三枚の置き場所
翌朝、グレーテさんを見つけたのは三階だった。
開いた客室の前に籠を置き、片手に畳んだシーツを抱えている。
こちらを見ると、空いた手を上げた。
「おはよう、お客さん。今日は早いのね」
「おはようございます。グレーテさん、少々ご相談したいことがあるのですが」
シーツを抱えた腕が止まった。
「なに?」
「お時間はありますか」
「今?」
「難しければ、後ほどでも」
「いいわよ。ここ終わったら行くから。部屋で待ってて」
「ありがとうございます」
それだけ伝えて、四階へ戻った。
机の上には、昨日残した三枚がある。
他の物は片づいた。衣類は布へ。予備の品はそれぞれの包みへ。従者へ渡す物は荷へ分け、持ち歩く物は鞄へ戻した。
三枚だけは、そこに残った。
重ねる。端は揃う。
揃えても、行き先は増えない。
相談
やがて扉が叩かれた。
「はい」
「来たわよ」
グレーテさんを入れる。
彼女は部屋へ入るなり机を見た。三枚の上で目が止まり、それからこちらを向く。
「それ?」
「はい」
「何か汚した?」
「いいえ」
「破れた?」
「それもありません」
「じゃあ何?」
一番上の一枚を取った。
公演の半券だった。
「こちらなのですが」
差し出す。
グレーテさんは表を見て、一度裏返し、また表へ戻した。
「……半券ね」
「はい」
「これがどうしたの?」
「処分しても問題ないでしょうか」
グレーテさんが顔を上げた。
「捨てたいの?」
「現在、使用する予定はありません」
「そりゃ使えないでしょ。半券なんだから」
「ええ」
「じゃあ、いらないなら捨てれば?」
「そのように考えたのですが」
そこで言葉が止まった。
グレーテさんは半券を持ったまま待っている。
「捨てなかったのね」
「昨日は」
「なんで?」
「それが分からないので、ご相談しています」
「そこをあたしに聞くの?」
返事に困った。清掃について判断を求める相手としては、間違っていないと思う。
グレーテさんはもう一度半券を見た。
「面白かった? これ」
「公演ですか」
「そう」
「ええ。構成にもいくつか興味深い点がありました」
「なら取っとけばいいじゃない」
「ですが、もう使いません」
「だから、使うために取っとくんじゃないでしょ」
半券が返ってきた。
机へ置く。
「……使用しない物を保管しても構わないのですか」
「構わないも何も、あんたの物でしょ」
「そうですが」
「部屋じゅう半券だらけなの?」
「いいえ」
「じゃあいいじゃない」
判断が早い。
半券を見る。紙一枚で、厚みもほとんどない。保存に特別な設備も要らない。少なくとも、保管によって新しく生じる問題は見当たらなかった。
「では、こちらは」
二枚目を取った。
グレーテさんの眉が上がった。
「まだあるの?」
「三枚です」
「三枚も相談するの?」
「昨日、判断できなかったものが三枚ありましたので」
「律儀ねえ」
二枚目も渡す。今度は裏返しもしなかった。
「これも捨てるか迷ってるの?」
「はい」
「汚れてないわね」
「はい」
「虫も食ってない」
「そのようです」
「邪魔?」
「この大きさですから、単独ではほとんど」
「なら置いとけば?」
一枚目と同じ結論になった。
「価値については確認しなくてもよいのでしょうか」
「売るの?」
「その予定はありません」
「なら別にいいじゃない」
「用途は」
「ないんでしょ?」
「ありません」
「じゃあ、取っとくか捨てるかだけでしょ」
そう言って、二枚目も返された。
机の上に並べる。
価値が分からなければ調べればいい。用途が分からなければ来歴から当たりをつけられる。危険性があれば隔離する。これは、どれでもない。
「最後は?」
先にグレーテさんが言った。
「こちらです」
「ほんとに最後ね?」
「はい」
三枚目を渡す。彼女は受け取って眺めた。
「これも?」
「ええ」
「捨てたくないんじゃない?」
