昼の一杯

午前いっぱい歩いたが、買うものはなかった。

広場から脇道へ入り、布を張った露店を端から見ていった。
古い燭台、蓋の合わない銀器、どこかの家からまとめて出たらしい食器、革の剥げた鞄。武具を並べた敷物も二つあったが、一方は手入れの止まった中古品で、もう一方は古く見せるためにわざと表面を荒らしたものだった。銘のある短剣が一本。銘そのものに珍しいところはない。
途中で古書を三冊開き、小箱を二つ裏返し、首飾りを一つ手に取った。

それで終わった。

市場を出る頃には、杖を突くたびに足の裏へ重さが返ってきた。踵の高い靴で半日歩けば当然の結果ではある。宿
まで戻れないほどではないが、このまま歩き続ける理由もない。
錆びた剣亭は、ここからなら近い。

昼の酒場

昼の店内は、夜よりずっと広く見えた。
空いている卓があるというだけではない。夜には人の肩や椅子の背で途切れる床板が、今日は入口から奥まで何本も続いている。窓から入った光がその板目を横切り、壁際に積まれた荷と、椅子へ掛けられた外套と、長卓の端へ寄せられた剣帯を順に照らしていた。

客が少ないわけでもなかった。ただ、誰も急いでいない。
奥の卓では四人組が昼食を取っていた。椅子の後ろには鎧が二領、盾が一枚、長い弓を収めた革袋が立ててある。鎧は泥を落としてあったが、革の継ぎ目にはまだ白い粉が残り、片方の脛当てには新しい擦り傷が何本か走っている。
持ち主らしい男は上衣だけで座り、肉を切りながら、その傷の入った脛当てを足先で仲間の方へ押しやった。
「そこ、替えるなら今日だな」
「明日でいいだろ」
「明日やる奴は今日やる」
「じゃあ今日やる奴がやれ」
女がパンをちぎりながら答えた。誰も笑わなかったが、男も脛当てを引き戻さなかった。

その隣では、髪を後ろで束ねた術者らしい人が、開いた本の上に片手を置いたまま眠っている。向かいの席の男が皿を取るたび、本へ袖が触れないよう肘だけを少し引く。
起こす気はないらしい。

さらに窓際では、靴を脱いだ二人が椅子を寄せていた。片方は踵に布を巻き直し、もう片方は靴底に詰まった細かな砂をナイフの背で掻き出している。


ギルバートさんがこちらを見た。
「休憩か」
「ええ。赤を一杯いただける?」
「あいよ」

空いていた壁際の席へ向かう。

杖を椅子へ立てかけ、腰を下ろしてから足を少し前へ出した。
立っている間には気にならなかったふくらはぎの張りが、座ると輪郭を持つ。膝から下へ残っていた重さも、床へ靴底を預けるうちにゆっくり散っていった。


やがて置かれたのは、濃い色の木で作られたジョッキだった。長く使われた縁は滑らかで、取っ手の内側だけ色が薄い。
これなら水は避けて正解だった。赤ワインは、古い木が持つ味を覆える。

両手を杯の前で軽く組む。

ひとつ、巡って。
ひとつ、実って。
恵まれる。

短い言葉を終え、目を伏せる。

ジョッキを持ち上げた。最初の一口は多めに取った。
アルコールを失った葡萄は、素直だった。
先に甘味が広がり、そのすぐ後ろから酸味が追ってくる。甘いだけではない。果皮を含めて搾ったらしい、ごく薄い渋さが舌の奥へ残り、飲み込んだあとには酸味だけが少し長く続く。
木の味も消えてはいない。古いジョッキの内側に染みついた、前の酒とも木そのものとも分けにくい香りが、葡萄の下にある。
ただ、水を入れたなら最初に拾ってしまうそれを、濃い果汁は奥へ押しやってくれる。

もう一口。
今度は最初ほど急がずに飲む。甘味より酸味を先に感じた。
同じ杯でも、口の中に前の一口が残っていれば順序が変わる。

ジョッキを置いた。

店の奥で椅子が鳴った。
本の上で眠っていた術者が起きたわけではない。仲間が立ち上がり、壁際の荷から小さな袋を取っただけだった。袋から革紐を出し、さきほどの脛当てを受け取る。そのまま卓上の皿を二つ端へ寄せた。
修理が始まる。食事も続いている。
誰かが革紐を古い穴から抜いている横で、別の誰かが豆を匙ですくい、その向こうでは眠っている人の皿へ布がかけられていた。
店の反対側では、オルガさんが椅子に座り、預かったらしい剣帯を膝へ載せていた。金具ではなく革を見ている。指で何度か曲げ、縁を確かめ、近くにいた若い冒険者へ何か言った。
若い方が首を振る。オルガさんも首を振る。もう一度何か言う。今度は剣帯がオルガさんの手元へ残った。
会話の内容までは聞こえない。結果だけなら十分だった。


わたくしはジョッキを取った。
三口目は、少し温度が上がっていた。
冷たいうちは鋭かった酸味が緩み、葡萄の甘さが前へ出る。舌の横へ残る渋みも、先ほどより分かりやすい。木の香りまで強くなった気がしたが、これは杯の温度が上がったからかもしれない。
確認する理由はない。
飲める。それで足りる。

