渋滞

銀の三日月亭は、朝から人が多かった。

食堂では普段より早く席が埋まり、ロビーの壁際には、革張りの書類鞄や筒形の図面入れが幾つも並んでいた。旅装の者もいたが、長旅の荷物にしては少ない。
昨夜帰ったときにも、見慣れない紋章を付けた馬車が二台、玄関前で順番を待っていた。
何か催しがあるらしい。

朝食を終え、従者と宿を出た。


RACAへ着いて最初に目についたのは、劇場と美術館の臨時休館を知らせる掲示だった。
日付は今日一日。理由には、館内行事への対応とだけある。
いつもなら公開施設へ向かう人が混じる入口も、今日はむしろ静かだった。


受付で資格証を示す。
確認はすぐに終わった。

問診

ロゼさんは、既に待っていた。

「妹ちゃん、おはよう」
「おはようございます、ロゼさん」

椅子へ座る。

いつもの確認を始めた。体調。睡眠。視覚の変化。違和感の有無。
回答に特筆すべきものはない。
瞳の反応を確かめ、いくつか質問を追加する。前回までと比べても変化は認められなかった。

十四分。
問診票へ最後の記入をする。

「問題ありません」
「ほんと?」
「ええ。前回と大差はありません」
「よかった」
ロゼさんは笑った。

診察はそれで終わった。


「それでは、今日はこれで」
「もう帰るの?」

扉へ向けかけた足を止めた。

ロゼさんは机の端に置かれていた紙へ目を落とした。
診察用のものではない。細い欄に刺繍のように文字が並んでいる。

「今からだと、ちょうど混むよ」
「混む?」
「午前の会議が終わる時間なの。西から二組出て、南には午後から来る人たちが入る予定だから」

朝の入口を思い返す。人は少なかった。

「来たときには、随分静かでしたが」
「午前の人たちは、もう中に入ってたからね」

なるほど。

ロゼさんは紙を指でなぞった。
「出られないわけじゃないよ。でも、今からしばらくは馬車も人も多いから、少し待った方が歩きやすいと思う」

急ぐ予定はない。宿へ帰るだけだ。

「でしたら、そうしましょう」
「うん」

答えた途端、ロゼさんの声が一段明るくなった。

「じゃあ座ってて。お姉さんが何か頼んでくるね」
「そこまでしていただかなくても」
「待ってるだけじゃ暇でしょう?」

既に扉へ向かっている。

止めるほどのことでもない。
席へ戻った。

待機

ほどなくして、廊下を早足で近づく音がした。
扉を叩いて入ってきた警備部門の職員は、わたくしを見ると短く会釈し、すぐロゼさんへ向き直った。

「部門長。西側、第一陣が動き始めました」

ロゼさんの声が変わった。

「予定より早いですね」
「はい。ただ、先頭だけです。後続はまだ出ていません」
「南は?」
「三組とも到着済みです。最後の車列を今、回しています」
「では西の歩行者を先に通してください。馬車は一度止めて構いません。南が入り切ったら、順に抜きましょう」
「了解しました」
「入口前には溜めないでくださいね。待ってもらうなら中庭側へ」

