空席
違和感
誰も、あの女を見ない。
卓を三つ隔てた向こう、カウンターに最も近い席。給仕が皿を運んで脇を過ぎる。老いた剣士が身を捻って腕を伸ばす。二人とも、女の肩に触れそうな距離を通って、触れない。
視線を数えようとした。
彼女に向く視線が何本あるか——それが鑑定の初手だ。器に触れた指の数を数えるのと同じ。
だが数はゼロではなかった。ゼロなら「ゼロ」と書ける。
数える対象そのものが、立ち上がってこない。
錆びた剣亭は、いつもどおりの錆びた剣亭だった。
獣脂の焦げ、麦の発酵、湿った外套。混ざりきって一つになった匂いが、扉を押した瞬間に肺の底まで届く。
梁の上で影が揺れ、乾杯の音が二度、三度。時間がここでは外より少し速い。
従者は三歩後方に立った。壁際の定位置へ。足音は、ない。
壁際の卓に着く。全景の取れる位置。
ギルバートさんが顎を引いて応じ、やがて赤い酒が運ばれてきた。
脚を持ち上げ、灯りへかざす。色を見る。
その三秒のあいだに、思考を規定の形へ畳む。もう10年、同じ形に畳んでいる。手が勝手にやる。
一口。葡萄の搾り汁の味がした。いつもどおりだ。
鑑定
女は20代半ば。
チェインシャツは環が幾つか欠け、補修痕が灯りを受けて鈍く光っている。継ぎ足された環は元の環より新しい。
金がなかったのではなく、金を使う順序を間違えなかったのだろう。修理は最小限で、必要な箇所だけ。
木盾は椅子に立てかけてある。傷は多いが割れていない。
片手直剣。柄革は手汗で黒ずみ、握りの位置だけ色が薄い。
魔法の品が、一つもない。
それが最も雄弁だった。この装備で受けられるクエストには限度がある。駆け出しの、くたびれた冒険者。
女は姿勢がいい。背筋が立ち、両手は卓の上。十数秒に一度、入口へ視線を送る。
待っている者の姿勢だ。
そして、来ないと分かっている眼をしている。
ギルバートさんの布巾がカウンターを滑っていく。
女の席の前を通る。速度が、変わらない。拭く手は止まらず、目も上げない。
30年冒険者をやった男の目端が、そこで何も起こしていない。
グラスの脚に触れる。
ガラスが指の温度をゆっくり吸っている。吸い終わるまでの時間が、いつもより長い気がした。
長い、と感じているのは誰なのか。
何かが手の中に残っているが、それに名を与えられない。
名を与えられないものを、「未分類」と呼び、棚に置いて、後で戻る。
——戻れるのだろうか。
席を立つ前に、確証が要る。感覚だけでは動かない。
扇子を開いた。
暑いのだと思われればいい。窓の方へ顔を向け、風を送る仕草の裏で、察知術を一つ。
声も印も要らない。要るのは、この数拍の沈黙を自然に見せることだけだ。
——強い感情の残滓が、あの席に乗っている。
悲しみではない。後悔でもない。
もっと単純な、待つという行為そのものの厚みだった。それが五ヶ月分、あの椅子の上に積もっている。
扇子を閉じる。
留まり、と呼ぶしかないものだ。
この国は若い。歴史が浅く、土地の記憶が薄い。だから死者が行くべき道を見つけられず迷子になる。
そういう仮説を、わたくしは持っている。仮説は仮説であって、証明されたことは一度もない。
もう一つ、立てられる仮説がある。
この店が、留まりに慣れているという可能性。冒険者を30年見た男の目端が、あの席の前で速度を変えないという事実。
店内を見渡す。
客は多い。声も多い。にもかかわらず、この店はやけに広く映った。天井が高い。卓と卓の間隔が空いている。人がいるのに、席が余っている。
卓を数えた。14。椅子は52。座っている者、39。
余っているのは13席で、いつもと変わらない。
広く映ったのは、この店ではない。
従者に目をやる。一度だけ顎を引いた。
何一つ取りこぼしていない。言葉は要らない。
立ち上がる。緩やかに。
客が客に声をかけるだけの所作を纏って、あの席へ向かった。
問診
「お待ちですか」
女が振り返った。振り返るのが、速い。
そして瞳孔が開いた。視える者が来た——それを悟った顔だった。
「あ……はい」掠れた声。
「仲間を待っているんです。もうすぐ来るはずで……」
視線が入口へ向く。
扉は開かない。開いたところで、誰も入ってこない。
隣の椅子を引いた。音を立てないように。
「少し、お話をさせていただいても」
女は拒まなった。
拒む理由がないのか、拒み方を忘れたのか、こちらからは分からない。ただ、断らなかった。
「今日の日付を、おおよそで構いません。教えていただけますか」
女が答える。5ヶ月と13日前の日付を、迷いなく。
首肯する。表情は動かさない。
「どのくらい、お待ちに」
「さっきから、です」女の言葉が止まった。
「……あれ。でも、おかしい。どのくらい……」
ここで急かさない。
