手ごたえ

訓練用の棒は、ミルさんが持つと短く見えた。
実際には、わたくしの肩から床までほどの長さがある。表面は滑らかに削られ、両端には革が巻かれていた。使い込まれているらしく、中央だけ色がわずかに濃い。
ミルさんはそれを片手で回して重心を確かめると、訓練場の壁際に立つ従者へ目をやった。

「戦うなら、そっちの従者さんとやりたかったんすけどね」
従者は返事をしなかった。
「今回、資格を更新するのはわたくしですから」
「分かってるっすよ」
棒が一度、手の中で返る。
「でも、そっちの方が面白そうじゃないっすか」
「替わりません」
ロザリンさんの声が飛んだ。

訓練場の端には机が一つ置かれ、今日だけの条件を書いた紙がその上に重ねられている。

投げ技は禁止。
組み付きも禁止。
突進して体当たりすることも、壁際へ追い込んで逃げ道を塞ぐことも禁止。
一度に攻撃してよいのは一回だけ。
有効な攻撃が一度でもわたくしへ届けば、そこで終了。
使用する棒による接触は、ミルさんが威力を殺して最低限に留める。

通常の対術者訓練にはない条件が、紙の半分以上を埋めていた。

「確認します」
ロザリンさんは紙から顔を上げた。
「ミル。規定外の動作が一つでもあれば、その場で中止します」
「了解っす」
「勢いがついて止められない、もなし」
「止められるっす」
「相手が大丈夫そうだったから続けた、もなし」
「しないっす」
「妹ちゃんが転びそうになったら?」
「攻撃より先に支えるっす」
「よし」

満足そうだった。
警備部門長としての確認なのだろう。
最後の一問だけは、どう考えても通常の訓練規定にはない。

「……条件としては十分だろう」
少し離れた場所から、アッシュフォードさんが言った。

濃紺のローブ。白い手袋。いつもの四角い眼鏡。
警備部門名義の外部資格者を、警備部門の訓練実績として扱う。その手続きについて、副院長から魔法面の立会いを求められたらしい。
ロザリンさんは、それについて何も言わなかった。

オープン

「では」
訓練場の中央へ出る。

床には古い擦過痕が幾筋も残っていた。
刃を使わない訓練でも、靴底と棒と防具は石床を少しずつ削る。壁際には交換用の木剣や盾が並び、そのさらに向こうにロザリンさんとアッシュフォードさんがいる。

ミルさんまで、およそ二十歩。

近い。

術式を整える。
わたくしの左右に、一人、二人。
さらに向こうへ三人。
像は増え、同じ姿勢で立ち、同じ呼吸で胸元を動かした。

七人。

ミルさんの眉が上がった。
「それ、ありなんすね」
「防御魔法は禁止されていませんから」
「禁止してないよ」
ロザリンさんがすぐに答える。
「どんどん使って。できればずっと使ってて」

そんな気軽に使えるものではないのだが。


「始めます」
ロザリンさんの声が低くなる。

ミルさんの姿勢が変わった。棒の先が床から上がり、こちらへ向く。
それまでの気怠げな立ち方は残っているのに、足の位置だけがもう違っていた。

「行きます」
踏み込む。速い。

七つの視界へ同じ棒が伸びてきて、左寄りにいたわたくしの肩を捉えた。
像が一つ消えた。棒は像の肩のあった位置で止まっている。


「……あれ」
ミルさんが言った。

わたくしは六人で二歩下がった。

「こちらです」
六人とも同時に口を動かす。
ミルさんは棒を戻した。

最初の一撃で終わる可能性も考えていた。
そうならなかっただけだ。

次は先ほどより慎重だった。
足が半歩ずつ動く。わたくしたちの正面を横切りながら、視線よりも肩や腰の動きを見ている。
それから、別の一人を選んだ。

棒が走り、また像が消えた。

五人になる。

「先生!」
ミルさんがこちらを見たまま叫んだ。
「なんか解決策ないんすか、これ!」

アッシュフォードさんは、すぐには答えなかった。
眼鏡のブリッジへ人差し指を当てる。
五人のわたくしを、端から端まで見た。

「動作の同期に目立った遅延がない」
「はい?」
「輪郭の崩れも少ない。接触の直前まで像の精度が保たれている」
もう一度、わたくしを見る。
「……悪くない」
「ありがとうございます、アッシュフォードさん」
「褒めてる場合じゃないっすよ!」

訓練場にミルさんの声が響いた。

アッシュフォードさんは少しだけ眉を寄せた。けれど、訂正はなかった。

ミルさんは五人を見た。
こちらから見ても、視線が順番に移るのが分かる。
左。中央。右。
また中央。

やがて、そのうちの一人へ棒の先を向けた。
「先生」
「何だ」
「コイツっすか?」

今度はアッシュフォードさんも、すぐに答えなかった。
「断定できない」
「なんでっすか」
「差がないからだ」
「先生でも?」
「私が知っているのは術式の構造だ。術者本人を識別する手段ではない」

ミルさんは棒を下げない。ただ、それで像を突くこともない。

それなら。

問題

「ミルさん」
「はい?」
「一つだけお教えしましょうか」
五人のまま微笑む。
「ミルさんから見て、一番左にいるわたくしは幻影です」

ミルさんの目が左端へ動いた。それから、棒の先を向けていた一人へ戻す。

「攻撃対象を変えますか?」

背後で、小さく布が擦れた。
アッシュフォードさんが腕を組んだ音だった。
「……なるほど」
「何か分かったんすか?」
「古い確率論の思考実験に似ている」

ミルさんが、ゆっくり棒を下ろした。
「それ、今いるやつっすか?」
「選択肢から一つを選ぶ。正解を知る者が、選ばれていない不正解を一つ開示する。その後、最初の選択を維持するか変更するかという問題だ」
「じゃあ変えればいいんすね?」
「待て」