料理が減り、革紐が一本抜かれ、眠っていた術者が一度だけ顔の向きを変える。
窓際の二人は靴を履き直したものの立ち上がらず、今度はどちらの宿の風呂が広いかという話を始めていた。
「三日ぶりなんだから湯くらい張れよ」
「宿代より高いんだよ」
「じゃあ三日分まとめて入れ」
「どういう計算だ、それ」
今度は笑い声が上がった。
戦い方の相談ではない。迷宮の構造についてでもない。
剣を抜けば相応に強い人たちなのだろう。使っている装備は安物ではなく、補修にも場当たり的なところが少ない。動けなくなるまで壊れたものも見当たらない。長く続けている者ほど、駄目になる前に直す。
その人たちが今話しているのは、風呂だった。

悪くない。

注文

厨房の方から、焼けた小麦の匂いが来た。

先ほどまでにも煮込みや脂の匂いはあったが、それとは違う。熱を含んだ粉と油、それに香草。戸が開くたび強くなり、閉じると薄くなる。
やがて大きな平たいパンが何枚か運ばれてきた。
表面に浅い窪みが並び、そこへ油が光っている。縁には淡い焼き色、ところどころには、それより濃い褐色。細かな塩と刻んだ香草が散っていた。

「夕飯用だが、焼きたてが欲しいなら今出せるぞ」
ギルバートさんが言った。

「いただくわ。一皿お願い」
「珍しいな」
「そう?」
「いや。食うならいい」
それ以上は言わず、ギルバートさんは奥へ戻った。


運ばれてきたフォカッチャは、切り分けてもまだ厚みがあった。
指で端を持つ。
表面には油が薄く残り、触れた指先へ熱が移る。縁を千切ると、焼けた外側が先に割れ、内側の生地は少し遅れて離れた。気泡の大小が揃っていない。大きく空いたところもあれば、細かな穴が集まったところもある。

一口。
最初に塩が来た。表面に残った粒を直接噛んだらしい。
はっきりした塩味のあとに油が広がり、噛んでいるうちに小麦の甘さが出てくる。甘い、といっても砂糖とは違う。焼いた穀物そのものの、噛まなければ出てこない程度の味だった。
香草はその後だった。鼻へ先に届いていた匂いより、口に入れると穏やかになる。油の中へ香りが移っているらしく、葉そのものを噛んだ部分だけ、少し青い苦味が混じった。
飲み込む。

塩気がまだ口にある。そこへワインを飲んだ。
葡萄が甘い。先ほどまで一杯で飲んでいたときより、明らかに甘味が強く感じられる。
実際に中身が変わったわけではない。パンの塩が舌に残っている。
酸味はその後から来て、油の感触を薄くした。

なるほど。

もう一片を千切る。
今度は縁ではなく中央に近い。焼き色が薄く、生地が厚い。
噛むと最初の一片ほど塩がない。そのかわり、小麦の味が早い。表面の油より、生地に染み込んだ油の方が長く残る。香草も弱い。
そこで葡萄を含むと、今度は甘さより酸味が目立った。
同じパンの中でも合い方が違う。

次は、塩の多いところ。
次は、焼き色の濃いところ。
濃く焼けた部分には、ごく薄い苦味がある。そこへ葡萄の甘味を重ねる。甘味が苦味を消すわけではない。どちらも残り、飲み込んだ後には、葡萄の酸味だけが最後まで舌の奥へ居残った。

パンを食べる。

ワインを飲む。

またパンを取る。

最初は熱かった生地も、皿の上で少しずつ温度を失っていった。熱が落ちるにつれ、油の香りは弱くなる。そのかわり生地の密度が分かりやすくなり、噛む時間がわずかに長くなる。

奥の卓では、脛当ての革紐が新しいものへ替わっていた。
術者も起きていた。
「何か食べるか」と訊かれ、しばらく皿を見てから、「温かいもの」とだけ答えている。

窓際の二人は、風呂の話から洗濯へ移っていた。
「靴下は捨てろ」
「まだ履ける」
「それを履けると言うなら、お前とは部屋を分ける」
迷宮へ持っていく剣も、帰ってきてから洗う靴下も、持ち主は同じなのだ。

オルガさんが預かっていた剣帯を返した。
若い冒険者は革の継ぎ目を何度か曲げてから腰へ回し、代わりに硬貨を二枚置く。オルガさんは一枚だけ取った。
若い方がもう一枚を押し戻す。オルガさんも押し返す。今度は硬貨が卓の中央で止まった。
どちらも取らない。

わたくしは残ったフォカッチャを見る。まだ半分近い。
ジョッキを持ち上げる。底が軽い。一口飲むと、残りはもう多くなかった。
このままなら、パンより先にワインがなくなる。

「ギルバートさん」
「ん?」
「赤をもう一杯いただける?」
「ああ」

それだけで注文は通った。

パンをもう一片取る。少し冷めた表面では、塩の輪郭が先ほどより強い。油は口へ入ってからゆっくり広がり、香草は噛み終わる頃に残る。その余韻へ最後のワインを合わせる。
甘味。酸味。わずかな渋さ。最後だけ、木の香りが少し強かった。
飲み干してジョッキを置く。
ちょうどそこで、新しい一杯が運ばれてきた。店員は満ちたジョッキを右へ置き、空になった方を左手で持ち上げた。

古い杯が卓を離れる。新しい赤が残る。その向こうには、まだフォカッチャがある。

両手を軽く組んだ。

ひとつ、巡って。
ひとつ、実って。
恵まれる。

もう一杯分を、清めた。