職員はもう一度頷き、部屋を出た。

扉が閉まる。

先ほどまでの柔らかな声が戻った。
「ごめんね、妹ちゃん。今日はちょっと騒がしくて」
「いえ」

ロゼさんの机には、警備配置の紙が広がったままだった。
そちらは、まだ何度も書き込まれるらしい。

「ロゼさんは、行かなくてよろしいのですか」
「どこに?」
「正門です」

一瞬だけ、ロゼさんは目を丸くした。
それから窓の方を見る。

「今日は行かないよ。ああいうのは他の子の方が慣れてるから」
「部門長なのに?」
「部門長だから、かな」
軽い調子だった。

「前は、ああいうところはずっと任せっぱなしだったでしょう? だからみんな、私よりずっと上手なの」
窓の外へ向けられた左右の瞳は、今は同じ場所を見ている。

「今なら立ってても平気なんだけどね」
そう言って、少し笑った。
「今さら私が混ざったら、たぶん邪魔だよ」

否定する材料はなかった。
現場の経験は、見えるようになっただけでは増えない。

それに、先ほどの指示には迷いがなかった。
自分が立つ場所を変えるより、慣れている者を配置した方が効率はよい。

「合理的です」
「でしょう?」
ロゼさんは得意そうに頷いた。


しばらくして、茶が届いた。

窓際の小卓へ二客が置かれる。
わたくしの方へ寄せられたカップからは、まだ細く湯気が立っていた。

「熱いから気をつけてね」
「分かっています」
「妹ちゃん、熱くても平気な顔するから」
「熱ければ熱いと判断します」
「そういうところだよ」

何がそうなのかは説明されなかった。

一口飲む。薄めの茶だった。
今日の給仕は通常の公開施設が閉まっているためか、使われている器も普段とは違う。簡素な白磁で、縁に細い金線だけが入っている。

外から、車輪の音が続いた。
最初は一台。少し間を置いて二台。
その後は重なり、数を分けて聞くのが難しくなった。

「随分と大きな催しなのですね」
「あ、知らなかった?」
「宿が繁盛していることは知っていました」
「そこまで?」
「それ以上、調べる理由がありませんでしたので」

ロゼさんは笑った。
「妹ちゃんらしいね」

卓の端に、会議の日程表が置かれていた。
題目を拾う。河川管理。
都市排水。橋梁。灌漑。水運。
どれも重要なのだろう。わたくしの今日の予定には、ひとつも関係がない。

「橋と水路について、これほど多くの方が集まるものなのですね」
「集まるよ。橋が落ちても、水が溢れても、困る人の方が多いから」
「それはそうでしょうね」
「今年は特に参加が多いの。だから劇場と美術館も今日は閉めて、人を回してる」

朝の掲示と、銀の三日月亭の客がようやく一つにつながった。それだけだった。
展示を見に行きたいとは思わない。

茶をもう一口飲んだ。
湯気は先ほどより細い。


また扉が叩かれた。先ほどとは別の職員だった。
「部門長。予定の車列はほぼ抜けました。ただ、正面の歩行者が減りません」
「まだ?」

ロゼさんは立ち上がり、今度は紙へ目を戻さずに廊下へ出た。

わたくしもカップを置いた。
窓のあるところまで行くと、正面へ続く道の一部が見えた。朝には空いていた場所を、人が横切っている。大きな一団ではない。数人ずつ。間を置いて、また数人。書類鞄を抱えた者、筒を肩へ掛けた者、従者らしい者を伴った者。馬車を降りてきたようには見えない者も多い。

「近くの宿から来ている方が、思ったより多いようです」
職員が言った。

ロゼさんはしばらく外を見た。
「これだと、もう少しかかるね」

予定表へ戻る。
「大きいところは読めたんだけどなあ」
悔しがるほどでもなく、ただ数字と実際の差を確かめる声だった。
「南側の人員を一人、正面へ回してください。馬車はもう減るから、歩く方を優先で」
「了解です」

職員が去る。

ロゼさんはわたくしを見る。
「もうちょっと待とうか」

外を見る。確かに、今出る積極的な理由はない。
「ええ」

茶はまだ温かかった。


待っているあいだにも、何度か報告が入った。
そのたびロゼさんは、人数と場所と時刻を聞き、必要なところだけ指示を変えた。

「東はそのままで大丈夫です」
「そこは増やさなくていいですよ」
「帰る人を止めないで。入る方を少し待ってもらってください」
どれも短い。

部下が退出すると、声が戻る。
「お茶、冷めてない?」
「まだ飲めます」
「お菓子もあるよ」
「いただきます」

二つ目を取る。
最初に待つと決めた時点では、ここまで長くなるとは思っていなかった。だが、時間を決めていたわけでもない。
カップの中身が半分を切った頃、外の音が少なくなった。

やがて、次の報告が来た。
「正面、落ち着きました。通常配置へ戻せます」
「分かりました。皆さん、一度休憩を回してください」
「はい」

扉が閉まった。

ロゼさんは窓を確かめてから、こちらへ戻る。
「今なら大丈夫そう」
「では」

カップを置く。鞄へ手を伸ばした。

今度は止められなかった。

留め具を確かめ、椅子から降りる。

「お待たせしました」
「いえ。助かりました」

人混みの中を従者と歩くこと自体に大きな問題はないが、避けられるなら避ける方がいい。

扉へ向かう。

昼食

「妹ちゃん」

振り返った。

「お昼は?」

時計を見る。診察を始めた時刻から、思った以上に進んでいた。

「まだですね」
「やっぱり」
「宿へ戻ってからで構いません」
「今から?」
「ええ」

ロゼさんは、先ほどまで警備配置を見ていた紙を畳んだ。
「ここで食べていったら?」
「もう混雑は収まったのでしょう?」
「うん。だから帰っても大丈夫」
答えは即座だった。

