舞台と本物

訪問者

稽古場には、複数の時間が流れている。
台本を捲る乾いた音、小道具を磨く鈍い摩擦、足を踏み鳴らして動作を確認する反響。それぞれが互いに無関心で、それぞれの速度で動いている。


セオドアさんが、両腕を広げて近づいてくる。
体全体で喜びを表明する人だ。感情が皮膚の外側まで溢れている。オーラのように、喜びが放出されている。
とはいえ、それが嘘でないことはわかる。

嘘と本音の境界線を読むことなら、慣れている。

「ミセリコルデさん!来てくれて嬉しいよ!」
「お招きいただき、光栄ですわ」
扇子を半開きにして、会釈する。
3秒。
それから視線を上げる。

このくらいの間合いが、ちょうどいい。

「こちらこそ!エミリア、来て!」

舞台の奥から、ブロンドの女性が歩いてくる。
20代前半だろうか。まとめた髪の後れ毛が、照明を受けて白く光っている。
足の運びが、わずかに滞る。
人数の多い空間への緊張だろうか。それとも別の何かか。

「初めまして。エミリアと申します」
「ごきげんよう」
扇子が開く。会釈する。

「以前、お姿を拝見したことがあります」
エミリアさんが、言葉を続ける。
「赤い髪と……。歩き方、座り方、指先の動き。すべてが、流れるように自然で」
「いつかあのように、演技ではなく、自然に振る舞えるようになりたくて」


自然。


稽古場の音が、ひとまわり遠のいた。
台本を捲る音も、床を踏む音も、変わらず鳴り続けているはずなのに……。
今は、水の底から聞こえるような、輪郭のぼやけた響きになっている。

「……ありがとうございます」
口角を上げる。
左右対称に、完璧に計算された角度で。

優雅さ

「まずはあいさつから!」
セオドアさんが手を叩く。

男性劇団員が、舞台中央に立つ。
重心が低い。根を張った大木のように、堂々とした振る舞いだ。幻影を纏ったかのように、彼の気配が変わる。貴族院の中堅、と言われても違和感のない姿。


「エミリアさん、彼に向かってカーテシーをしてみてくださいまし」

「はい」
エミリアさんが前に出る。深呼吸。
それから動く。
右足を引く、膝を折る、頭を下げる。動作の順序は正確。
教本通りと言っていい。ただ、目が、迷っている。

「素晴らしいですわ」
拍手する。本心だ。

「本当、ですか?」
期待と不安が、まだ分離できていない表情をしている。

「ええ。基本は完璧ですわ」
「うーん……何かが足りない気がするんだよね。ミセリコルデさん、どう思う?」

私はエミリアさんに近づく。
今度は足の位置ではなく、膝の角度でもなく。動作の途中で、彼女の視線がどこへ向かうかだけを追おう。

「もう一度、やってみてくださいまし」

二度目のカーテシー。
やはり、視線が左下に逃げている。体は正確に動いているのに、視線が居場所を求めてさまよっている。
——表層の整合性が高いほど、目だけが真実を漏らす。


「視線を、もう少し柔らかく」
「視線……?」
「ええ。あいさつは、敬意の表明ですわ。服従ではありません」

実演する。
右足を引く。膝を折る。頭を下げる。
ただし、視線だけは相手の胸元に残す。
床を見ない。完全には伏せない。
「このように。相手を見つめすぎず、でも別の場所を見ることもなく」

エミリアさんの表情が、変わった。
魔法回路を解析する瞬間に似ている。
混沌の中から、一本の筋が見えた時の、あの静かな焦点の定まり方。


三度目。
視線が、柔らかい。敬意がある。そして、その奥にかすかに親しみの余地が残っている。


「完璧ですわ」

お茶会

テーブルに、ティーセットが並ぶ。
陶器の白さが、舞台の照明を柔らかく拡散している。


「では、お茶を注ぎますわ」

ティーポットを傾ける。
琥珀色の液体が、弧を描いてカップに落ちる。

「音を立てないように、ゆっくりと」

カップを持ち上げる。
小指は畳んだまま。
「小指を立てるのは、実は下品とされていますの」

一口。
ダージリンの渋みの奥に、花の残滓がある。この産地のものは、必ず終わりに甘みが来る。
その甘みが喉を降りていくのを、静かに見送る。

カップを置く。
陶器がソーサーに触れる瞬間、息を微かに止め、親指に意識を集中させる。それだけのことだ。


「音が、全く聞こえなかった。飲む時も、置く時も」
セオドアさんが、自分のカップを手に取る。飲む。置く。
小さな音がした。磁器が磁器を打つ、乾いた衝突音。

「僕らはさ、何年もそういうのを練習するんだよ。カップの置き方、呼吸のタイミング」
視線が、私に向く。
「でも、君は考えなくてもできる」

「僕も、もうおっさんでさ。ずっと役者やってきたけど……。それでも、本物には届かないんだよね」


本物。


紅茶の香りが、急に遠くなった。
テーブルの上に充満していた茶葉の甘みが、どこかに引いていく。鼻腔が何も拾わなくなる。

扇子の柄を、指が無意識にたどっていた。

「……そういうものでもございませんわ」

これは誰の習慣だろう、と思う。
これは、何と引き換えに身についた習慣だろう。

弛緩

「じゃあ、堅苦しいのはここまで!普通にお茶飲もうよ」
セオドアさんが、椅子の背に体を預ける。
釣られたように劇団員たちの肩から力が抜け、笑い声が稽古場に戻ってくる。


「ミセリコルデさん、いつもあんな風に優雅なの?」
エミリアさんが、身を乗り出す。
率直な好奇心を隠す気配がない。役者向きの顔だ。

「そうですわね。意識したことは——」
ない、と続けようとして、止まる。

舌の上に言葉が残る。まだ音になっていない言葉が、出口を見失ったまま、口腔の中に留まっている。

里の木々の下で、誰の目も気にせず笑っていたころ。
カップを置く時に音のことを考えなかった。視線の角度を測らなかった。扇子など持たなかった。
あの頃の笑い方を、今の私は再現できない。
できるのは、笑っているように見えることだけだ。

それを自然と呼んでいいのだろうか。自然とは、何だろう。
訓練の果てに訓練を忘れた状態に、どう名前をつければいいのだろう。

わからない。
他者の思考の輪郭なら触れることができる。でも自分の内側については、いつも、霧の中に手を入れているような感触しかない。

「すごいなあ」
一人の劇団員が、感心したように呟く。
「本物の貴族って、ああいう感じなんだね」


本物。

また、その言葉が来た。


「ありがとうございます」
扇子が開く。口角が上がる。
計算してからそうするのか、そうなってから追いつくのか。もう、どちらが先かも判然としない。


紅茶を、もう一口。

ダージリンの渋みが、舌を通過する。
今度は、その奥の甘みを、最後まで追わない。

カップを置く。
静かに。


「ごちそうさまでした」

扇子を閉じる。
稽古場は明るく、賑やかで、活気に満ちている。
誰かが笑い、誰かが台本を捲り、誰かが動作を繰り返している。


私はその中で、完璧に座っている。

それが演技か否かを問う前に、
もうそれ以外のやり方を、知らない。