物語と調書
最後の拍手が収まる頃には、錆びた剣亭の奥で新しい酒樽が開けられていた。
舞台と呼ぶには一段高いだけの床から降りると、先ほどまでこちらを向いていた椅子が一つずつ卓へ戻されていく。客は今しがたの物語をなお論じる者と、もう忘れて次の杯を頼む者に分かれ、空いた器は下げられ、代わりの皿が運ばれる。
入口から厨房まで伸びる通路には、客と給仕と椅子の脚が絶えず出入りしていた。
話は終わった。それでも店の夜は続く。
鞄へ原稿を戻し、扇子をその上へ置いたところで、入口近くから声が上がった。
「だから、払ったって言ってるだろうが」
「半分だ。昨日の分まで俺に押しつけて」
二人。片方は壁際の長椅子に座り、もう一人はその向かいに立っている。
酔客同士の口論なら珍しくない。ギルバートさんもまだ動いていなかった。
立っている男が卓へ片手をついた。もう片方の手が上がる。
人差し指が相手へ向き、それが開いた手になるところまで見えた。
その間を、盆を持った給仕が横切った。白い袖と盆の縁が二人を隠し、次に視界が開いたとき、長椅子にいた男は身体を後ろへ崩していた。肩が背板へ当たり、卓が傾く。縁にあった陶器の酒器が床へ落ちた。
割れる音で、店の空気がそちらへ集まった。
「押したな!」
「触ってねえ!」
ギルバートさんが今度は動いた。二人の間へ入り、立っていた男の肩を押し戻す。別の客が長椅子の男を立たせる。
騒ぎの中心が狭まる一方で、その周囲では椅子が引かれ、通路が空き、給仕が割れた陶片の近くから客を離していた。
鞄の留め具から指を離した。今すぐ帰るのは難しそうだった。
衛兵
やがて入ってきたマーサさんは、騒いでいる二人より先に床を見た。割れた酒器、倒れた椅子、卓の位置。それから二人を見た。
「怪我は?」
「ねえ」
「こっちもない」
「店の被害は?」
ギルバートさんが割れた器を指した。
マーサさんは一度だけ頷いた。
「じゃあ順番に聞く。二人とも、勝手に帰るなよ」
抗議しかけた一人を手で制し、別々の場所へ座らせる。店内を見渡し、それからこちらで視線が止まった。
「ああ」
名札にはマーサ、とある。もう読む必要のない名前だった。
「またいたのか」
「今夜はこちらでお話をしておりましたから」
「知ってる。外まで聞こえてた」
「まあ。それは光栄ですわ」
「その話は後だ。見てたか?」
「ええ」
マーサさんは空いている卓を一つ選び、椅子を引いた。
そこには先ほどまで三人分の食事があったらしい。皿だけが下げられ、卓上には輪染みとパン屑が残っている。
今は衛兵の記録用紙が配膳されている。
「最初から頼む」
「承知いたしました」
向かいへ座る。
「お二人が言い争いを始めたのは、公演の終了後です。最初に聞こえたのは支払いについての話で、立っていた方は支払いを済ませたと主張し、もうお一人は、それを否定して昨日の分についても言及していました」
「待て」
ペン先が紙から離れた。
「昨日の支払いを見たのか?」
「いいえ。今夜、お二人がそう仰っていたのを聞いただけですわ」
「なら、そこはいい」
ペンが戻る。
「続けてくれ」
言葉を選び直した。
「立っていた方が、卓へ右手をつきました。左手を上げ、最初は指を差していましたが、その後、手を開いて相手へ伸ばしています」
「左手だな?」
「ええ」
「当たった?」
「そこは」
一度、入口近くの卓を見る。いまは椅子が直され、割れた酒器も片付けられている。だが、こちらからそこへ引いた視線の途中には、まだ同じ通路がある。
「見えておりません」
マーサさんのペンが止まった。
「見えてない?」
「給仕の方が間を通りました。相手へ手を伸ばしたところまでは見ましたけれど、接触した瞬間は隠れております。その方が通り過ぎた時点では、もうお一人が長椅子へ身体を崩していました」
マーサさんは紙へ一行書いた。
「なるほど」
「ただ、姿勢から考えますと」
「それは後で聞く」
また止められた。今度は、話を遮られたとは感じなかった。
紙を見る。
マーサさんは、わたくしの言葉を短く書き直しているわけではない。書いていない。昨日の支払いも、二人の声量も、開いた手の形から考えられる意図も、紙にはない。
あるのは、わたくしがいた位置と、左手が伸びたことと、途中で視界が遮られたことだけだった。
「マーサさん」
「なんだ?」
「どの範囲までお話しすればよろしいのでしょう」
彼女は顔を上げた。
「あんたが見たところまで」
