何もしない午後

目を覚ましたときから、身体が重かった。
どこかが痛むわけではない。熱もない。喉も、頭も、腹も、ひとつずつ確かめれば異常は見当たらなかった。
ただ、寝台から起き上がって、服を替えて、階段を四階分下り、その先で一日を始めるという一連の手順を考えると、どれにも等しく魅力がなかった。

休日でよかった。そうでなければ、たぶん起きていた。
起きられないほどではない、というのが、こういう日にはいちばん始末が悪い。

枕から頭を上げ、しばらくその姿勢を保ってみる。問題ない。上体を起こす。これも問題ない。足を床へ下ろせば、おそらく立てる。
だから、また横になった。

自分の身体ながら、ずいぶん控えめな性能である。
百年以上付き合っていれば、もう少し使い方にも習熟してよさそうなものだが、習熟した結果が「今日は使わない方がよい」という判断なのだから、あまり誇れる話でもない。

北側の窓は朝から明るさだけを入れていた。陽は差さない。西側も、まだ隣家の壁と屋根が薄い灰色をしているだけだった。
枕元には、昨夜閉じた本がある。手に取った。3ページ読み、1ページ戻った。
もう一度読む。
文字は読める。文意も取れる。知らない語もない。
それなのに、段落を一つ越えるたび、前の段落が妙に平らになって残った。何が書いてあったかと問われれば答えられるが、次のページへ進むための勢いがない。
本を閉じた。

読書まで身体能力だったとは知らなかった。


目を閉じてみる。
眠気は来なかった。
身体だけが寝台へ沈み、頭は妙に明るい。今読んだページの文章も、昨夜考えていたことも、今日が休日であることも、どれも必要以上にはっきりしている。

眠れないなら起きればよい。起きたくないなら眠ればよい。
その二つの間に、ずいぶん居心地の悪い場所があるらしい。


目を開けると、従者がいつもの位置に立っていた。こちらを見ている。
「主人」
「起きています」
「確認」
「何をです?」
「状態」

いつもどおりだった。

「異常はありません。今日は、あまり身体を使いたくないだけです」


従者はしばらくこちらを見た。
「外出」
「しません」
「了解」

それで問診は終わった。


従者は扉の施錠を確かめ、それから作業用の小さな卓へ向かった。
布と油、工具が出される。

今日が何曜日だったかを考え、すぐに分かった。
「整備の日でしたか」
「肯定」
「どうぞ」
「感謝」

それ以上、話すこともない。

従者が自分の身体を手入れする光景は珍しくない。
全身を拭き、関節へ油を差し、装甲と骨格を確かめ、剣を研ぎ、衣服の傷みを直す。何度も繰り返してきた手順で、わたくしが見ている必要もなければ、従者が見せる必要もない。

布が金属の上を行き来する気配を聞きながら、もう一度目を閉じた。
やはり眠くはならなかった。

渇き

しばらくして、紅茶が欲しくなった。

「従者」

布を置く気配がした。

「紅茶をお願いします」
「了解」


いつもなら、卓へ座る。椅子を引き、背を起こし、器を正面へ置く。
人前であれば持ち方にも置き方にも順序があり、たとえ一人でも長年染みついた所作はそう簡単には消えない。

今日は、その一式をする気にならなかった。寝台の頭側へ枕を重ね、半分だけ身体を起こす。

従者が持ってきたのは、取っ手のある厚手の器だった。
受け取る。
黒い茶の表面から湯気が上がっている。蜜も乳も入っていない。鼻先へ近づけると、深く発酵した茶葉の渋い香りがした。
両手で持って、一口すする。

こういう飲み方を、昔の家で見られたら何と言われるだろう。少なくとも褒められはしない。
背を半ば寝台へ預け、髪もまだきちんと整えず、器を受け皿にも載せずに両手で抱えている。

喫茶の作法を一通り教え込まれた人間の姿としては、かなり出来が悪い。けれど、ここには従者しかいない。

従者はもう作業へ戻っていた。ならば問題はない。

二口目は、もう少し深く飲んだ。熱い。それでようやく、朝から薄く冷えていた指先が器の温度を拾った。
窓の外にはまだ陽がない。北側の光は変わらず均一で、西側の窓には隣家の屋根が見える。
狭い部屋の中では、寝台が大半を占め、その向こうに小さな卓があり、従者はそこで自分の腕を拭いていた。暗色の装甲から布が離れ、また触れる。
そこまで見て、茶へ目を戻した。


飲み終える頃には、表面の湯気はほとんどなくなっていた。
器をナイトテーブルへ置く。
もう一度、本を取った。開く。
先ほどのページを飛ばして、その続きを読む。
2ページ進んだところで、同じ行を二度読んでいることに気づいた。
閉じた。

本日の知性は営業しているが、受付だけらしい。

寝台へ戻る。

従者の方から、小さく金属の触れ合う音がした。
顔を向けると、もう布は畳まれていた。片腕を曲げ、関節へ油を差している。拭き掃除がいつ終わったのかは見ていない。
それで困ることもない。

枕へ頬を戻した。

きしみ

目を閉じる。
眠らない。
開く。

何もすることがない。

こうしていると、身体が重いという感覚にも種類があることが分かる。
病み上がりのように四肢へ力が入らないわけではなく、術を使いすぎた後のように頭の奥が鈍るわけでもない。ただ、動かそうと思えば動く身体が、動かすたびに小さな勘定を要求してくる。
起きるなら、この分。
着替えるなら、もう少し。階段を下りるなら、その先まで。支払えないほど高くはない。
今日は払いたくない。

