短い名前

今日も、前回から大きな変化はない。
左眼の周囲に異常はなく、ロザリンさんの回答にも新しく確認すべきものはなかった。
問診票を閉じ、紙を重ねて端を揃える。
鞄へ入れる。

それでも、席を立つ必要はなかった。
卓には茶が残っている。


「今日は早かったね」
向かいから声がした。

「確認する項目が減っていますから」
「いいこと?」
「経過としては」
「そっか」

ロザリンさんは頷いて、カップを両手で持った。


そこで扉が二度鳴った。

「ロゼちゃん、いるっすか」
返事を待つより少し早く、ミルさんが顔を出す。

「いるよ。どうしたの?」
「これ。あとで確認してほしいって」

薄い書類を一枚持っている。ロザリンさんが受け取って机の端へ置いた。

「ありがとう。急ぎ?」
「今日中ならいいらしいっす」
「分かった。あとで見るね」

それで用件は終わったはずだった。けれどミルさんは出ていかなかった。
こちらを見る。

「ミーちゃん、今日も来てたんすね」
「その呼び方は、まだ続けるのですか」
「もう定着してるっすよ」
「誰にです」
「ミルに」
「それを定着とは呼びません」

茶を一口飲む。
温度はもう、カップの縁へ指を置いたままでも気にならない程度まで下がっていた。

「でも返事してくれるじゃないっすか」
「返事をしなければ、もう一度呼ぶでしょう」
「呼ぶっすね」
「ですからです」

ミルさんは納得したらしい。少なくとも、それ以上は反論しなかった。


ロザリンさんがこちらを見ていた。右眼と左の義眼が同じ方向を向いている。視線そのものに異常はない。

「どうしました?」
「ううん」

そう言ってから、まだこちらを見ている。
「ただ、ミルにはミーちゃんって呼ばれても、普通に返事するんだなって」
「今お話しした通りです。返事をしない方が手間ですから」
「うん。そうなんだけど」

ロザリンさんはカップを置いた。
磁器の底が受け皿へ触れる。
「私は、ずっとロザリンさんだね」

ロザリンさん。
治療を始めた頃から変えていない。
名前を知っている相手には名前を使い、必要な敬称を付ける。それだけのことで、変更する理由もなかった。

「そうですね」
「そうですね、って」
「違いましたか?」
「違わないよ」

ロザリンさんが笑った。
その横から、ミルさんが言う。

「ていうかミーちゃん、毎回それ長くないっすか」
「何がです」
「ロザリンさん」
「必要十分ですが」
「そういう話じゃないっす。ロゼちゃんでいいじゃないっすか」
「それはミルさんがそう呼んでいるだけでしょう」
「短いっすよ」
「名前は省略するためにあるものではありません」

「でもミーちゃんは省略されてるっす」
「わたくしが省略したのではありません」
「された側っすね」
「ええ。ですから、今も訂正しています」
「訂正しながら返事してるっすけど」

そこは否定できない。

ミルさんは、何か一つ勝ったような顔をした。

ロザリンさんは二人の間へ視線を往復させていたが、やがて自分を指した。
「じゃあ、私もロゼでいいよ」

ミルさんを見る。ミルさんは何も言わない。もう用は済んだという顔をしている。

「ロゼ、ですか」
「うん」

ロザリン、ロゼ。二拍短い。
ミルさんが先ほどから何度も使っているので、誰を指しているかは明白だった。

「でしたら」

カップを置く。
「ロゼさん」


時間にすれば一呼吸ほどだろう。

ロゼさんは、すぐには返事をしなかった。目を見開くほどではない。何かを聞き返すでもない。
ただ、こちらを見たまま、先ほどまでカップを持っていた両手を膝の上へ置いた。
「……うん」

それから笑った。
「ロゼさんでいい」
「そうですか」
「うん」

さんはいらない、と言われるものと思っていた。

「ほら。短くなったっす」
ミルさんが言った。

「二拍だけでしょう」
「成果っすね」
「何のですか」
「知らないっす」

ミルさんは満足すると、今度こそ扉へ向かった。

「じゃ、書類よろしくっす、ロゼちゃん」
「はーい」
「ミーちゃんもまた」
「次にその呼び方をしたら訂正します」
「今もしてるっす」

扉が閉じた。


卓の上には、さきほど届けられた一枚と、二つのカップが残った。

わたくしは残りの茶を飲んだ。
冷めていたが、味が崩れるほどではない。

「妹ちゃん」
「はい」
「もう一杯いる?」

卓上の茶器を見る。ポットにはまだ残っている。

「いただきます」
「うん」

ロゼさんが立ち上がった。
その名前を、今度は頭の中で確かめなかった。