残滓の先

空席(後編)

朝食

翌朝の錆びた剣亭には、夜とは別の匂いが立っている。
焼き直したパンの皮、淹れたばかりの茶葉、掃き終えた床の湿った木。
夜のあいだ籠っていたものが、扉と窓から抜けていったあとの空気だ。

従者は壁際。わたくしはカウンターの端。いつもの配置。


ギルバートさんが茶を注ぐ。
ポットが傾き、琥珀色が音もなくカップを満たす。器は陶。

持ち上げる。灯りではなく、窓の光へ向けた。色を見る。
三秒。手が勝手にやる。


「そういえばな」
布巾は動いたままだった。
「取引先のパン屋が、元冒険者を雇ったらしい」

「はあ」

茶を含む。悪くない。この店の茶葉は苦味が芯にあって、香りで誤魔化さない。
聞き流すつもりだった。

「ずっと元気がなかったんだが」
彼はこちらを見ない。カウンターを拭き、拭いた場所をもう一度拭く。世間話の速度で、言葉が置かれていく。
「一昨日の夕刻から、急に吹っ切れたみたいでな。笑うようになったって話だ」

カップが、受け皿に触れた。


一昨日の夕刻。

あの席に座っていたものを、わたくしが解いた時刻だ。
刻限が、合っている。

手帳を出した。
ページを繰る。書式は変わらない。名、日付、所見。
一昨日の欄に、名がある。

ウェルミナ。

「ミナちゃんっていうんだがな」ギルバートさんが続けた。
「カルヴィンの店だ。市場の東側。悪くないぞ、あそこのパンは」


指が、頁の上で止まった。

ミナ。
ウェルミナ。

照らし合わせる。
一致しない。
一致しない、と断ずることもできない。

ミナはウェルミナの略称としてありふれている。ミナという名の女も、王都に何十人といる。
同名なら、それは同名だというだけだ。


鑑定士は、銘が似ているというだけで同工と判じたりしない。
同工と判ずるには、タガネの入り方まで見る。筆跡診断のようなものだ。
だが、名前では、見る手段がない。

組合の名簿を繰るか。
繰ってどうする。名が載っていれば「まだ載っている」、消えていれば「消えている」。
どちらも、あの席に座っていたものと、パン屋で働く女とを繋がない。


茶を置く。

手帳を閉じた。
革が鳴る。所見の欄には「解呪、完了」と書いてある。わたくしの字だ。


「その店、行ってみます」
口が動いた。
確かめに行く、と自分に言った。何を確かめるのかは、言わなかった。

訪問

市場は昼を過ぎて熱を帯びている。
肉屋の脂、八百屋の土、魚屋の氷。呼び声が石畳に跳ねて、耳の高さで混ざる。
従者が三歩後方を歩む。何も言わない。


「カルヴィンのパン屋」の看板を見つけた。
扉を押す。小麦と酵母。バターの発酵した甘み。奥のオーブンが熱を吐いている。

熱が、近い。
近すぎる。店の間口は狭いが、かまどは奥。この距離で頬に届く熱量ではない。

歩数を数えた。扉からかまどまで、七歩。かまどの口は閉じている。
近いのは、かまどではない。


「いらっしゃいませ」

店先に女がいた。
白い前掛け。手に粉。爪の間まで粉。
髪を布で覆い、袖をまくっている。前腕が出ている。笑っていた。

瞬きの間隔。声の張り。肩の落ち方。
読める。読もうとしなくても、その心が勝手に読める。
この女は、数か月間、何かに悩んでいた。今は、ふっ切れている。それは分かる。


微笑む。角度は身体が覚えている。
「おすすめを、伺っても?」

「こっちのライ麦、焼きたてです」女が迷わず答える。
「まだ熱いですよ、気をつけて」

「では、それを」


包む手際がいい。この仕事に馴染んでいる手だ。
釣り銭を、両手で渡してきた。パン屋で覚えた作法だろう。

「お嬢さん、初めてのお顔ですね」
包みながら、自分から話しかけてくる。人懐こい。演技ではない。本性だ。

「ええ。良いお店だと伺いましたので」
虚言ではない。虚言でないものだけを選んで並べるのは、虚言を並べるより難しい。

包みを受け取る。まだ熱い。掌が、それを受け取る。


扉へ向かった。

提案

「あの……」

振り返る。ためらっている顔をしている。
踏み出したいが、踏み出せない。その形の緊張だ。

「お嬢さん、冒険者の方ですよね」


装備は身につけていない。杖と扇子と手袋だけだ。
だが、読めるものは、読める。彼女にはその才能が――同業者に気づくセンスがある。冒険者の眼は、読めるのだろう。

「……ええ」

「私、元冒険者だったんです」
女の視線が、少し遠くへ向いた。
「負傷して、引退して。今はここで働いています。最初は未練がありました。装備を見るたびに辛くて。でも、数日前から、急に楽になって」

