幕が下りたあと

幕が下りても、拍手はしばらく続いた。

最後に舞台へ並んだ役者たちが、もう一度礼をする。中央のアルメル役が顔を上げた。左右がそれに続く。
よく揃っている。

公演中なら、もう少し別のところを見る。誰が先に息を入れたか、台詞の終わりから次の動作までどれほど置いたか、相手へ視線を渡すのが早かったか遅かったか。

今はもう、役を終えている。


前の列で客が立った。

「参りましょうか」

従者がこちらを向き、首を縦に動かす。

膝の上の演目表を畳み、鞄へ入れた。足元へ立てていた杖を引き寄せる。
杖先を床へ置き、肘掛けへ片手を添えた。
腰を上げる。

そこまではよかった。
立ちきったところで、次に右足を置く場所が分からなくなった。
床は見えている。前の座席も、通路を歩く客も、杖の先も見える。それなのに、目に入っている床の高さが足へ届かない。
一歩が出せない。膝から力が抜けた。

従者の手が肘を受ける。

杖を取り落とす前に座席へ戻った。背もたれへ肩が当たり、身体の重さがようやく一か所へ収まる。

「主人」
「大丈夫です」

目を閉じる。
息は乱れていない。吐き気もない。指先を握れば力は入る。
座っている分には問題ない。

これなら待てば戻る。

「このままで」
「了解」

肘にあった手が離れた。

目を開く。床は先ほどと同じ場所にある。

退場する客が通路へ流れていった。
前にいた夫婦が外套を着ながら席を離れる。隣の列では、年配の男性が椅子の下から手袋を拾い上げた。


数人が前を通ったところで、通路に立っていた係員と目が合った。
係員はそのまま客を一組通し、こちらをもう一度見た。歩いてくる。

「失礼いたします」
若い男性だった。胸元に劇場係員の徽章がある。
視線がわたくしから隣へ移った。
「お連れの方は、大丈夫でしょうか」

「ええ。立ち眩みがしただけですわ」
従者が答える前に返す。

係員の視線がこちらへ戻った。

「しばらく座っていれば治まります。ご迷惑をおかけしますわね」

「いえ。でしたら、急がずそのままお休みください」
係員は座席番号を一度確認した。
「こちらの列は後にいたします。具合が変わりましたら、近くの者へお声掛けください」

「ありがとうございます」
礼を返す。

係員は通路へ戻り、途中でもう一人へ短く話しかけた。相手がこちらを一度確認して頷く。


客の流れはまだ続いていた。
足首を動かす。問題ない。
杖の柄へ指を置いてみる。手にも震えはない。
もう一度立てば、おそらく歩ける。
けれど、出口にはまだ人が集まっている。おそらくで試す理由もなかった。

待つ。


舞台へ目を戻した。幕は閉じている。
客席の照明は、公演中より明るかった。赤い座席も、金の縁取りも、暗がりの中では一続きに見えていたものが、いまは別々の材質へ戻っている。

通路の向こうで、女性の係員が座席を確かめ始めた。座面を上げ、下を見る。
次へ移る。
紙片を拾い、手にした籠へ入れる。
こちらの列へ差しかかったところで曲がり、後ろの空いた列へ回った。

舞台の奥から、何かを引く音がした。人の声が続く。
やがて幕の端が上がり、黒い服を着た二人が大きな板を運び出してきた。
城館の壁だったものだ。正面から見れば石積みだった。横を向くと薄い。傾けて運ばれると、裏側を走る木枠まで見えた。木枠の一本には白い数字が書かれている。下端には、客席からは見えなかった金具と持ち手も付いていた。

あの窓が妙に深く見えたのは、枠を重ねていたからか。

舞台上の灯りも変わっていた。青みを帯びていた床は茶色い板へ戻り、城壁だった板には刷毛の跡が残っている。
石の役を降りれば、板だった。

客席も似たようなものだった。
客が去るたびに赤い椅子が増える。誰かが使っていた座席は、係員が座面を上げれば次の公演を待つ椅子へ戻った。

前方の通路には、まだ何組か客が残っていた。身なりの整った年配の男女を、金髪の男性が順に送り出している。
一人が話すと頷き、隣へ身体を向ける。握手をして一組を送り、次の客へ移った。あちらはまだ仕事中らしい。