すぐには答えられなかった。
捨てる動作そのものに問題があるわけではない。
紙である。破れば破れる。燃やせば燃える。廃棄するなら、他の紙類と同じ方法で構わない。
「……その判断がつきません」
「捨てたい?」
「使いません」
「それはさっきから聞いてる」
グレーテさんが三枚目を机へ戻した。
「捨てたいの?」
もう一度訊かれる。
三枚を見る。
昨日も同じ位置で止まった。箱へ戻せる物は戻した。包みへ戻せる物も戻した。鞄へ戻す物も決めた。
この三枚だけ、手に取ったあとで机へ戻した。
「分かりません」
「じゃあ捨てなきゃいいじゃない」
「よろしいのでしょうか」
「だから、なんであたしに許可取るのよ」
笑われた。
グレーテさんは三枚を指先で寄せた。
「場所取る?」
「ほとんど取りません」
「臭う?」
「いいえ」
「腐る?」
「紙ですから、通常の環境で急にということは」
「掃除の邪魔?」
「今のまま机に置けば、いずれは」
「じゃあしまえばいいでしょ」
「しまう場所がありません」
「ないの?」
「元々置かれていた場所へは戻せます。しかし、それでは昨日と同じ状態になります」
「じゃあ別のとこ」
「適切な場所がありません」
グレーテさんが室内を見回す。
ベッド、小型のクローゼット、その下のトランク。最後に、テーブル脇のキャビネットを見る。
「箱は?」
「箱?」
「こういうの入れとく箱。ないの?」
「そのための箱はありません」
「そんな細かく分けなくていいのよ」
グレーテさんが笑った。
「ちょっと待ってなさい」
部屋を出ていく。
扉が閉じた。
三枚を見る。椅子へ座るほどでもないので、そのまま待った。
ほどなくして足音が戻ってきた。
「これでいいでしょ」
グレーテさんが持ってきたのは、小さな平箱だった。何かの備品が入っていたらしい。蓋の一角に薄い擦れがあり、底にも使用跡がある。持ち上げると軽く、壊れた箇所もない。
「不要になった箱よ。捨てるつもりだったから、使うならあげる」
「いただいても?」
「箱にまで許可取るの?」
「ホテルの備品ではありませんか」
「もう空き箱。あたしが捨てるとこだったの」
「でしたら」
机へ置き、蓋を開けた。三枚を重ね、端を揃えて中へ入れる。紙の縁が硬い底を軽く擦った。
周囲にはかなり余白が残った。
「大きすぎますね」
「三枚なんだから当たり前でしょ」
「もう少し小さい物があれば」
「いいのよ。そのうち増えるかもしれないし」
手が止まった。
グレーテさんは気にせず、箱の蓋を指で示している。
「ほら、閉めて」
蓋を下ろす。
縁が一度だけ引っかかり、指で押すと収まった。
「で、置くとこ」
キャビネットを開く。
中には普段使う物がいくつか入っている。奥側には余裕があった。
「ここは?」
グレーテさんが示した。
「出し入れの妨げにはなりません」
「じゃあそこ」
箱を奥へ置き、扉を閉める。机の上には何も残らなかった。
「終わり」
グレーテさんが言った。
「……終わりですか」
「他にあるの?」
「いいえ」
「なら終わりよ」
エプロンの紐を直し、扉へ向かう。
「昨日、一人で掃除したんでしょ?」
「従者にも一部を任せましたが」
「次から、捨てるか迷う物が出たら箱に入れときなさい。机に置きっぱなしだと掃除しにくいから」
「承知しました」
「あんまり増えたら、そのときまた考えればいいのよ」
扉を開ける。
「じゃ、あたし仕事戻るから」
「ありがとうございました」
「はいはい」
「こんなので神妙な顔して呼びに来ないの。何かあったのかと思ったじゃない」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわよ」
そのまま扉が閉じた。
キャビネットを開く。
奥に箱がある。位置にも問題はない。
蓋は閉じたまま、扉を閉じる。
昨日は、三枚だけが元へ戻らなかった。
今日は、戻す必要がなかった。