脂身の多い箇所
朝食のパンには、バターだけを塗った。
薄く切ったパンへナイフを滑らせると、室温に戻りかけたバターは抵抗なく伸び、焼いた麦の細かな穴を埋めた。
発酵した乳の匂いと、パンに練り込まれた塩がある。
隣の皿には卵、杯には黒い茶。
いつもの朝食だった。
一口食べる。
噛んでいる途中で、肉が食べたくなった。
焼いた肉。それも赤身だけではなく、脂の厚いところがいい。
表面は強く焼いて、縁には焦げ色がついている。砕いた香辛料が脂へ食い込み、塩は多少強くても構わない。
刃を入れれば、焼けた外側の下に柔らかな脂が残っている。
なぜ、急に食べたくなったのか分からなかった。
昨日、似た料理を見た覚えはない。夕食が足りなかったわけでもない。朝食に不満があるわけでもない。
パンをもう一口食べた。
やはり肉が食べたい。
だからといって、朝から焼いたあばら肉を用意させるほどでもなかった。
残りのパンを食べ、卵を食べ、茶を飲む。
朝食は、それで終わった。
肉のことだけが残った。
錆びた剣亭
錆びた剣亭は、夕食にはやや早い時間から客が入り始める。
扉を開けると、まだ空席の方が多かった。奥では三人連れが卓を囲み、鎧を椅子の背へ掛けている。壁際の席では男が一人、両手で杯を包みながら誰かを待っていた。
カウンターの端には返された皿が重なり、その向こうをギルバートさんが行き来している。
あと一刻もすれば、もっと騒がしくなる。その前に食べられそうだ。
「いらっしゃい」
こちらを見たギルバートさんが言った。
「今日は仕事か?」
「いいえ。食事です」
「ああ」
空いている卓へ座る。従者は少し離れた壁際の席を取った。
「何にする?」
「豚のあばら肉はありますか」
「あるぞ」
「では、それを。脂身の多いところをお願いします」
ギルバートさんの目が一度こちらを見た。
「脂が多いとこ?」
「はい。表面を、よく焼いてください。……それから香辛料を強めに」
「結構こってりするぞ」
承知している。それを避けるなら、朝からここまで考えてはいない。
「それがいいんです。それから、赤ワインも一杯お願いします」
ギルバートさんは一度頷いた。
「分かった」
注文は厨房へ渡っていった。
待つ。
まだ食事時の本番には早い店内で、人の動きが少しずつ増えていく。新しく入ってきた二人が入口近くの卓を取り、別の客がカウンターへ腰を下ろした。
奥から皿が出てくると、ギルバートさんが受け取り、卓へ運ぶ。
こちらのものではない。煮込んだ豆と、厚く切ったパンだった。
次に出た皿も違った。焼いた腸詰と玉葱。
そのあと、ようやく肉を焼く匂いが届いた。脂が火へ落ちた匂いに、香辛料の焦げる苦い香りが混じっている。
厨房はここから見えない。それでも、自分が頼んだ料理だろうと思った。
朝に思い浮かべた焼いた肉は、豚のあばら肉と決まり、脂の量も焼き方も伝えられて、今は厨房の火の上にある。
もう注文を変える余地はない。
変えるつもりもなかった。
上膳
「待たせたな」
卓へ置かれた皿は熱かった。
あばら肉が二本、骨を並べるように載っている。
濃い焼き色のついた表面には、黒と茶の香辛料が粗い粒のまま残っていた。肉の縁では脂が半ば透け、皿へ落ちた分はまだ透明なまま広がっている。
焼けたところだけ色が濃く、細い縁が硬く縮んでいた。
頼んだとおりだった。
ナイフを取る。
最初は脂の多い側から切った。刃先が焼けた表面を抜けると、その下は抵抗が少ない。
肉と脂が一緒に離れ、切った断面へ新しい艶が現れた。
一口。まず塩が来た。次に、香辛料。
舌へ鋭く残るもの、噛んだところで苦味を出すもの、鼻へ抜ける香りだけを長く残すもの。それらを脂がまとめて押し広げ、あとから肉の味が出てくる。
強い。もう少し弱ければ、それぞれの香辛料が分かりやすかっただろう。
今日は、これでいい。
もう一切れ切る。
今度は赤身の多いところ。表面には同じ香辛料がついているのに、脂の少ない分だけ塩がはっきりする。
骨へ近づくほど肉は締まり、刃を引く回数が増えた。
食べる。
次を切る。
一口ごとに、同じ場所がない。
焼けた脂の縁は歯に少しだけ抵抗し、その下は柔らかい。香辛料の粒が多く残ったところでは味が急に強くなり、何もついていない断面では肉と塩だけになる。
骨の際には薄い筋があり、そこを外して刃を入れると、まとまった肉がきれいに取れた。
皿の上では、食べる前には二本の肉を囲んでいた脂が、少しずつ空いた場所へ流れていた。
最初に切った断面からは、もう湯気が立っていない。
もう一口。
脂は先ほどより重く感じる。
けれど、まだ食べたい。朝のパンを食べていたときに浮かんだものは、おそらくこの味だった。
正確には違う。あのとき想像していた肉には、これほど粒の大きな香辛料はなかったし、塩ももう少し弱かった。脂の焦げ方も違う。
それでも構わなかった。
朝から同じものを探していたわけではない。肉が食べたかった。
脂の多い、香辛料の強い肉を。
隣の卓から笑い声が上がった。
誰かが椅子を引き、入口から入ってきた客がギルバートさんを呼ぶ。皿と杯が増え、店の中を人が横切る回数も増えていった。
その間に、一本目の骨が残った。
二本目へ移る。こちらは最初のものより脂が多い。
外側を切ると、焼けた部分の下から白い層が現れる。冷め始めた皿の脂は縁からわずかに濁っていたが、肉の内側にはまだ熱が残っている。
切って、食べる。
少し間を置いて、また切る。
いつもなら、味の組み立てをもう少し考えただろう。どの香辛料が多いのか。塩は焼く前か後か。肉を火へ置く前に何か塗ってあるのか。分かることはいくつかある。
確かめようと思えば、もう少し拾える。
ナイフを入れた。柔らかな脂と、その下の赤身を一緒に切る。
今日は、それで十分だった。
口へ運ぶと、辛味が舌に残った。
赤ワインを一口飲むと、香辛料の尖りが少し退き、肉の脂だけが後へ残った。
二本目の骨が見えてきた。
皿は最初より広くなっている。肉が占めていた場所に、切り落とした小さな焦げと香辛料の粒が残り、透明だった脂は冷えて、ところどころ薄く白み始めていた。
最後に残った肉は、骨の端に近い小さな一切れだった。
刃を沿わせて外す。
最初の一口ほど熱くない。香辛料も少ない。
それでも噛めば、肉の味がした。
飲み込む。
皿には二本の骨が残った。
ナイフを置いた。
下膳
しばらくして、ギルバートさんが空いた皿を見つけた。
「よく食ったな」
皿を持ち上げ、骨を見てからこちらを見る。
「そんなに腹減ってたのか?」
考える。
昼食は取った。朝食も取った。
仕事中に空腹で困った覚えもない。
「いいえ」
「違うのか」
「今日は、これが食べたかったんです」
ギルバートさんは皿を持ったまま、短く頷いた。
「ああ、そうか」
それ以上は訊かなかった。
骨の残った皿が厨房へ運ばれていく。
赤ワインをもう一口飲む。
舌にはまだ塩と香辛料が残っていた。
朝から残っていたものは、もうなかった。