空欄
問診票を一枚戻した。
その前も、変わらない。さらに一枚。睡眠、食事、眩暈、頭痛。どの欄にも、前回との差として拾うほどのものはない。
一週間空けて、同じだった。その前も一週間。その前も。
紙を元の順へ戻し、角を揃える。
「何か、ご自身で気になったことはありますか」
「ううん。特にはないよ」
ロザリンさんは椅子へ深く座ったまま答えた。
「疲れやすくなったとか、眠りが浅くなったとか」
「ないかな。最近はよく寝てる」
「食欲は」
「普通。ミルに食べすぎって言われたくらい」
問診票へ最後の印を入れる。
最初の頃は数日のあいだにも変化があり得た。間隔を空けてからは、その間に何も起こらないことを確かめる必要があった。
今は一週間空けても変わらない。それを何度か確認した。
同じ条件を重ねる意味も薄い。
問診票を閉じた。
「では、定期的な確認は今回で終えてよいでしょう」
「うん」
返事はいつもと同じだった。
鞄へ書類を戻そうとする。
「次はいつ?」
手を止めた。
「次、ですか」
「うん。再来週?」
一週間ではなくなった、と受け取ったらしい。
「いいえ」
書類を机へ戻す。
「次回の予定は取りません。状態は十分に安定しています。今後は何か変化があったときに連絡してくだされば、それで問題ないでしょう」
ロザリンさんは何も言わなかった。
「一週間空けても変化はありませんでした。それも複数回確認できています。定期的に診る必要はありません」
「……ないの?」
「ええ」
「月に一回とかも?」
「必要ありません」
答えると、ロザリンさんの指が机の上で止まった。
次回の日付を書くとき、いつもこちらへ寄せられていた小さな卓上暦がある。今日はまだ動いていない。
「嫌」
次に続けるはずだった言葉が、一つ抜けた。
「何がでしょう」
「終わるの」
「何か、まだ気になる症状がありますか」
「ないよ」
返事はすぐだった。
「でしたら、何か伝えていない変化が」
「それもない」
「では」
続きが出なかった。
症状はない。一週間空けても変化はなく、本人もそれを認めている。それなら、定期観察を続ける理由はない。
ロザリンさんが卓上暦へ手を伸ばした。紙を一枚送る。薄い紙が擦れた。
「でも、急に何かあるかもしれないでしょう?」
「その可能性を完全に無くすことはできません。ですが、異常があれば、その時点で知らせてください。それで足ります」
暦を送っていた指が止まった。
「それじゃ駄目」
今度は即答だった。声が大きくなったわけではない。椅子から立ったわけでもない。
ただ、撤回する気配がない。
こちらが治療について何か決めたとき、ロザリンさんは質問することはあっても、拒まなかった。
間隔を空けるときもそうだった。薬も処置も、観察の手順も。
嫌だと言われたことは、一度もない。
「治療上、定期確認を続ける理由はありません」
「分かってる」
「では、なぜ」
ロザリンさんは答えなかった。
卓上暦の同じ場所を見ている。
「ロゼさん」
「分からない」
今度の返事は小さかった。
「でも、終わりは嫌」
もう一度、現在の状態を確かめる。
顔色に問題はない。呼吸も普段通り。受け答えは明瞭で、質問への理解にもずれはない。
隠している症状を疑わせるものも拾えない。
「定期的な診察は、ここで終了します」
「だめ」
問診票から目を上げた。
「診察を続ける理由はありません」
「じゃあ、診察じゃなくていい」
「……はい?」
「診察じゃなくていいよ」
ロザリンさんが暦から顔を上げた。
「何も診なくていい。質問もしなくていいから」
「では、何をするのでしょう」
診察でなければ、ここへ来る用件がない。
ロザリンさんは少し考えた。
「お茶でも飲めばいいし」
「お茶」
「話すだけでもいいよ。この前の公演の話とか。本の話とか」
一つずつ増える。
どれも、わたくしがここへ来なければならない理由ではなかった。
「それなら、わざわざ定期的に予定を取る必要は」
「来週も来てよ」
遮られた。
「来週、ですか」
「うん」
「診察はしませんよ」
「いいよ」
「状態確認も」
「しなくていい」
「来館する治療上の理由は、もうありません」
「分かってる」
診察ではない。
そこから先が分からない。
「わたくしに、来週もここへ来てほしい、ということですか」
「そう」
今度は迷わなかった。
理由を待つ。
続きはない。
「……来週である必要はないと思いますが」
そう言うと、ロザリンさんの手が卓上暦の端を押さえた。
また黙る。
来週の予定を思い出す。
公演は二日後。その翌日に一件。
あとは急な依頼が入らなければ空いている。
「来週でも構いません」
ロザリンさんの手が暦から離れた。
「本当?」
「ええ。ただし、診察ではありません」
「うん」
「問診票も使いません」
「うん」
ずいぶん素直な返事に戻った。
鞄を開く。閉じた問診票を入れた。
いつもなら、その前に次回の日付を書く。今日は書かない。
「では、一週間後に」
「うん。待ってる」
問診票の次回欄は、空いたままだった。