四つ目のカップ

418

資料室へ行く途中だった。


カートの上に、器が四つ乗っている。

数えたのは意識してのことではない。数はいつも、見た瞬間に決まっている。呪物を測るのと同じ器官が、勝手に動く。

四階の廊下。418の扉が半分開いていて、白いものが廊下へ流れ出していた。
それは輪郭を保たないまま、天井の梁のあたりで解ける。

「ミセリコルデさん」
声には、こちらの返答を待つ間がなかった。
セシルさんがカートを押して出てくる。修道服の上に作業用のエプロン。聖印の紐が擦り切れているのが、この距離では見える。
金の髪が、立ちのぼるものの温度でわずかに崩れている。

「ちょうどよかった」
ちょうどよかった、という言い方をこの人はする。何がどう良かったのかは説明しない。

カップがひとつ、手袋の上に置かれた。淡い色の陶器。持ち手のない、簡素な形。
熱が絹越しに滲んでくる。

「あの」
断る言葉を選んでいる間に、カートは動き出していた。

茶の色を見る。薄い。琥珀にすら届かない、水に色が溶けているだけの黄金。
香りが上がってくる——柑橘の皮、それから、名前を出せない花。発酵が浅い。渋みが立つ前に摘まれている。
好まない種類の茶だ。
澱みのない、読むもののない液体。若い香りは里を出るまで口に含むことがなかった。
十年そこらで慣れるものではない。

それを、口に運んでいる。
湯気が顔にかかった。頬の上で温度が散る。何かが、輪郭を持たないまま鎖骨のあたりに湛えられている——名を付けようとして、指が滑る。
礼と呼ぶには重く、負債と呼ぶには軽い。ならば何なのか。

問いを置いたまま、資料室へ歩き出した。

図書館

返却棚の上に、空の器が伏せてある。淡い色の陶器。持ち手がない。簡素な形。

アンブローズさんは棚の間にいた。
背が高すぎるので、書架の上端が肩のあたりに来る。指先が古い背表紙の角を撫でている。この人は、本を信じていない。だから傷を見つけられる。
こちらには気づいていない。あるいは気づいた上で、気づいたことを示す作法を持っていない。

「アンブローズさん。第三期の銘文集を」
「……了解」

それだけを言って、黙って棚へ入っていく。
こちらの手にあるものを、この人は見なかった。見る必要がないからだ。
同じものが、すでにそこに伏せてある。

カートの音が、閲覧席の向こうから近づいてくる。

セシルさんが空になった器を引き上げ、新しいものを置いた。
返事が返ることはなかった。礼もない。
セシルさんはそれを待っている様子すらない。

カップは四つあった。

ひとつは、いま手の中にある。ひとつは返却棚。
残りの二つは、二階へ降りていく。おそらく、レイモンドさんと、ヴァレリアさん。
等分だ。
誰にも同じ濃さで、同じ薄さの茶が注がれている。

この茶は、わたくしのために淹れられたのではない。廊下で会ったから渡された。
会わなければ、四つ目は別の誰かの机の端に置かれていただろう。

肩から力が抜けている。抜けたことに、抜けた後で気づく。
読まなくていい。

善意を差し出されるたび、その底を汲みに行く。何が欲しいのか。何を返せば釣り合うのか。眼を開けば済む話だが、開けばこちらが減る。
照準の合っていない善意には、底がない。
分配は分析を必要としない。等分されたものは、水面に何の像も結ばない。

像を結ばないものだけが、安全だ。


「銘文集です」
アンブローズさんが差し出す。両手が本のかたちに合っている。この人の手は、本を持つときだけ正しい大きさになる。

階段

四階から五階へ。


石段を一段ずつ。ヒールが高すぎて、歩幅は決まっている。片手に銘文集、片手に器。
茶は、まだ温かい。

五階の廊下は、上がってすぐは他の階と変わらない。漆喰の壁、柱の間隔、照明の位置。
奥へ行くにつれて、それが緩んでいく。照明の間が空き、床材の目が粗くなり、壁の仕上げが途中で途切れ、柱が下地のまま立ち始める。
廊下は、壁で終わる。

完成が未完成へ滲んでいく、その途中に511の扉がある。


花の香りが、まだ立っている。

511

扉を閉め、二重の錠を落とす。


執務机に器を置いた。南の大窓を背に腰を下ろす。光が、書類の上を斜めに渡っている。

銘文集を開く。第三期の異綴、転訛の系統、写本の校異。目が字を追い、手が余白へ走り書きを重ねる。
こういう時間だけが、何も演じずに済む。


手が止まったのは、光が机の縁から落ちきった頃だった。

器を取る。冷えている。

絹越しの熱は、とうに絹の側へ移りきっていた。表面に薄い膜が張っている。
渋みが、時間の分だけ立ち上がってきていて——温かい時よりも、いくらか飲めるものになっている。

皮肉なものだ。
この人の茶は、忘れられてからのほうが、わたくしの舌に合う。

飲み干した。

捨てなかった、という事実だけが残る。
窓辺の桶に空ければ済んだ。誰も見ていない。それでも、そうしなかった。

空になった器を、机に伏せる。


朝、鎖骨のあたりに湛えられていたものを探す。
もうない。冷めたのか、沈んだのか、それとも最初から水位を測る器がこちらになかったのか。


また明日も来るだろう。
会えば、渡される。
会わなければ、別の机へ行く。

その頼りなさが、いま、いちばん静かだ。


返しに行かなければ、と思う。空の器を棚に伏せるだけの、返礼にもならない所作。
立ち上がった。


廊下の突き当たりで、まだ仕上げの来ていない柱が、光を受けていた。