ジャムの証言
封蝋
卓の上で、朝の光が一箇所だけ濁っていた。硝子の向こうに、秘してあるものがある。
昨日まで、この卓になかったものだ。
「妹ちゃん、おはよう。今日はちゃんと起きてたね」
ロゼさんが盆を置く。パン、バター、卵、塩。並びは昨日と寸分違わず、右端にだけ瓶が足されている。
わざわざ運ぶ必要はないと、何度も申し上げた。そのたび笑顔で受け流されて、今朝も運ばれてきた。
パンを取る。表皮の裂けたところから折ると、内側の湿りが立ちのぼった。
粉は西の川沿いのものだろう。塩は岩塩ではない。
バターだけを薄く塗る。発酵の重みを舌が受け入れる、これは邪魔にならない。
ロゼさんは向かいに座らず、卓の端に立ったまま、こちらの皿を見ている。
扉と窓の両方が視界に入る角だ。守衛の立ち位置。
朝食の席でその角を選ぶ人を、わたくしは他に知らない。
果樹園
「それね、おすそわけ」
瓶が卓を渡ってくる。口には蝋が回してあって、押しつけた痕がそのまま固まっていた。
型で抜いたものではない。誰かが、直に触れて封じたもの。
「神殿の果樹園の実なの。毎年この時期に分けてもらえるから、余った分を煮ちゃうんだ」
毎年。分けてもらえる。
果樹園の実を受け取る信徒は、この街の神殿の規模から逆算すればそう多くはないはず。
となれば、神殿側から認められている熱心な信徒に限られる。いわば、神殿側から認められている証だ。
ロゼさんはそれを、余りもの、と言った。
「長持ちするから、置いといて平気だよ。食べ損ねても怒らないからね」
瓶を持ち上げる。冷たい。夜のあいだ、窓際に置かれていたのだと分かる冷たさだ。
硝子越しに透かすと、果肉は下に固まり、その上だけが透けている。
研磨前の石を灯にかざしたときと同じ見え方で、内包物の位置まで数えられた。
六つ、七つ。皮が入っている。
一口目
「食べないの?」
「……いただきます」
匙を取る。
手袋を外していないことに、そのときになって気づいた。
蝋の際を親指で押し上げる。抵抗は薄く、ほとんど綻ぶように外れた。
蝋の裏に移り香が残っていて、そちらが先に立つ。
単純ではない。火を入れすぎた側の苦みが、後ろのほうに秘めてある。
舌の上で、順番が崩れた。
砂糖が先に来て、酸が遅れて追いつく。追いつききらないまま、果実の輪郭が隠れていく。
なるほど。
砂糖の量が多い。多すぎるのではなく、多く入れるのが正しい配合だ。
皮を捨てずに使うのも、その流儀。
「その作り方ね、今はもうしないんだって。この前、若い子に笑われちゃった」
ロゼさんが盆の角を叩いた。拍が短い。
「なんでだろうね。おいしいのにね」
二口目
皿のパンには、まだ何も乗せていない面が残っている。
そちらを齧れば、粉の産地も、窯の癖も、いつも通りに戻ってくる。
戻ってきてしまう。
柄を持ち直して、瓶の中へ差し入れた。
二口目を、自分の意志で口へ入れる。
今度は最初から甘い。
膜が舌の面を覆って、その下にあるものを一律に均していく。皮の苦みも、焦げた側も、蝋を押さえた誰かも、区別がつかなくなる。
何も読めない。
これが、わたくしは苦手だ。読むものを消してしまうから。
輪郭がなくなったものは、掴めなくなる。手から落としたら、取り返しがつかなくなりそうで怖い。
「おいしい?」
「……ええ」
本当のことだった。今はそれ以外に、言えることが一つもない。
ロゼさんが身を乗り出して、髪に触れた。労わる触れ方で、二度。
「よかった。ちゃんと食べてえらいね」
瓶の中では、夏がまだ形を保っている。この街の秋を一度も通らなかった実の、名残ばかりが封じてある。
次の一口が何の味なのか、もう分からなかった。
分からないまま、口へ運んだ。