二杯目
問診票を鞄へ戻した。
今回も、ロゼさんの状態に前回から変わったところはない。確認すべき項目は確認し、増やす必要のある質問もなく、次回までの間隔を一週間のままにして差し支える材料もなかった。そこで問診は終わった。
鞄は閉じない。
「それで」
机の向こうへ目を戻す。
「今日は、何をなさるのでしたか」
「お茶」
ロゼさんは待っていたように立ち上がった。
机の端には、問診が始まる前から置かれていたものがある。まだ茶の入っていないティーポット。その横には細身の湯差しがあり、伏せたカップが二つ並び、小皿には、縁の焼けた薄い菓子が五枚重ねられていた。
今までにも茶は出た。
問診の途中でカップを置かれたこともある。警備部門へ届いた甘味が余れば、一つ二つ分けてもらうこともあった。それらは問診の時間の中へ収まっていて、質問の合間に飲み、書き終える頃には冷めているような茶だった。
今日は、まだ何も始まっていない。
ロゼさんはティーポットへ湯を少し注ぎ、内側を温めるように一度まわしてから捨てた。
次に茶葉を入れる。
「ここ、茶葉まであるのですね」
「あるよ。私物だけど」
「なるほど」
湯差しから、今度は捨てない湯が注がれる。ポットの中で茶葉が沈み、蓋が閉じられた。
けれど、すぐには注がなかった。
ロゼさんは椅子へ戻る。
「待つんですか?」
「待つよ」
「何分ほど?」
「そんな正確に計ってない」
色を見る方が早い。そう言おうとして、やめた。
ロゼさんが何もせずに待っている。
ならば、こちらも待てばよい。
机の上には、つい先ほどまで問診票があった。
その紙はもう鞄の中にあり、代わりに二つのカップと、まだ満ちたままのポットがある。湯の中で何が起きているかは外からは見えない。それでも、待てば茶になるらしい。
「この前、図書館で何見てたの?」
ロゼさんが訊いた。
「古い地方誌です。食文化について調べていました」
「食文化?」
「ええ。ある記述が、年代によって急に消えていましたので」
「何が?」
「祭礼日に食べる菓子です」
「お菓子だったんだ」
ロゼさんの目が小皿へ移る。
「これじゃないよね」
「少なくとも、記述とは一致しません」
「残念」
「なぜです?」
「ちょうどよかったのに」
何にちょうどよいのかは分からない。
ただ、ロゼさんが一枚取ったので、わたくしも一枚取った。
薄い焼き菓子は縁の方が濃く焼け、中央へ行くほど色が淡い。二つに割ると、見た目よりも中は柔らかかった。
指先に残った細かな屑を皿の上へ落としているあいだに、ロゼさんがティーポットへ手を伸ばした。
茶が注がれる。
一杯目は色が濃く、立つ香りも強かった。
「苦くない?」
「この程度でしたら」
「よかった」
ロゼさんは自分のカップにも注ぎ、それからポットを持ち上げた。中には、まだ二杯目を考えられるだけの重さが残っている。
茶を飲みながら、地方誌の話を続けた。
作られなくなったのか、作られていても書かれなくなったのか、今のところ、そこまでは分からない。
「じゃあ、作らなくなったってこと?」
「その可能性はあります。ただ、記録されなくなっただけかもしれません」
「どっち?」
「まだ分かりません」
「分かんない話をずっと調べてるの?」
「分からないので調べています」
「あ、そっか」
ロゼさんはそれで納得したらしく、茶を飲んだ。
追加
話しているあいだに、カップの中の茶は少しずつ減った。
小皿の菓子も、気づけば三枚になっている。
一杯目を飲み終える頃には、最初ほど強かった香りも、空になったカップの縁にわずかに残るだけになっていた。
ロゼさんがティーポットの蓋を開けた。中を覗く。
そして、隣に置いてあった細身の湯差しを取った。
「足すのですか?」
「うん。薄くなるけど、まだ飲めるから」
新しい湯が、使った茶葉の上へ注がれていく。減っていた水位はふたたび上がる。けれど茶葉は増えない。
最初と同じポットに、最初と同じ茶葉があり、その上へ湯だけが足された。
