琥珀の溶けるころ

夕刻

杖の先が石を打つ。打つ。打つ。この一音だけで歩幅を測っている。
低い背丈では、数えねば歩調が崩れる。

商人の喧騒はもう背の後ろに沈み、蹄の音も絶えて、残るのは川の水音と、魔法灯がひとつずつ目覚めていく低い唸りだけになった。

西の空で、光が封じられていた。磨いた琥珀の内側にそれは閉じ込められ、ゆっくりと溶けかけている。
建物の影が石畳を這い、わたくしの影さえ、身の丈の三倍に伸びていた。


朝の鑑定卓では結界を二重に施したのに、詛いの残滓は腕を伝って這い上がってきた。古い魔法が腐るときの、甘く湿った霊素の臭気は、三度洗っても爪の間から抜けなかった。
鑑定書は二度、白紙に戻した。
RACAの書式は正確さの上に品位まで要求する。読める者だけ読めばいいと思いながら、結局は品位の側へ筆を寄せている。

マーガレットさんとの面談は予定の倍に伸びた。あの方の問いは、こちらの答えを一枚ずつ剥がしにかかる。
鑑定士の手つきで、こちらが鑑定されていた。

セシルさんへの引継ぎは雑談に流れ、ロゼさんの「偶然の」抱擁が別れ際に一つ。
解き放たれたのは十八時を過ぎたころだった。


ハイヒールが地面を捉えそこねる。
低身長のエルフが対等に遇されるには視覚の格が要るのだが、この美しい細工は遅効性の毒に近い。

すれ違う商人に会釈を返す。唇を、定位置へ。

貴族の真似事はもう呼吸とほとんど見分けがつかない。ただ口角の角度が、いつもの算定より浅かった。演技にも燃料が要る。

早くベッドに転がってしまいたい。だが、空腹のまま眠れば翌朝は頭蓋の奥が軋む。経験がそう記録している。
だから金彩亭へ足を向けた。


川面が街灯の橙を砕いて、黒い水の上に光の破片をばらまいていた。橙が紫へ移り、星が二つ、三つと灯る。

訪問

店は木造の二階建てで、古いが手は行き届いている。窓から光が漏れていた。
焼ける脂、麦酒、焼きたての小麦、樫を焚く煙。四つの匂いが束になって、扉の隙間から染み出している。
中から笑い声と杯の音が届く。賑わってはいるが、荒れてはいない。

オスカーさんの人選なのか、店そのものが荒くれを撥ねるのか、判じかねている。


息を吸う。
八つ数えて、八つで吐く。
顔の筋を、定位置へ。


扉を押すと、鐘が澄んだ音を鳴らした。

「いらっしゃい、顧問さん」
オスカーさんの声。
だが今宵は語尾の落ち方が違った。いつもは「顧問さん」の最後で音が上がるのに、今日は平らに落ちている。

読まれている。
商人は欺けても、この方の前ではわたくしの仮面は薄い硝子になる。

「ごきげんよう、オスカーさん。お邪魔いたしますわ」
三度、同じ抑揚で配給した賛辞の、最後の薄皮だった。口がまだ社交の温度で動いている。
内側だけが、とうにさめていた。

「今日も遅くまでお疲れ様。二階、空いてますよ」

「ありがとう存じます」
胸腔の奥で、何かが位置を変えた。
礼を言いたいというのとも違う。多くを語らず、最も短い言葉で要を渡す。その手際に対して、わたくしの内側が勝手に何かを返している。
……後で、確かめよう。

会釈を、ひとつ。優雅に、気力を絞って、せめてそれくらいは。


階段を上る。従者が先導する。
十二段。
下から若い職員たちの声が届いたが、「今日の鍛錬、えげつなかったって!」という叫びは、遠い大陸の言葉のように輪郭だけを残して壁に吸われていった。


