一定期間
劇場を出たときには、まだ夕刻と呼べるだけの明るさが残っていた。
短い演目だった。幕間を置かず、筋も大きく枝分かれしない。
夕食前の時間に収めるための公演なのだろう。
劇場前の階段を下りる客の流れも、夜公演のあとほど急いではいなかった。わたくしも杖をついて、その流れの端を歩いた。
今日の主演は信心ながら悪くない。最初の二場は身体が固かった。腕を上げるたびに肩までつられて動くので、遠くからでも緊張が分かる。台詞の終わりも毎回わずかに早い。
相手役の反応を待たずに語尾を畳んでしまうため、二人の言葉がうまく噛み合わず、交互に読み上げているように聞こえるところがあった。
それでも、三場目からはよかった。舞台の中央へ出たとき、立っているだけで目を引く。衣装のせいだけではない。顔を上げると、客席の視線がそこへ集まる。ああいうものは訓練だけでは作りにくい。
終幕近く、兄を呼び止める場面では声もよく通っていた。
まだ粗い。粗いけれど、華がある。
次に同じ役を演じる頃には、もう少し肩の力も抜けるだろう。
そのとき、最初の二場がどう変わるかは見てみたい。次回の予定を確かめておけばよかった。
運河沿いの道へ曲がる。
劇場から銀の三日月亭までは、急がなければ十五分ほどかかる。
水際の建物はもう西日を失っていたが、上の階の窓にはまだ空の明るさが残り、その下を商店の灯りが順に点き始めていた。
今日の公演時間なら、夕食にも間に合う。戻ったら先に着替えて、それから下へ降りればよい。
凱旋
銀の三日月亭の扉を開けると、フロントにはノエルさんがいた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
右手にはいつものペン。
その向こうに、今日は支配人もいた。珍しい。
「お芝居はいかがでした?」
ノエルさんが訊いた。
「なかなか。若い方が一人、とても目を引きましたわ」
「それはよかった。昨日はずいぶん真剣に予定表をご覧になっていましたから」
「せっかく王立機関が劇場まで持っておりますもの。使わないのも惜しいでしょう?」
「ええ。もっとも、それを言いますと、うちのレストランも宿泊料金に含まれてはいませんが」
「あら。では毎晩使えば、何かいただけまして?」
「厨房長から苦情をいただけます」
「残念」
ノエルさんが笑った。
その横で、紙が一枚めくられた。支配人だった。
フロント脇の台へ何枚かの書類を置き、目を通している。
わたくしたちの会話を邪魔しないためなのか、こちらへはまだ声を掛けてこない。
ただ、先ほどから同じ紙を二度見ている。支配人は襟元へ手をやった。結び目の位置を直す。少しして、今度は上着の左のラペルを撫でた。
ノエルさんと今日の舞台装置について二言ほど話すあいだに、もう一度、結び目へ手が戻った。
どうしたのだろう。
普段の支配人なら、客前へ出るより先に身なりを整えている。直す必要のないものを何度も直す人ではない。
何かあったらしい。
以前、グレーテさんが清掃の途中でこぼしていた話を思い出した。
『支配人ったら、空いてるお部屋ばっかり気にするのよ。三つ埋まったって喜ぶ前に、二つ空いてるって顔するんだから。もう、帳簿と結婚すればよかったのよ』
そのあと、自分で言ってから「奥さんに聞かれたら怒られるわね」と笑っていた。
大きな部屋でも埋まったのだろうか。
二階のスイートは一室が取れるだけでも額が違う。まして何日か続く予約なら、支配人が落ち着かなくなる理由としては十分に思えた。
「それでは、ご夕食の頃に」
ノエルさんが言った。
「ええ。また後ほど」
賛辞
階段へ向こうとしたところで、
「ん、んん」
後ろから、妙な咳払いが聞こえた。
振り返る。
支配人が片手を口元から下ろした。
「失礼いたしました」
声が普段よりわずかに硬い。喉でも痛めたのだろうか。
「ミセリコルデ様。もし今、お時間を少々頂戴してもよろしいでしょうか」
「ええ。構いませんわ」
支配人は一度頷き、手元の書類を揃えた。
「このたび、王立機関の短期外部資格をお取りになったとうかがいました。遅ればせながら、お祝いを申し上げます」
「ありがとうございます。もっとも、正式に籍を移したわけではございませんの。手続きが簡略になった、というところですわ」
「承知しております」
返事が早い。
「ですが、王立機関とのご関係が今後もしばらく続くことには変わりございませんでしょう」
「少なくとも、当面は」
「左様でございますか」
