奥の書架
ロゼさんの経過確認は、今日は十分ほどで終わった。
尋ねることを尋ね、前回との差がないことを確かめる。
本人はまだ何か話したそうにしていたけれど、経過観察として残る用事はなかった。
外へ出ても、まだ帰るには早い。
そこで図書館へ寄ることにした。
この国の正式な典礼は、もうひととおり確認している。
挨拶、訪問、祝事、弔事。普通に暮らすぶんには困らない。
むしろ残るのは、正式な礼法からは落ちているのに、土地の人だけが当然のように覚えているもの。
知らずに済むならそれでよい。まだ残っているなら、知らないまま繰り返すのはよろしくない。
図書館なら、そのあたりも確かめられるだろう。
入館
王立図書館は、本館から離れて建っていた。
一階へ入る。
受付があり、返却棚があり、その向こうに閲覧机が並んでいる。
一冊だけ開いている人。
二、三冊を抱えて歩く人。
棚の場所を司書へ尋ねている人。
混雑していない。歩きやすくていい。
土地の風習をまとめた棚へ向かう前に、新刊を並べた一角が目に入った。
国外で出版された、この国についての本だった。
有名な建築や王宮を紹介するものではない。地元の人間しか使わない路地、観光客がわざわざ見に行かない場所、今でも残る妙な習慣。そうしたものばかりを集めている。
横には、図書館からの紹介が添えられていた。
「国外で刊行された当地の紹介書としては非常に精確であり、当館で確認した範囲では重大な事実誤認はほぼ認められない」とある。
推薦というより、鑑定結果に近い。
手に取った。
新しい紙にはまだ張りがあり、ページを送った指を離すと、何枚かが元へ戻ろうとした。
宿屋、古い井戸、市場の裏手にある小さな祠。地元の人しか呼ばない坂道の名前。知らなくても一向に困らない話が続く。
土地を知るには、こういう本にも役目はある。
ページを送っているうちに、菓子の挿絵が目に入った。
平たい生地で中身を包んだ、小さな菓子だった。
ペルネペルネ。
名前を見てから、形をもう一度見る。
見覚えがあった。菓子屋だったか、土産物を扱う店だったか。箱に同じ名前が書かれていた。土地の名物として売られていて、安いものではなかったはずだ。
今では名物菓子として知られるペルネペルネも、以前は各家庭で日常的に作られていた、とある。
茶請けにする。人を訪ねるときに持っていく。
祝いの席にも持っていく。弔いの席にも持っていく。
特別な日の菓子というより、生活の中にあるものが、そのまま特別な日にも持ち込まれていたらしい。
祝いにも弔いにも同じ菓子を持っていったのなら、持っていき方まで同じだったのだろうか。
本文にはない。参考文献には、古い礼法書が二冊挙がっていた。
本を戻し、受付へ向かった。
「失礼。こちらの参考文献を見たいのですけれど、どちらにございます?」
司書は書名を確認した。
「古い礼法関係でしたら、二階の公開書架です。年代別に並んでいます」
「助かります」
「さらに古い原本と一部の研究資料は特別閲覧になりますので、その場合は別に申請をお願いします」
「ええ。まずは公開されているもので十分ですわ」
上へ
階段を上がった。二階にも人はいた。
ただ、奥へ進むほど空席が増えた。
一階では人の話し声も混じっていたが、こちらでは会話がほとんどない。離れた机から椅子を引く音が来て、そのあとにはページを返す音だけが残る。
人が減る代わりに、一人の前にある本の数は増えていた。
棚の前に、学生らしい人がいる。
二冊を片腕に抱え、三冊目を途中まで抜いている。
背表紙を見る。
開く。目次まで進む。戻す。
数歩先へ移り、別の本を取った。
その近くには、長いローブを着た人がいた。
本を抜き、索引を見る。戻す。
横歩きで隣に移る。
別の本を抱えたまま戻ってきて、棚から引き抜き、開いた。
さらに奥の机では、何冊も広げた人が席を立ち、新たな本を取って戻っていく。
一階では、本を取った人は席へ向かった。
こちらでは、棚から出た本が席まで行けるとは限らないらしい。
さらに上へ続く階段の前には扉があった。
そちらへ向かった人が、脇の係員へ何かを見せる。確認が済むと扉が開いた。
特別閲覧室はこちらなのだろう。
今回の用事には関係がない。案内だけ見て、公開書架へ戻った。
最初に探していた礼法書はすぐ見つかった。
背には何度か補修した跡がある。綴じの近くまで開くと、新刊のようにページが押し返してこない。紙は厚く、縁には指にかかるわずかな粗さが残っていた。
目次を開く。
弔問。持参品。食物。菓子。
項目が細かい。
ペルネペルネも普通に載っていた。名物でも郷土品でもない。
持参する菓子の一つとして名前があり、弔事の場合には包みに使う柄まで指定されている。
やはり違いはあった。
ただ、この本の作法を今も守る必要があるかは別になる。
隣の棚から、次の年代を取った。
同じ項目がある。ペルネペルネもいる。が、包みについての記述は短い。
戻す。次。
持参品の項目はあるが、料理類と大ざっぱにまとめられているだけ。
次。
食物についての解説が減る。
代わりに、服装や訪問の時間についての記述が伸びている。金銭を包む場合の説明が増えていた。
年代を上げるにつれ、紙も少しずつ薄くなった。補修の跡が減り、印刷も揃っていく。その一方で、目次から食物に関する言葉が減っていった。
刊行年を見る。
戻す。
次を取る。
途中から、従者へ本を渡すようになった。
「これをお願いします」
「了解」
もう一冊。
「こちらも」
「了解」
年代を上げる。
引き抜いて、目次を見る。
必要なページを確認する。
戻す。
次を取る。
ない。
弔問の項目はある。
服装もある。金銭の包み方もある。遺族へ挨拶するときの順序もある。
けれど、持参する料理についての項目がない。菓子もない。
本文にも、ペルネペルネは出てこなかった。
その次の年代にもない。
さらに新しいものにも。
包みの柄だけが消えたのではないらしい。
料理を包む機会そのものが先になくなった。
ならば、現在の弔問で気にする必要はない。
それで足りる。
本を戻そうとして、刊行年が目に入った。三十年ほど前。
その前に確認した本とは、十年以上離れている。
いつ消えたのかまでは分からない。
知る必要もない。
棚を見る。ちょうど間の年代の本があった。
取った。
目次を開く。持参品の項目は、まだ残っていた。
「……これもお願いします」
従者へ渡した。
先ほどの学生が、まだ棚の前にいる。
複数冊を抱えながら、別の本を開いている。
こちらも次の一冊を取った。
その本の参考文献に、別の書名があった。
出版年を確認する。
向こうの棚にある年代だ。
従者に預けた本が何冊になったのかは、数えなかった。
人に向ける言葉も、ほとんど必要なかった。
誰もこちらへ話しかけない。学生は自分の目次を見ている。ローブの人は索引を見ている。
司書も、ときどき棚の間を通るだけだった。
何者なのか尋ねられない。何をしているのか説明もしない。
本を取る。読む。違えば戻す。
足りなければ、次を取る。
それだけで時間が進んだ。
最初に知りたかったことは、もう済んでいた。
閲覧席へ戻る。
従者が後ろから来て、抱えていた本を椅子の横へ置いた。
一冊。
もう一冊。
その上へ、さらに一冊。
揃った背が、思っていたより高い。
小さな壁のようだった。
少し笑った。
椅子を引いて座る。
いちばん上の本を手元へ取り、開いた。