二階の廊下は静かで、奥へ進むごとに一階の声が水位を下げていく。
板に彫られた札に、葡萄酒の間。

扉を開けると、魔法灯がひとりでに点った。

従者が扉を閉め、錠の落ちる音がひとつ。
その一音が、世界を二つに断った。

卓へ

手を挙げる。
従者が外套を外し、肩から重さが退いていく。

朝から施し続けてきたものが内側から緩んで、まだ蝋を落とす前の顔が、誰にも見せぬまま剥き出しになった。

指輪を外し、外した順に卓へ並べる。
食事の席で大ぶりの石は邪魔にしかならないし、盗難を案じなくていい店ならこれでいい。

杖を立てかける。
もう支えは要らず、背筋を伸ばす必要も、優雅に歩く必要もない。


腰を下ろす。
背もたれへ体重をすべて預けると、木が低く軋んだ。

……つかれました。
口の中だけで、そう零した。零したのではない。零れた。

装飾が語尾から落ちている。きょうは、もう、こういう言葉でいい。

マーガレットさんの前では他の者が触れられぬものを処理してみせる有能な特別顧問として振る舞い、セシルさんの前ではその日の失敗を笑って流せる程度に親しみやすい同僚であり、ロゼさんの前では抱擁を拒まぬ妹であった。そのすべてを一日のうちに着替えながら、どれを最も長く着ていたのか、思い出せない。

いずれにせよ、どれも当人ではない。わたくしはただ長く生き、長く学んだ。
それだけのことなのに、人の街では若き天才ということになっている。

「主人」
従者の、短い言葉。

「……ええ」
「休息」

断定だった。問いではなく。
この子は、いつから必要を判定するようになったのだろう。

「もうすぐ、ご飯が来るわ」

窓へ向く。
外はもう夜で、星々の中に半月が浮かび、欠けた側が闇に紛れて見えない。

従者は入口のそばで控え、ときおりこちらを見た。
案じているのか、感情があるのか、いや、ないはずだ。そう思うことにしている。

瞼を下ろす。視界が墨に沈む。
カーテンが風を孕み、階下の笑い、川の囁き、厨の物音が、それぞれの高さで流れていった。聞き流していい。会釈も微笑も、ここでは要らない。


扉が、強く二度。
間を置いて、もう一度、控えめに。

ヘレンさんの叩き方だ。

「どうぞ」


盆を捧げたヘレンさんが入ってくる。
湯気が立ちのぼり、野菜の汁物と麺麭が、まだ煙の匂いを纏っていた。

「顧問さん、お食事をお持ちしました」
明るい声。
だがわたくしを認めた途端、その明るさが一段、低いところへ降りた。

「ヘレンさん。いつも、ありがとうございます」

器が卓へ移されていく。
陶が木に触れる、低くまろい響き。
「今日は特別に、お汁を濃いめにしときましたよ。ゆっくり召し上がってね」

湯気の立ち方が違った。いつもより重く、遅い。
匙を挿す前から分かる——塩を足したのではなく、煮詰めたのだ。
水を飛ばして、同じ器により多くの滋養を詰めてある。

量を増やしても食べきれないから、密度を上げる。この方はわたくしの胃の容量を正確に見積もっているし、見積もるには観測が要る。
……いや、考えすぎかもしれない。この方はただ、盆を置いただけだ。

それでも傷はつかなかった。見定められることには慣れている。

「……ありがとうございます」
差し出されるばかりで、この方たちに何も返せていない。返せないと知りながら受け取ってしまい、受け取ってしまえば貸し方の帳面は、また一行、こちらの側へ傾く。

ヘレンさんの眉が、ようやく緩んだ。
「何かあったら、呼んでくださいね」


扉が閉まり、湯気だけが天井へ昇っていった。

食事

匙を取り、ゆっくりと掬った。
一口。人
にんじんの甘みが来て、じゃがいもが舌の上で容易く崩れた。長く煮込まれた証だ。
塩は寸分違わない。煮詰めても外していない。検算がそこまで進んだ。