アッシュフォードさんは五人を見る。
「五択だ。一つを除いた後にも三つの未選択肢が残る。単純な三択の問題とは条件が違う」
「で、どれ殴るんすか?」
「今考えている」

ミルさんが黙った。
わたくしも待った。五人とも、笑顔のままで。


数呼吸。

アッシュフォードさんの指が眼鏡へ行く。
「いや」
指が止まった。
「そもそも、左端の像は除外されていないな」
「ええ。まだおりますわ」
「ならば扉を開いたことにはならない」
「扉なんすか、これ」
「比喩だ」

「しかも」
少しだけ気になったので付け加える。
「次に重なったあと、その一番左のわたくしが、まだ不正解のままだと保証できるかしら」

アッシュフォードさんが黙った。
ミルさんがこちらを見る。
またアッシュフォードさんを見る。

「……条件を整理し直す必要がある」
「先生」
「何だ」
「どれ殴ればいいんすか」
「まだ結論は出ていない」

ミルさんは数秒待った。

アッシュフォードさんはまだ考えていた。

回答

「……もういいっす」
棒が上がる。
「ミル、殴って確かめるっす」
「合理的ではある」
「先生が言うと腹立つっすね!」


踏み込み。一人消える。ミルさんが止まった。
「またハズレっすか!」

四人。

先ほどまでと、踏み込みの深さが違う。
こちらが下がれば詰める。
ただし、ロザリンさんの定めた範囲からは出ない。投げない。押さない。棒も一度振れば必ず戻す。


ミルさんを見る。
視線を合わせる。ほんの短く、意識を向けた。
顔は困惑の色が濃いが、動きに迷いはない。このまま続ければ当てられる。

防護の言葉を唱える。術式が身を包んだ。

ミルさんが来る。踏み込みも、棒の軌道も途中までは変わらなかった。
肩へ向いていた棒が、振り下ろされる直前で止まる。狙いが変わったわけではない。次の動作だけが続かなかった。
棒先が宙に残る。

「……今度は何なんすか、これ」
「防護術だ」
アッシュフォードさんの返答は早かった。
「少なくとも、先ほどの幻影とは別の現象だ」
「どうすればいいんすか?」
「抵抗できなければ直接攻撃は難しい。持続を確認しろ」

「ロゼちゃん。時間」
「見てるわよ」
ロザリンさんの声が低い。
「あと、棒はその位置から動かさないで」
「はいっす」
「妹ちゃん、大丈夫?」
「問題ありません」
「本当に?」
「触れてもいません」
「なら続行」

確認が終わると、少しだけ声が柔らかくなった。
「でも無理しなくていいからね」

ミルさんが何とも言えない顔をした。


次の一撃。
また一人、像が消えた。

「……またっすか」

残り三人。

「先生、今のは?」
「幻影だ」
「それは分かるっす!」


その後、ミルさんはもうアッシュフォードさんを見なかった。
棒を両手へ持ち替える。

わたくしの足。肩。床。三人分の動き。
見る順番が変わった。
最初は、どれが本物かを探していた。今は違う。どこへ打つかを決めようとしている。
一歩進む。

こちらが下がる。

さらに半歩。棒の先がわずかに沈む。

来る。

一人へ伸びた。像が消える。
ミルさんは何も言わなかった。


二人。

わたくしと、わたくし。
互いに同じ姿勢で立ち、同じように棒先を見ている。


ミルさんが息を吐いた。
棒を戻す。
今度は迷わなかった。

踏み込みは小さい。
それまでより短い軌道で、棒が肩へ来る。

避けきれない。
棒先が肩に触れた。布が押される。

「終了!」
ロザリンさんの声が訓練場を切った。
ミルさんの手が止まった。

規定どおり。
威力はほとんどない。
肩へ棒が触れているだけだった。

クローズ

幻影は隣にまだ一人残っている。

ミルさんは、その幻影を見た。
わたくしを見る。
また幻影を見る。

「……」

「ミル」
ロザリンさんの声が来る。

ミルさんは棒を引かなかった。
代わりに、その先をほんの少し押した。肩の布が沈む。

「ミル」
「……当たってるんすよね、これ?」
棒の先を見る。確かに肩へ触れている。

「ええ。今度は、わたくしです」
「……そうっすよね」
「もう離して」
「はいっす」

棒が離れる。

ロザリンさんがすぐにこちらへ来た。
「肩、見せて。赤くなってない?」
「なっていないと思いますが」
「見ます」

袖口を確かめる視線は、訓練中のそれより真剣だった。


ミルさんは棒を壁際の籠へ戻した。
置いてから、まだこちらを見ている。

「どうかしました?」
「いや」
首を傾ける。
「なんか、変な感じっすね」
「どのあたりが?」
「攻撃してるのに、何回も無駄になるじゃないっすか」
「ええ」
「で、最後はちゃんと当たったのに」

自分の手を見る。
棒はもうない。

「しばらく、当たった感じしなかったっす」


隣に残っていた最後の幻影が、そこで消えた。
訓練場には、わたくしが一人だけ残る。

ミルさんはそれを確かめてから、もう一度わたくしの肩を見た。
先ほど棒の先が押した場所には、皺が一本残っている。

それだけだった。