表情が緩む。今の生活を語る声だ。
「だから、装備を誰かに引き取ってほしいんです。もし良かったら……」

眼を見た。

本気で言っている。それは分かる。
そしてその奥に、別のものが張っている。
「早く手放さねば」というプレッシャー。「解放されたことを、証明しなければいけない」という圧。
楽になったからこそ、急いでいる。

——扇子へ、手が伸びかけた。

戻した。開かなかった。
読む必要がない。ここまで読めているものを、さらに読む必要が、どこにある。


息を吸った。

「大切にしていらした装備でしょう」

女の眼が開く。
「はい……でも」

「無理にお手放しになる必要は、ありませんわ」
口が、そう言った。

そして続きが、勝手に出てきた。
「『征きて還らぬ者に手向けよ、還りし者は己が手に負え』」
叙事詩の一節。第七の書。凱旋歌の冒頭。
舌が、それを引き当てた。文脈は合っている。合いすぎている。

「還ってきた方は、ご自分の手で負うのです。……手向けるのは、還らなかった者の分だけ。
あなたは、還っていらした。ならばそれは、まだあなたのものですわ」
言葉が、滑らかに出る。
つかえない。選んでいない。頭が選ぶ前に、もう口から出ている。

「未来へ踏み出すのに、過去を清めていく必要は、ありません。
過去は汚れではありませんもの。……あなたが五年、剣を握っていらした。それは、消して身軽になるようなものではないでしょう」

我ながら、拍が完璧だった。
修辞の骨が、そのまま音になって出ていた。

終幕

女が、泣いた。

前掛けを握って、俯いて、肩から声が漏れた。
抑えようとして、抑えきれていない。粉のついた手が眼を擦り、白い筋が頬に残った。


——何も、していない。

指は動いていない。魔法は流していない。扇子は開かなかった。
精神への介入も、思想の書き換えも、なにもしていない。
言葉を、言っただけだ。

なのに、この女は泣いている。


顔は動かさなかった。微笑の位置を保った。姿勢を保った。
それだけは、身体が勝手にやってくれた。

「……ありがとう、ございます」
涙声だった。だが、軽かった。
「そうですよね。……大切な、思い出ですもんね」

「美味しいパンでした」
小さく頭を下げる。令嬢の所作として。

「また来てくださいね!」
女が見送る。声が、来たときより軽い。
泣いた後なのに。

帰路

扉が閉まる。
従者の気配が後ろに続く。


市場を抜けた。
夕暮れが始まっている。石畳に金色が斜めに落ち、露店の天幕が縁だけ光っていた。
空は紅と金が混ざり、雲が形を変えながら西へ流れていく。

美しい。
誰が見ても美しいだろう。
美しいのだと思う。


「主人」
従者が先に口を開いた。珍しい。

「良い、助言」

「……そうかしら」
包みを持ち直す。
パンはもう熱くない。ぬるい。重さだけが残っている。
焼きたてのときと、目方は変わらないはずだ。変わらないはずのものが、掌の中で違う。
何が違うのかは、分からない。


思ったことを言っただけだ。
と、思うことにしている。

言葉は正しかった。文脈も合っていた。あの引用は、あの場面に、寸分違わずはまっていた。
叙事詩の一節が、なぜあの拍で出てきた。
選んだ覚えがない。
選んでいないのに、時間をかけて見つけ出したものように的確なものが出た。それを何と呼ぶのか。

術は使っていない。
使っていないと、断言できるだろうか。
でも、「うっかり」はない。ない、はずだ。


では、あの涙は。

感情には触れていない。触れていないのに、彼女は号泣した。
ならば、あれは言葉が起こしたのだ。
言葉だけで人を泣かせられるのなら、術と、どこが違う。

従者が、いつもより半歩近い位置を歩いている。

訊けばいいのか。あのとき何が起きていたか、彼女は見ていた。
訊かない。
訊いて「異常なし」と返ってきたら、それが答えになる。そして、信じてしまう。信じてしまえば、もう考えなくなる。


夕日が沈んでいく。
石畳が赤く染まって、二つの影が長く伸びた。前髪の奥は窺えないが、その頭は前だけを向いている。
街が生きている音が、あちこちから届く。

彼女は、明日もパンを焼くのだろう。
装備は手元に置いたまま。埃を被って、いつか笑い話になる。
それでいい。それが、いい。


包みが、掌の中で冷めていく。


あの瞬間、わたくしは、何を使った。