呪物の真実は、依頼人自身の口から出たときにだけ、受け容れられる。他人が告げるものも、誘導した回答も、価値がない。
「窓を、ご覧になってください」
女の視線が窓へ流れる。
新しい建物。塗り替えられた看板。彼女の記憶にない街並みが、石造りの無言でそこにある。
「卓も新調されています」続ける。
「カウンターの傷の数が、違うでしょう」
女の手が卓縁を掴んだ。木が、指の間で軋む。
声は上げない。叫ばない。ただ、現実と記憶の縫い目が合わないことを、内側で確かめている。
「おそらく、あなたはもう——」
言葉を最後まで運ばない。
自分の口で言わせる。それが受け容れやすい。
女の顔が変わった。
驚愕。
否認。
そして、静かな着地。
「……そう、ですか」
細い声だった。脆いが、折れてはいない。
涙は流れない。流す媒体が、もう残っていないのかもしれなかった。
手帳を取り出す。
革の表紙は角が擦れている。頁を繰る手が、勝手に定位置を探す。
「状況を整理させてください」
口が先に動いた。
「わたくしの仕事の流儀ですの。来歴の分からないものには、手をつけません」
女が小さく頷いた。頷けることに安堵しているようにも映った。
そう映った、というだけだ。
「お名前を」
間があった。
女は右手の指を軽く握って、開いた。剣の柄を確かめる癖の残骸だろう。本人は気づいていない。
「ウェルミナです」
そして、続けた。
「……もう、要らない名前かもしれませんけど」
ペンが動く。
名を書く。日付を添える。冒険者名簿の書式で。所見の欄に、装備の状態と、待機の年月を。
要らない名前だと本人が言ったものを、そのまま書式に入れた。
書式は本人の意向を訊かない。欄があり、必要だから記入する。
手が、そう決めた。
鑑定書の書式は、名を記し、日付を記し、来歴を記す。そして記されたものは、もう動かないものとして扱われる。
この手は120年、その形しか知らない。
帳面を閉じた。
革が革に触れる音がして、それきりだった。
解繊
糸を視る。
時の縫い目が視野の外縁に綻び、彼女の周りだけ流れが縺れているのが見えた。川が彼女を迂回している。五ヶ月分。
結び目がある。幾重にも重なって、流れを塞いでいる。
丁寧に、一本ずつ。
乱暴に手繰れば断ち切れる。断ち切れたものは、二度と結べない。
「私、これからどうなるの」
震えのない声だった。
「分かりません」と答えた。知らぬことは知らぬと言う。
「ですが、ここに繋ぎ止めているものを、解きます」
「怖い?」
「……怖くは、ないです」女が微かに笑った。
「たぶん」
糸が解けていく。
彼女の輪郭が、光を透かし始める。
最後の一本へ手を伸ばした。
手繰る。
——手が、空を掴んだ。
そこには結び目がなかった。
二本の糸が、並んで張られていただけだった。絡んでもいない。触れてもいない。ただ、二本あった。
わたくしは片方に触れた。触れた方が、解けた。
この夜には、二人の女がいる。
ここに座っている者と、ここに座っていない者。どちらも同じ濃さで、この夜に張られている。
五ヶ月前の彼女と、今の彼女、ということだろう。そう畳んで、棚に上げた。
女が、こちらを視た。
扉でも、窓でも、天井でもなく。
それきり、女はいなかった。
消えていく途中がなかった。遠ざかる過程がなかった。
近すぎるほど近くにあったものが、次の拍にはもうそこにない。
——うまくいった。
解呪とは、本来そういうものだ。
酒場は賑やかなままだった。
笑い声。杯の音。武勇譚の続き。
誰も何も気づいていない。
晩餐
自席へ戻ると、注文していない品が置かれていた。
湯気を立てるスープ。琥珀色の酒。チーズとパン。
ギルバートさんがカウンター越しにこちらを向いて、それだけだった。「サービスだ」。
あとは、何も。
匙を取る。灯りへ向ける。色を見る。
三秒。手が勝手にやる。
一口。鶏の出汁と、根菜の甘み。よくできている。この店の料理は、いつも一段いい。
——察していたのか。視ていたのか。
何も訊かれなかった。訊かれないから、答えようがない。答えようのないものを、こちらは受け取り方も知らない。
匙が、思ったより重い。中身は減っているのに。
従者は壁際に立っている。定位置。
前髪の奥は窺えないが、目端は動いている。何一つ取りこぼしていない。
何も言わない。彼女は長文を話さない。
「……皮肉なものね」
エルフ語で、誰にも届かない音量で言った。
魂を導く才能がないと、家では言われた。何度も。
ならば今のこれは何なのか。
スープはまだ温かい。
湯気が上がって、天井の梁のあたりで消えていく。消えていく途中が、ちゃんと見えた。
あの席には、誰も座っていない。
五ヶ月と十三日ぶりに、あの椅子は空席になった。
誰も、そのことに気づかない。
匙を置いた。