ずいぶん贅沢な虚弱である。休日という制度は、こういう用途にも使えるらしい。

寝返りを打つ。
毛布の端が脚へ絡んだので、足先で押しやる。少しして冷えたので、また引き寄せた。

その間にも従者の作業は進んでいた。
次に顔を向けたときには、油の瓶は閉じられ、工具がいくつか卓上へ並んでいる。胸当てを外した下から、金属の骨格が覗いていた。傷を確認しているらしい。
それも見慣れている。
細い線を指で辿り、継ぎ目を確かめ、角度を変える。異常があればそこで手が止まるし、なければ次へ移る。
今日は止まらなかった。

視線を窓へ戻す。雲の色が朝より白くなっていた。
昼になったのだろう。空腹はあまりない。

紅茶なら、もう一杯飲めそうだった。

「従者」
「主人」
「もう一杯、お願いします」
「了解」

今度は起き上がることすらやめた。枕を一つ増やしてもらい、肩から上だけを起こす。
受け取った器を腹の上へ置こうとして、熱いのでやめる。両手で持つ。

「……あまり見栄えはよくありませんね」

従者がこちらを見る。
「わたくしです」

返事はすぐには来なかった。質問として処理できなかったのかもしれない。


「問題なし」
「そうですか」

なら、問題なしということにしておく。

口元へ器を運ぶ。
礼法上の正しさでいえば、寝台の上で半ば横になったまま紅茶を飲む時点で、細かな所作を論じる意味はほとんどない。それでも、こぼさない程度には慎重に飲んだ。さすがに寝具を茶で染めれば、虚弱ではなく粗忽である。
そこは区別しておきたい。

従者は給仕を終えると、また卓へ戻った。
いつの間にか、傷の確認も終わっていた。

ゆるみ

砥石を使う音は、布より分かりやすかった。
一定の間隔で、刃が石の上を通る。途中で止まり、また始まる。

聞こうとしなくても、狭い部屋では耳に入る。

わたくしは器を持ったまま、西側の窓を見ていた。
丘に遮られていた光が、ようやく屋根の上へ届き始めている。この部屋に陽が入る時間は短い。西側の窓から差した明るさが床の端へ落ち、少しずつ寝台の脚に近づいてきた。

砥石の音は続いている。
光は床を進む。
紅茶は減る。
それぞれ勝手に進んでいて、わたくしだけが寝台の上に残っていた。別に取り残されているわけではない。
今日の予定が、最初から何もないだけだ。

一口飲む。
先ほどより茶がぬるい。

もう一口。
器の底が軽くなっている。

砥石の音が止まった。しばらくしてからそちらを見ると、レイピアはもう卓の上になかった。
従者は深緑の装束を膝へ広げていた。針に糸を通している。どの部分を繕っているのかまでは見えない。
整備は順調らしい。
それだけ分かれば十分だ。

空になった器をナイトテーブルへ置く。
枕元の本を見る。読む気にはならない。
目を閉じる。眠気もない。

仕方がないので、そのまま何もしないことにした。


天井には特に見るものがない。

窓から入った明るさは、目を閉じても薄く分かる。
部屋の向こうでは、従者が布を扱い、糸を引き、必要なところで手を止める気配がする。
それはわたくしが起きていても、眠っていても、おそらく同じように進んだ。

十年前から何度も見てきた。
旅先の宿でも、借りた部屋でも、野営の合間でも、必要な道具と場所があれば、従者は自分の身体と装備を順に整えてきた。
わたくしも、その間に本を読んだり、仕事をしたり、眠ったりしてきた。
今日は、そのどれもしていない。違うのはそれだけだった。

整う

西から入った光が寝台の脚を越え、毛布の端まで届いた。

目を開けると、そこだけ色が明るい。
手を伸ばせば触れそうな位置にあるが、別に触る必要もない。
また目を閉じた。


少しして、部屋の中から細かな音が減っていることに気づいた。針を置く音も、布を動かす気配もない。
顔を向ける。
卓の上から工具が消えていた。油も、砥石も、布もない。
従者は深緑の装束を整え、レイピアを腰へ戻し、いつもの姿で立っていた。
朝からずっとそこにいたのに、整備が終わると、急に元へ戻ったように見える。

「終わりましたか」
「完了」
「問題は?」
「異常なし」
「そうですか」

それならよい。
従者は最後に卓を確かめ、小型キャビネットを閉じた。そして寝台と扉の間へ戻った。いつもの位置。
わたくしも、まだ寝台の上だった。

朝と比べて、何かを成し遂げたわけではない。
本は少し。紅茶は二杯。睡眠はなし。
今日の成果として並べれば、なかなか惨憺たるものだった。
まあ、休日である。成果を提出する相手はいない。

従者がナイトテーブルへ目を向けた。
「片付け」
空になった器を示している。

少し考えた。

「それはお願いします」
「了解」

器が取られる。従者が卓へ器を運び、戻ってくる。

わたくしは毛布を肩まで引き上げた。

「主人」
「はい」
「休息、継続?」

窓の光は、もう寝台から外れ始めていた。
本を読む気は、まだしない。眠くもない。
外へ出る理由もない。

「ええ」
枕へ頭を戻す。
「もう少し、このままでいます」

「了解」
従者はそれ以上何も言わなかった。扉との間へ立ち、いつものように部屋にいた。

西の窓から入る光だけが、先ほどより少し細くなっていた。