一般論として
問診は、とっくに終わっていた。
問診票の最後の欄には、前回と同じ記号が並んでいる。新しく確かめる症状もなく、必要な確認は十数分で済んだ。
それから、どれほど経ったのか。
ロゼさんが話題を変え、わたくしが答え、その答えからまた別の話へ移った。
机の端には閉じた問診票があり、その横には使われなかった紙が二枚残っている。診察に必要だったものは、もう一つも動いていない。
戸が叩かれた。
「どうぞ」
ロゼさんが答える。
入ってきた男性は、扉を閉める前に一度こちらを見た。
銀の髪を後ろへ撫でつけ、濃紺のローブには装飾らしい装飾がない。胸元の徽章だけが正しい位置にあり、白い手袋に挟まれた書類の角も、抱えてきたあいだに崩れた様子がなかった。
「まだいたのか」
「うん。話してたの」
「診察予定は終わっていると考えていた」
「診察は終わってるよ」
彼の判断は正しい。予定表だけを見れば、この時間にはもう退出している。
男性はそれ以上訊かず、手にした書類をロゼさんの机へ置いた。
「前の件だ。調査報告が上がった」
「ああ、あれね」
表紙の上部に事故報告の文字がある。その下に、小型チェスト、爆発、という単語が見えた。
知っている。
錆びた剣亭で似た話を聞いた。運び込まれた小箱が突然破裂したとか、蓋を開けてもいないのに吹き飛んだとか、そういった話だ。
それだけ確認して、表紙から目を離した。
「業務上のお話でしたら、わたくしは席を外しましょうか?」
「いや」
男性は書類をロゼさんの方へ押した。
「調査結果の受け渡しだけだ。緊急性もない。後で目を通しておいてくれ」
「分かった。ありがとう、ヴィクター」
しょうかい
退出する前にもう一度こちらを見た。
ロゼさんもそれに気づいたらしい。
「あ、そうだ。ヴィクター、この子」
ロゼさんがこちらへ向き直った。
「私を治してくれたミセリコルデ。前に話したでしょう?」
「君が」
視線が止まる。
「ええ。ミセリコルデと申します」
「アッシュフォードだ」
軽く頭を下げた。
ロゼさんはなぜか、わたくしより満足そうだった。
「すごいんだよ。ずっと何をやっても分からなかったのに、ちゃんと原因を見つけてくれてね。それで」
「ロゼさん」
「本当のことでしょう?」
「ええ」
否定する理由はない。
アッシュフォードさんはロゼさんの説明を遮らなかった。ただ、その続きを促すこともなかった。
眼鏡のブリッジへ人差し指を当て、わずかに押し上げる。
「処置の内容を聞くつもりはない」
「はい」
「病理の詳細も要らない。一つ訊きたい」
「何でしょう?」
「どこから疑った?」
短い問いだった。
「複数の専門家が長く手を尽くして、誰も突破できなかった。君は、最初に何を手掛かりにした?」
少し考える。
答えられる範囲は広い。症例そのものへ触れなくても、その手前にある判断なら話せる。
「皆さまが失敗していたことですわね」
アッシュフォードさんの指が、眼鏡から離れた。
「失敗を?」
「ええ。何人もの専門家が別々の方法を試して、それでも解決しなかった。ですが」
ロゼさんを見る。今は机の向こうで、何の不自由もなくこちらを見返している。
「どなたも、症状を暴走させてはいませんでした」
「……続けてくれ」
「成功しなかったことばかり記録されていますけれど、悪化させなかったことも結果の一つです。異なる方法を試して、どれも決定的には作用しなかった。それなら、皆さまが触れられなかった箇所が残っている可能性を先に考えました」
「術式の差ではなく、作用点の共通性を疑ったのか」
「最初は、ですわ。そこから先は実際に確認しなければ分かりませんもの」
「当然だ」
返事が早かった。
アッシュフォードさんはしばらく黙り、それからロゼさんへ一度視線を移した。
「偶然ではないな」
「でしょう?」
ロゼさんの声が一段明るくなる。
「この子、すごいんだから」
なぜロゼさんが胸を張るのかは分からない。
先ほどまで椅子の背へ預けていた身体を起こし、机の上で両手を揃えている。
「よく勉強してるんだよ。難しいこと、いっぱい知ってるの」
褒められている。褒められているのだが、学校から戻った子供の答案を見せているようにも聞こえる。
いつものことなので、訂正はしない。
アッシュフォードさんもそこには何も言わなかった。
「どれほど事例を覚えている?」
「数えたことはございませんわ」
「記録を参照したのではなく、記憶から候補を出したように聞こえた」
「暗記科目は得意ですの」
「暗記」
「幸い、人より勉強に使える年月が長かったものですから。暇を持て余した時期もございましたし」
百年近い時間の大半を、本と使えもしない魔法の理屈へ費やした。話し始めれば長くなる。
「記憶しているだけでは、今回の判断にはならない」
「ええ」
「なら、もう一つ訊く」
最初は一つだったはずだ。
「仮定の話だ」
「どうぞ」
「三人の鑑定士が、同じ品について同じ結論を出した。術式はそれぞれ異なる。しかし使用者の証言だけが、三人の結論と食い違っている。君なら、最初に何を確認する?」