それから、紙の下の方を指先で押さえる。
「考えたことは、その後で聞く」
現場
マーサさんと席を立ち、事件のあった卓まで行く。
「ここか?」
「いいえ。わたくしが見ていたのは、あちらからです」
公演後に座っていた席を示した。
マーサさんはそこへ移り、椅子には座らず、立ったまま入口側を見る。
「で、二人は?」
「一人はこちら。もう一人は長椅子です」
位置へ立つ。卓は二人の間にある。
先ほど腕を伸ばした男の位置から見ると、マーサさんの姿が正面に来た。
「給仕は?」
「厨房側から入口の方へ」
指で示す。厨房から伸びた通路は、わたくしがいた席と二人の卓の間を斜めに横切っている。給仕が盆を持ってそこを通れば、ほんの数歩の間だけ、二人の上半身が重なる。
マーサさんが通路へ移った。
「この辺か」
「もう半歩、入口側です」
移る。
「ここ」
「ええ」
その位置に立たれると、事件の卓がほとんど隠れた。先ほどは一瞬だった。腕が伸び、白い袖が入り、次には身体が後ろへ崩れていた。
出来事として見れば、ひと続きだった。位置を置き直すと、間がある。
「押した可能性は高いと思います」
「理由は?」
「手を伸ばす直前まで口論していました。相手との距離は腕一本ほど。もう一人が身体を崩した方向も」
「そこまででいい」
マーサさんは遮ってから、こちらを見た。
「いや。違うな」
紙を持ち上げる。
「それは書かんが、聞いておく」
先ほどまでと同じ質問ではなかった。
「続けてくれ」
そこで初めて、腕の向き、二人の距離、長椅子へ崩れた身体の方向を順に説明した。マーサさんはほとんど書かなかった。
聞くだけだった。最後まで聞いてから、
「押しててもおかしくはないな」
と言った。
「ええ」
「だが、見てはいない」
「はい」
紙へ戻る。彼女は一行の終わりに印をつけた。
その印の向こうには、何も書かれていなかった。
査読
元の卓へ戻り、マーサさんは記録をもう一度初めから読み返した。
わたくしも横から見る。ずいぶん短い。
公演なら、これほど短くしては景色も人も立ち上がらない。誰がなぜ怒り、どちらが先に声を上げ、何が次の行動を招いたのか。そこを欠けば、聞き手は出来事の輪郭を掴みにくい。
けれど紙の上には、別の輪郭があった。立っていた位置。伸びた左手。視界を遮った給仕。その後に見えた姿勢。
それだけが残されている。
「これで間違いないか?」
「はい。わたくしが実際に確認した範囲としては」
「よし」
マーサさんが紙を引き寄せる。
そのとき、書かれた一文の中に、通路という語があった。
通路。厨房から入口へ。
わたくしから見れば、二人の正面を横切る線になる。けれど店内には、もう一列、卓がある。
「マーサさん」
「ん?」
「こちらからは見えませんでしたけれど」
反対側を示した。壁沿いに三つの卓が並んでいる。一番奥の卓からなら、通路は二人の手前ではなく、向こう側になる。
マーサさんの視線がそちらへ移った。
「……ああ」
椅子から立つ。紙を持ったまま、問題の卓と壁際の卓を交互に見る。
「そうなるな」
「そちらのお客様であれば、接触した箇所まで見えていた可能性があります」
「客、残ってるか?」
ギルバートさんが、厨房から出てくるところだった。
マーサさんが呼ぶ。
「さっき、壁際の奥にいた連中は?」
「まだ二人いる。外で煙草だ」
「助かる」
紙を折らず、そのまま持って歩き出す。
数歩行ったところで振り返った。
「ミセリコルデ」
「はい?」
「もう帰っていいぞ」
「追加のお話は?」
「必要ならまた聞く」
そして、少し考えるように紙を持ち上げた。
「今度は最初から、見たところと考えたところを分けてくれれば早い」
「承知いたしました」
「まあ、あんたの話が細かかったから、次に誰へ聞けばいいか分かったんだがな」
それだけ言い、マーサさんは店の外へ向かった。
開いた扉から夜気が入り、近くの灯りが一度揺れる。
卓の上には、彼女が紙を置いていた四角い空きだけが残っていた。周囲には輪染みがあり、パン屑があり、誰かが指で押した跡が細く伸びている。
鞄を開く。原稿はまだ中にあった。
今夜、わたくしが語った物語は、そこに最初から最後まで残っている。
マーサさんの紙には、あの卓でわたくしが見た一瞬だけが残っている。
けれど、その一瞬から、彼女は次の卓へ向かった。
留め具を閉じた。
入口の向こうで、マーサさんが誰かを呼び止める声がした。