「でも、お腹空いてるでしょう」

論点が変わった。

「それほどでも」
「妹ちゃんの『それほどでも』は信用してないの」
「診察では問題ありませんでした」
「診察とお昼ごはんは別だよ」

それも正しい。少なくとも、診察結果から昼食を抜く理由は導けない。
宿も今日は混んでいる。
戻ってから食堂の席を待つより、ここで済ませる方が早い可能性はある。

「……では、お言葉に甘えます」
「うん!」

また声が明るくなった。
「じゃあ、お姉さんが頼むね」
「ロゼさん」
「なに?」
「ご自分のお仕事は」
「あ」
ロゼさんは机に残った警備配置の紙を見た。


数秒考える。

「じゃあ、一緒に頼んで、私はここで仕事する」

そうなった。


昼食が届くまでの間、ロゼさんは報告書を読み始めた。正確には、職員が読み上げるのを聞いている。
数字を一度聞いただけで、前の報告との差を指摘し、訂正箇所を口述する。紙へ視線を落とすこともあるが、耳だけで処理している時間の方が長い。
昔からそうしてきたのだろう。見えるようになった今も、残った手順は仕事として使われている。

一つの報告が終わる。
次が来る。

廊下を行き交う足音は、もう通常の間隔へ戻っていた。

それでもわたくしは、まだここにいる。
帰れない理由は、もうない。昼食が来る理由はある。


皿が並べられた。

ロゼさんは書類を端へ寄せた。

「はい。妹ちゃん、先に食べて」
「ロゼさんもでしょう」
「私はこれだけ署名してから」
「では、待ちます」

ペン先が止まった。
「待っててくれるの?」
「同じ卓で食事をするのでしょう」
「そうだけど」

何かがおかしいらしい。分からないので、そのまま待つ。

ロゼさんは二枚へ署名した。


昼食を終える頃には、正面の往来は完全に平常へ戻っていた。
朝には閉じていた扉の前で、片付けの始まった案内板を職員が運んでいる。

わたくしがここにいる理由は終わった。

「では、今度こそ失礼します」
「うん」

ロゼさんも立った。

「送るね」
「必要ありません」
「途中まで」
「従者もおります」

後ろを見る。従者は朝から変わらず、定位置に立っている。

「知ってるよ」

ロゼさんも従者を見る。
「従者さんがいるから危ないって言ってるんじゃないの」
「では、なぜ」
「一緒に帰りたいから」

返答が早かった。警備上の理由は付かなかった。
ただ、それだけだった。

「業務はよろしいのですか」
「正面は落ち着いたし、次の報告まで時間あるよ。ホテルまで行く必要もない。途中で戻るから」

条件が整っている。

「でしたら」
鞄を持ち直した。
「途中まで」
「うん」

帰路

RACAを出た。朝には気づかなかったものが、帰りには残っていた。
車寄せの端に深く重なった轍。畳まれ始めた臨時の案内板。柵を元の位置へ戻す職員。
道の端には、まだ数台の馬車が順番を待っていたが、人の流れを塞ぐほどではない。

ロゼさんの言った通りだった。
昼前なら、ここはもっと混んでいたのだろう。

従者が左後ろにつく。ロゼさんは右側を歩いた。

「今日は大変でしたね」
「そうでもないよ。みんな慣れてるから」
「ロゼさん以外が?」
「私も慣れてるよ」
「門前以外には」
「……妹ちゃん、そこ拾う?」
少しだけ声が上がった。

「事実でしょう」
「事実だけど」

数歩進む。

「今度、暇な日に立ってみようかな」
「門番を?」
「うん」
「部門長が」
「だめ?」
「人員配置上の意味は薄いでしょうね」
「ほら。妹ちゃんまでそう言う」
笑っている。

道はもう空いていた。誰かに避けてもらう必要も、立ち止まる必要もない。


それでもロゼさんは、宿へ向かう分かれ道までついてきた。
そこでようやく足を止める。

「じゃあ、ここまで」
「ありがとうございました」
「うん。ちゃんと帰ってね」
「ここから一本道です」
「それでも」
ロゼさんは満足そうに頷いた。

「今日はちゃんと安全に帰せたから」

わたくしは道の先を見る。宿まで、人の流れを妨げるものはもう何もない。

「ええ」
それだけ答えた。

従者と歩き出す。

振り返らなかったが、ロゼさんがすぐ戻ったとは思わなかった。
けれど、それを確かめる必要もなかった。