「……その三人は、同じ場所に所属している方ですか?」
「そうだとしよう」
「同じ教育を?」
アッシュフォードさんの目が、レンズの奥で動いた。
「受けている」
「でしたら、三件の独立した結果とは扱いませんわね」
「術式は違う」
「ええ。ですが、何を異常と見なし、何を正常として除外するか、その基準が同じなら、異なる術式で同じ見落としをすることはございます」
「では使用者の証言を採用する?」
「いいえ。先に鑑定手順の共通部分を洗います。そのあとで、証言の再現性を確かめますわ」
「順序の理由は?」
「証言が正しいと決めてから調べれば、今度はこちらが証言に引かれますもの」
短い沈黙があった。
アッシュフォードさんがまた眼鏡を直す。
「……悪くない」
「ほら」
ロゼさんがすぐに言った。
「ね? すごいでしょう?」
「今の返答については妥当だ」
「そういう言い方しかできないの?」
「評価した」
「もっとこう、すごい、とか」
「精度が落ちる」
ロゼさんは一度だけ目を細めたが、まだ楽しそうだった。
アッシュフォードさんはこちらへ戻る。
「では、もう一つ」
三つ目になった。
「二重の防護が施された品がある。外側の術式は解析できる。内側は不明。外側だけを解除すれば内側へ到達できる可能性が高い。どうする?」
「解除しません」
「理由は?」
「二つが独立しているか分かりませんもの。外側が内側を封じている可能性も、内側が外側の解除を条件に作動する可能性も残ります」
「何を調べる?」
「接続ですわね。術式同士ではなく、まず媒体側から。刻印、継ぎ目、触媒の共有、魔力経路。別々に見える二つが、どこか一箇所でも同じものを使っているなら」
「そこが干渉点になる」
「ええ」
「ただし、媒体の解析自体を入力として扱う機構もある」
「非接触で得られる情報に限ります。……それでも安全と決めるわけにはまいりませんけれど」
「具体的には?」
そこからも、問いは続いた。アッシュフォードさんは防御術式の構造へ入ると、条件を細かく刻んだ。外層と内層、解除と破損、術式そのものと媒体。
こちらの答えに一つ条件を加え、判断を変えなければ、今度は変えない理由を訊いてくる。
答えやすかった。知らない条件は訊けばよい。仮定は仮定のまま扱われ、こちらの留保を勝手に結論へ繰り上げられることもない。
気づくと、ロゼさんの声がしばらく聞こえていなかった。
机へ目を戻す。事故報告書は、最初に置かれた位置から少しだけ移動していた。ロゼさんが一度手に取り、角を揃え、また置いたらしい。
こちらを見ている。
「では、もう一つ」
「ヴィクター」
ロゼさんが言った。
「何だ」
「妹ちゃん、もう帰るところだったんだけど」
そうだった。
問診はとうに終わっている。
「急いではおりませんけれど」
そう答えると、ロゼさんの眉がわずかに下がった。
「……そうなんだ」
「はい」
「そっか」
何か条件を間違えただろうか。
アッシュフォードさんも同じように考えたらしい。
「予定を塞いだのなら、すまない」
「ヴィクターはいいの」
「では何が」
ロゼさんはアッシュフォードさんを見て、それからわたくしを見る。
「私が紹介したのに」
「はい」
「二人だけで、ずっと楽しそう」
なるほど。
「説明を省きすぎましたか?」
「そうじゃないよ」
アッシュフォードさんが黙る。
わたくしも黙った。
ロゼさんは二人を見比べてから、息を吐いた。
「もういい。お茶にしよう」
「お茶?」
「うん。三人で」
具体的な提案になった。それなら分かる。
「では、いただきます」
ロゼさんの眉が戻る。
「うん」
アッシュフォードさんは扉の方を見た。
「私は戻る」
「ヴィクターも」
「報告書を渡しに来ただけだ」
「今までずっといたでしょう?」
アッシュフォードさんは時計を見る。しばらく数字を確認していた。
「……予定より二十七分超過している」
「でしょう?」
「なら、五分増えても誤差の範囲だ」
「そういうところだよ、ヴィクター」
結局、彼も残った。
ロゼさんが報告書を脇へ寄せ、空いた場所へ茶器を置く。業務の紙と問診票、その間に三つのカップが並んだ。
アッシュフォードさんは、出された茶を一口飲んだあとでこちらを見た。
「ミセリコルデ」
「はい」
「今後も質問して構わないか」
「機密に触れず、最終判断をこちらへ預けないのでしたら」
「当然だ」
「でしたら、わたくしで分かる範囲で」
「分かった」
「今日はもう質問しないでね」
ロゼさんがすぐに重ねた。
「今日はしない」
「本当に?」
「質問はしない」
アッシュフォードさんはカップを置いた。
「次回までに整理しておく」
「ヴィクター」
「今日はしないと言った」
ロゼさんは何か言い返しかけ、やめた。
代わりに、菓子の皿をこちらへ寄せる。
「妹ちゃん、これ食べる?」
一つ取る。
問診票は閉じたまま、事故報告書もまだ開かれていない。
帰るために持ってきた鞄にも、もうしばらく手を伸ばす必要はなさそうだった。