そこで、止まった。
……美味しい、と思った。

匙が、宙で停止した。

今、何を思った。
美味しいというのは評価だ。評価には基準が要り、基準は経験から来て、経験は飲めた者にしか蓄積されない。
ならばこの舌は、この一皿を、飲めるものとして受け取った。

匙は、宙にある。
汁は、湯気を立てている。
そしてわたしは、それを、美味しいと思っている。

指先が冷えた。
汁物の湯気は、まだ立っていた。

緩んでいい、のかもしれない。ここでは。この四つの壁の内では。
……そう、思った。

思った。では、許可を出したのは。
わたくしが、わたくしに。そんな権限を、いつ、誰から譲られた。

琥珀は外から溶ける。
緩んだ側から、中のものが流れ出てくる。閉じ込められていたのが樹脂か、樹脂に閉じ込められていたのが虫か。崩れるまでは、どちらも同じ硬さをしている。


匙が、動いた。二口目を、飲んだ。
飲めた。
答えは出ていない。出ないまま、舌は仕事を続けている。

パンを割ると小麦の匂いが立ち、薄く塗った脂が生地へ沈んでいき、端を齧れば焼けた香ばしさの奥から塩が甘みを押し上げてきた。
青菜には檸檬。茄子の、いや、これは赤茄子か。その酸味が、油の重さを切っていく。

権限のことは、明日、点検しておく。
今日は、もう、いいだろう。

そう決めた瞬間、背骨から力が抜けた。抜けたことに、抜けてから気づいた。

茶を一口。
花の匂いのするそれには鎮める効能があるというが、効いている。
今宵は、そう書いておく。

焼菓子を一枚齧ると歯の下で崩れて、抑えた甘さの奥から脂の匂いが立った。

名が、出てこなかった。
エルフの雅語も、ドワーフの銘文も、悪魔の契約すらも読む。それでいて、粉を焼いて脂を練り込んだ、この丸いものの名を知らない。
明日、ヘレンさんに訊かねばならない。菓子の名を。


……口の端が、勝手に上がっていた。
上げたのではない。上がっていた。社交の定位置ではない角度で。

「主人」
「なあに」
「笑顔」
「……そう」
この機体は、わたくしの顔を記録していてくれたのか。だから外れたことが分かる。

「良好」
従者が、そう言い足した。訊いてもいないのに。

先に許したのは、この子のほうだったのだ。
休息。あれは判定ではなく、許諾だった。


立ち上がると椅子が軋んだ。
身が重い。疲労はまだ退ききっておらず、一食では流れぬものだ。

帰路

指輪を嵌める。
右の小指から順に、銀の細工を指の付け根まで押し込んでいく。
耳飾りに触れて位置を確かめ、掌が記憶した握りの位置で歩行杖を取った。

息を吸う。
栄養を燃やして、顔の筋をもう一度定位置へ。

壁の鏡で確認する。口角を上げ、目尻を下げると、優雅な定位置がそこに戻った。
同じ形には、ならなかった。いつもの角度だ。
誰も気づかない。
マーガレットさんでも気づかない。ただ、押し直した蝋は、最初の一度と同じ紋にはならない。押した手が、その差を知っている。


扉を開ける。
従者が先導する。
手すりを掴み、慎重に階段を下りた。わたくしの背では、一段が深い。


オスカーさんとヘレンさんが、手を振っていた。
「お疲れ様。また明日」

「ごちそうさまでした」
優雅に微笑み、会釈して、店を出た。


鐘が鳴った。澄んだ一音。


夜気が頬に触れる。星。
月は西へ、わずかに傾いていた。

従者と二人、静かに歩いた。石畳を踏む音が、また一定の拍を刻みはじめる。
低い背丈のための、歩調の杖。

明日もまた蝋を落とし、完璧な紋を押し、微笑と優雅な所作のすべてを、朝の光の中で一枚ずつ着直すのだろう。

掌に、まだ温度が残っていた。
柔らかくなったものは冷えれば凝り、凝った形は、緩む前を覚えていない。

——覚えているのは、押した手のほうだ。