支配人の指が左手の指輪へ触れた。一度だけ回す。
先ほどの落ち着かなさとは違う。こちらは以前にも見たことがある。
「それでしたら」
揃えた紙の一番上をこちらへ向けた。
「現在の401号室のご契約について、一つご提案がございます」
部屋。
「現在は月ごとに更新をいただいておりますが、もし今後もルミナリスでのご滞在を続けられるのでしたら、一季節単位でお部屋を確保する契約へ切り替えてはいかがでしょう」
紙へ目を落とした。
契約期間と、支払いの時期。途中で長く部屋を空ける場合の扱い。料金にも無理はない。
「わたくしが途中で街を離れる場合は?」
「その期間も401号室はそのまま確保いたします。お荷物を置かれるかどうかは、もちろんお客様にお任せいたします」
「戻る日が決まっていなくても?」
「契約期間内でしたら問題ございません」
「その間の料金は?」
「お部屋を確保いたしますので、通常どおり頂戴いたします」
当然ではある。
便利な条件ではあるが、一季節先までこの街にいると今決める理由もない。
「便利ではございますけれど」
一度、紙から顔を上げた。
「予定が変わることもありますわ」
「もちろんでございます」
ここで話は終わると思った。ところが支配人は引かなかった。
「ですが、ミセリコルデ様は、これまでも月ごとの契約を継続してくださっております」
「ええ」
「王立機関とのご用事が増える以前から、でございます」
そう言われれば、そのとおりだった。
支配人はもう一枚、紙を出した。
「わたくしどもとしては、毎月同じお客様へ同じ部屋をご用意し、そのたび更新をお願いするよりも、最初から一定期間お取りしておく方が確実です。お客様にも、更新日のたびにフロントでお時間をいただかずに済みます」
「それは、そうですわね」
「それに」
そこで一度、言葉が止まった。
「……んん」
また咳払いをする。タイへ手が行きかけ、途中で止まった。
「失礼。今後も当館をお使いいただけるのでしたら、こちらとしても、できるだけ同じお部屋を安定してご用意したいと考えております」
ずいぶん熱心だ。
401号室は四階の北西角で、日当たりが悪い。そのぶん価格も低い。長期で押さえても、スイートルームほど機会損失が大きくないのだろう。
それに、空いている期間を減らせる。
「支配人さん」
「はい」
「一つ伺っても?」
「何なりと」
「この契約は、わたくしにとって有利ですわよね」
一瞬だけ、支配人の指が止まった。
「……はい」
よろしい。
「では、銀の三日月亭にとっても有利なのですね?」
今度は答えるまでに少し間があった。
ノエルさんが黙ってペン先を見ている。
「長期的には、そのように判断しております」
「でしたら、問題はございませんわ」
紙をもう一度読む。条項に妙なところはない。
宿側は空室を一つ減らせる。こちらは使い慣れた部屋を更新のたびに確保し直す必要がなくなる。
街を離れれば、その間も支払いは残る。ただ、近く長く留守にする予定はない。
予定が変わった場合に余分な支払いが生じることと、部屋を確保しておけることを比べれば、前者は許容できる。
双方に利益があるなら、断る理由も薄い。
「一季節でお願いしましょう」
支配人は動かなかった。
「……支配人さん?」
「失礼いたしました」
急いで書類を一枚抜き、署名欄をこちらへ向ける。
「こちらへお願いいたします」
ノエルさんがペンを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
署名する。現用名義を最後まで書き、ペンを返した。
支配人は紙を受け取ると、インクが乾くまで少し待ち、それから折れないよう両手で持ち上げた。
「ありがとうございます、ミセリコルデ様」
「こちらこそ。便利になりますもの」
「はい」
そこでようやく、支配人の肩から力が抜けたように見えた。襟元へ手は行かなかった。
「それでは、改めまして。今後とも銀の三日月亭をよろしくお願いいたします」
「ええ。よろしくお願いいたしますわ」
今度こそ階段へ向かう。
途中で一度振り返ると、支配人はまだ契約書を持っていた。
ノエルさんが何か言う。支配人が答える。内容までは聞こえなかった。
四階まで上がり、廊下の端まで歩く。401号室の扉は、昨日までと同じだった。
鍵を入れ、回す。
中の家具も、机も、窓も変わっていない。明日も使える。来月も使える。
その先まで、今度は確認しなくてよい。
鞄を机へ置いた。
夕食までは、まだ時間があった。