蓋が戻される。
「もう一杯いる?」
断る理由はなかった。
「いただきます」
二杯目は、一杯目より色が淡かった。
口にすると渋みも弱く、香りも奥へ退いている。同じ茶葉から出たものだから味の方向は変わらない。
ただ、同じ濃さではない。
「こっちの方が飲みやすい?」
「一杯目も問題ありませんでした」
「問題あるかどうかじゃなくて」
ロゼさんがこちらを見る。
「どっちが好き?」
カップへ目を落とした。
もう一口飲む。一杯目の方が香りは強かった。二杯目は薄い。その分、口に残る渋みも少ない。
「こちらでしょうか」
「そっか」
ロゼさんは、それ以上理由を訊かなかった。
自分のカップを取り、同じ二杯目を飲む。
それから話題は、図書館の古い祭礼から警備部門の新しい職員へ移った。
保管庫の鍵を二度確認する癖がついた人がいるらしい。一度閉め忘れたからではなく、初日に先輩から確かめるよう言われ、その日から一回目の確認のあと、もう一度手を戻すようになったのだという。
「一回で確認できているなら、二回目は不要では?」
「そうなんだけどね」
「なら、一回へ戻せばよいのでは」
「本人が安心するんだって」
「確認回数を増やすことで?」
「そう」
効率は落ちる。ただ、その遅れはロゼさんが止めるほどではないのだろう。
保管庫の鍵を一度余分に確かめる程度なら、本人がそれで手順を終えられる方を選んでも、仕事全体には大きく響かない。
そこで、次回の日程をまだ伝えていなかったことを思い出した。
次
「次回ですが」
ロゼさんがカップから目を上げる。
「今回も状態に変化はありません。次も一週間後で問題ないでしょう」
「うん」
返事はすぐに来た。
変更する材料もない。それで決まりだった。
ロゼさんはカップに残っていた茶を飲み、それを置いてから訊いた。
「その日も、今日くらい時間ある?」
「診察後ですか?」
「うん」
一週間後の予定を思い出す。その日の問診より後には、今のところ決まった用事はない。
「空いています」
「じゃあ、また何かしよう」
「何をなさるかは、もう決まっているのですか?」
「まだ」
「まだ?」
「これから考える」
何をするか決まっていないのに、そのための時間だけを先に取るらしい。
仕事なら、似た形はある。前後の予定が動く可能性を考えて空白を残したり、何か起きた場合に使える時間として確保したりする。けれど、これは何かが起きることに備える時間ではない。
「どの程度、空けておけばよろしいですか?」
「今日くらい」
今日くらい。机の上へ目を戻す。
最初に五枚あった焼き菓子は、あと一枚になっていた。
ティーポットを持ち上げると、最初とは比べられないほど軽い。途中で一度、湯を足している。それでも、もう中に残っている量は多くない。
「今日くらい、ですか」
「長かった?」
「いえ」
長さを確かめてみる。
問診よりは長い。それは当然だった。
「では、そのように」
ロゼさんが最後の焼き菓子を取り、中央から半分に割った。
「半分いる?」
「いただきます」
差し出された方を受け取る。
半分になった菓子は、最初に一枚取ったときよりずっと小さい。それでも食べ終えるまでには、少し時間がある。
差し湯した茶も、最後にはカップ一杯ずつには足りなかった。
ロゼさんがポットを傾け、残った分を二つのカップへ分ける。
わたくしの方が、わずかに多い。指摘するほどの差ではない。
飲み終える頃には、茶はもう熱くなかった。
最初の一杯にあった強い香りも、二杯目で薄くなった渋みも、最後にはどちらも静かになり、カップの底に残る色だけが、まだ同じ茶であることを示していた。
ポットを傾けても、底に残った数滴は注ぎ口まで届かない。ロゼさんは、もう湯を足さなかった。
「じゃあ、一週間後」
「ええ」
カップを置く。
鞄を膝へ引き寄せた。問診票は、最初に戻した場所へそのまま収まっている。
金具を合わせる。
今度は閉じた。