弧を描いている。旋律に、勝手に。
「……なんか、いい匂いしてきそうな曲っすね」
彼女は言った。誰に問うでもなく、独り言のように。
「聞いてると、ミル、腹減ってくるんすけど」
四つの渋面が、猫へ向いた。
ヴァレリアさんの赤ペンが止まった。
アッシュフォードさんが眉根を寄せた。
「腹が……減る、とは」
「減るっす」
ミルさんはあっさり肯定した。
「だってそれ、串焼きの曲でしょ。三番通りの角の。タレ塗るときに、いっつも店主が吹いてるやつ」
沈黙が、落ちた。
先ほどまで四方から詞を読み取っていた四人が、そろって口をつぐんだ。
「……串焼き」
セシルさんが呟いた。悔悛の詠唱が、串焼きになった。
「あー、いやぁ」
ミルさんは半眼のまま、天井へ視線を投げて記憶を辿った。
「串焼きだけじゃないっすね。西市場の干し肉屋も、似たの吹いてたっす。歌詞はぜんぜん違うっすけど。あっちは『安いよ安いよ』みたいな。あと、収穫祭の樽転がしのときも、これ叩いてたっすね。あのときは『飲め飲め』だったっす。
……なんか、みんな同じ曲なのに、言ってること全部バラバラなんすよね」
同じ曲なのに、言っていることがバラバラ。
それだ。
喉の奥まで来ていた既視感が、音を立てて像を結ぶ。
わたくしがこの節を「どこかで聞いた」のは当然だった。街じゅうで鳴っているからだ。呼び込みで、露店で、祭りで。
旋律だけが同じで、詞は各々の店主が勝手に付ける。だから固定した原詞など、初めから存在しない。
四人が四通りに聞いたのは、幻術が悪いのではない。この歌が、もともとそういう歌だったからだ。
器だけがあって、中身は聞く者が持ち寄る。祈りたい者には祈りが、口説きたい者には口説きが、命じたい者には命令が。
空っぽの旋律に、各々が各々の欠けたところを流し込む。
アッシュフォードさんが、ゆっくりと手袋を外した。他人の前では、めったにしない仕草だ。
「……つまり」
搾り出すように、彼は言った。
「原詞は、ない」
「ないっすねえ」
ミルさんは呑気に頷いた。
「ちゃんとした歌詞、ミルも知らないっす。店主ごとに違うんで。……あ、でも串焼きのは美味いっすよ。タレ多めがオススメっす」
三日間の議論が、串の匂いに解けていく。
わたくしは扇子を閉じた。鑑定は、終わっていた。名を付けるまでもない。
これは呪物ですらなく、ただ器用に作られた露店の呼び込みだ。誰かが幻術を仕込んで、手を離した。それだけ。
アッシュフォードさんは、まだ手袋を握っていた。30年ぶんの記録を外したことのない指が、たった一枚の露店の宣伝に、答えを返せずにいた。
紙は、なお鳴っている。
軽く。跳ねて。
腹の減る三拍子で。