雨の玄関
昼を過ぎてから降り始めた雨は、銀の三日月亭へ戻るころには、道の端から端まで同じ濃さで濡らしていた。
庇の下へ入る。
従者が傘を閉じた。張っていた布が畳まれ、縁に集まった水が玄関脇の敷石へ落ちる。
戸が開いた。
「お帰りなさいませ」
声と一緒に、ヒューゴさんが帳場の奥から出てきた。
珍しい。
いつもなら、帳場からこちらを見て挨拶をするか、ノエルさんへ任せるところだった。
「ずいぶん降られましたね。どうぞ、そのままで」
そう言って、ヒューゴさんが両手を差し出す。
何を受け取るつもりなのか確認するより先に、肩の留め具が外れた。
従者だった。
濡れた外套が肩から浮き、後ろへ引かれる。袖を抜くため片腕を上げる。
その間も、ヒューゴさんの手は空いていた。
「こちらへ」
今度はヒューゴさんが従者へ手を伸ばした。
「ああ、それならこっち」
横から別の腕が出た。
グレーテさんだった。片腕を胸の前へ出す。従者は一度そちらを向き、外套をその腕へ載せた。
ヒューゴさんの手には、また何も残らなかった。
グレーテさんは外套を広げなかった。片腕に掛けたまま、裾をもう一方の手で持ち上げる。
「表だけね。裏まで来てない。これなら干しとけば大丈夫」
従者が手袋を外す。
「それも濡れてる?」
「表面」
「じゃ、一緒に」
手袋が外套の上へ重なる。
従者が傘を示すと、グレーテさんは首を振った。
「それは玄関。ノエルちゃん、いつものとこ空いてる?」
「空いてますよ」
帳場の内側で、ノエルさんが答えた。
傘は従者からノエルさんへ渡った。
それで一通り終わったらしい。
ヒューゴさんだけが、まだ玄関にいた。
「お履き物は」
「問題なし」
従者が答える。
わたくしも足元を見る。靴先は濡れているが、泥はほとんど付いていない。
部屋で履き替えれば足りる。
「でしたら、お部屋へ乾いた履き物を」
「支配人」
ノエルさんが呼んだ。
「なんだ」
「乾いた履き物なら、いつものものがお部屋にあります」
「……ああ。そうだったな」
ヒューゴさんは頷いた。
それでも、その場から動かなかった。
滑り止め
玄関の敷物には、わたくしと従者が持ち込んだ水が残っていた。二人分の濡れた靴跡があり、外套から落ちた水が、その外側に細く続いている。
ヒューゴさんもそれを見た。
「では、せめて床を」
壁際の清掃具へ向かう。
「ちょっと」
グレーテさんの声が止めた。
ヒューゴさんは、それでも柄へ手を伸ばした。
「これくらいなら私でも」
「はいはい」
グレーテさんは外套を掛けたままの腕を持ち上げ、空いている手でヒューゴさんの背を軽く叩いた。
「モップじゃなくて、ペンを握るのがあなたの仕事でしょ」
「だが、こういう時くらい支配人が現場へ出ても構わないだろう」
「だから支配人の仕事しなさいよ」
笑いながらもう一度、背を押す。ヒューゴさんが一歩、帳場の方へ動いた。
「グレーテ」
「なに」
「私は一応、君の上司なんだが」
「知ってるわよ。十二年も一緒にいるんだから」
もう一歩。
ノエルさんが帳場の中でペンを置いた。
「お帰りなさいませ、支配人」
支配人さんがそちらを見る。
「……ノエル」
「今日はずいぶん遠くまでお出かけでしたね」
「玄関だ」
「存じております」
ノエルさんはペンを取り直した。
ヒューゴさんは何か言いかけたが、そのまま帳場の内側へ戻った。
グレーテさんはそれを確認すると、外套を抱えたまま清掃具を取る。
床を拭く仕事はグレーテさんへ戻った。
傘はノエルさんの管理する場所へ収まり、外套と手袋はグレーテさんの腕にあり、わたくしの鞄は従者が持っている。
ヒューゴさんの手には、ペンがあった。それぞれの持ち場についたらしい。
「外套は明朝までにはお返しできます」
ヒューゴさんが帳場から言った。
「この程度でしたら問題ありません。必要なら軽くブラシも掛けさせましょう」
「お願いします」
「それから、お部屋へ温かいものをお持ちします。雨の中を歩かれた後ですから」
「でしたら、いつものもので」
「承知しました」
返事はノエルさんだった。
ヒューゴさんがそちらを見る。
「私が言おうとしていたんだが」
「失礼しました。では、もう一度どうぞ」
「……いや、いい」
グレーテさんが床を拭きながら笑った。
ヒューゴさんは咳払いを一つして、帳場の上の紙を揃えた。
ヒューゴさんは、以前よりよく動くようになった。
先日の契約以降、ヒューゴさんが帳場の外へ出てくる回数が増えた気がする。受付の様子を見に来ることも、客へ自分から声を掛けることも増えた。
経営方針を変えたのだろうか。少なくとも、仕事は滞っていない。
グレーテさんが濡れた布を持ち上げる。
「ほら、いつまで玄関に立ってるの。冷えるでしょ」
「はい」
階段へ向かう前に、帳場を見る。
「ヒューゴさん」
「はい。何かございましたか」
「よい従業員をお持ちなのですね」
ヒューゴさんは、すぐには答えなかった。
ノエルさんのペンも止まった。
グレーテさんは外套を片腕に積んだまま、こちらを見ている。
やがてヒューゴさんが、手元の紙から顔を上げた。
「……ええ」
先ほどまでより短い返事だった。
「自慢のスタッフです」
グレーテさんは何も言わなかった。
ノエルさんも、今度は何も足さない。
従者が階段の方へ半歩進む。
わたくしも後に続いた。
快晴
翌朝、雨は止んでいた。
玄関へ下りると、グレーテさんが外套を持ってきた。
「はい。乾いたわよ」
昨日と同じように、片腕に掛けている。
裾に残っていた薄い汚れは消えていた。毛並みも揃っている。
「ブラシも?」
「濡れたついで」
「ありがとうございます」
「いいのいいの。次からは、もうちょっと早く帰ってきなさい。あんな降り方になる前に」
それは天候次第では難しいと思う。
返事をする前に、従者が外套を受け取った。
グレーテさんの腕から従者の手へ。
従者が背後へ回り、外套が肩へ戻る。袖へ腕を通し、留め具が閉じられた。
ノエルさんが玄関の戸を開ける。
「いってらっしゃいませ」
「いってまいります」
帳場の奥にはヒューゴさんがいた。
こちらへ出てはこない。
何枚かの書類を左手で押さえ、右手にはペンを持っている。
グレーテさんが横を通った。
「そうそう。それでいいのよ」
「何がだ、グレーテ」
「別に」
戸口から朝の空気が入ってくる。
従者が先に外を確かめた。
わたくしも敷居を越える。
今日は、傘を持つ必要はなさそうだった。