回想

舞台へ目を戻す。
床の中央には、もう何もなかった。
そこにいたはずのアルメルも、リシアも、白い衣のエルネもいない。

エルネ。

鞄から演目表を戻した。

有名な役だ。
第一幕からアルメルについて回り、主人公が迷うたびに口を挟む。
王命に従えば妹を失う。妹を助ければ城を失う。何も選ばなければ、夜明けには敵軍が門へ届く。
選べる道と、失うもの。
最後にはアルメルへ決断を促す。今日は、そこにエルネがいなかった。
第二幕の終わりで舞台を去り、戻ってこない。
第三幕の中央にはアルメルだけが立っていた。
アルメルは王冠へ手を伸ばす。途中で止める。妹のいる城へ向き直る。また王冠を見る。
最後にそれを置き、そのまま城へ歩いた。
台詞はない。エルネが喋るはずだった場面は消えている。それでも、王冠へ伸びた手は止まり、妹へ向いた。
台詞の仕事だけが、アルメル役へ移っている。

ページの下に、原典の名が小さく記されていた。
古い物語には、そもそもエルネがいない。
王子はもっと早く選ぶ。王冠を捨て、妹を連れて城を出る。惑わす妖精どころか、迷うことのない男だ。
後の劇作家が妖精を足し、舞台の上で迷う時間を増やした。王子は迷い、足を止め悩む。妖精は決断を迫り、王子は弱音を吐きながら、それでも決断する。

今日の版は、その妖精を外している。それでも、古典ほど早くはない。
原典ほど決断力のある王子ではないが、市中に蔓延る弱々しい少年というほどではない。


「主人」
従者の声で演目表から顔を上げた。

「何でしょう」
「退場?」
「ああ」

足を動かす。床の位置は、もう足にも分かる。

「ええ。大丈夫です」

演目表を閉じて鞄へ入れる。

杖を床へ置く。
立つ。
一呼吸待った。視界も足元も変わらない。

「参りましょう」
「了解」

離席

従者が通路へ出た。

続こうとしたところで、よく通る声が飛んできた。
「今日も来ていたんだね!」

振り向く。先ほど客を送っていた男性がこちらへ歩いてきていた。
近くで見ると、衣服は華やかなのに袖口には細かな繕いがある。
手にも、小さな傷がいくつも残っていた。

男性はわたくしの前で止まる。
「ミセリコルデさん、だったね」
「ええ」
「私はセオドア・ゴールドマン。ここの演劇部門を預かっているよ」

胸へ手を当て、大きく礼をした。
「ミセリコルデと申します」
「うん。名前は聞いている」

ゴールドマンさんはそれ以上を足さず、舞台へ手を向けた。
「それで、今日のはどうだった?」
「面白かったですわ」
「ありがとう!」

返事は早い。
おそらく、ここまでは何人にもしている会話なのだろう。

「第三幕が特に」

舞台を示していた手が止まりかけた。
「アルメルのところ?」
「ええ」
「どこが良かった?」
「エルネを外したところですわ」

今度は、はっきり手が止まった。
「そこを見たか」
「大きな変更ですもの」
「でも、あの役が早く引っ込んだ、で終わる人も多いよ」
「それでは、アルメル役の方がお気の毒ですわ」
「どうして?」
「あの方が、エルネの仕事までなさっていたのでしょう?」

ゴールドマンさんの眉が上がる。
「続けて」
「いつもの版なら、エルネが状況を整理します。王命、妹、城門。何を選べば何を失うか。それから決断を促す」
「そうだね」
「今日は、その説明がありませんでした」
「ない」
「でも、アルメルは王冠へ伸ばした手を一度止めた。妹の扉を見る前に城門を見た。最後に王冠を置くときだけは迷わなかった」

ゴールドマンさんは黙って聞いている。

「ですから、なくなった台詞の仕事を、アルメル役の方へ渡したのかと思いました。迷っていることも、選択肢を量っていることも、最後に自分で決めたことも」
「なるほど」
「場面は短くなりましたけれど、軽くはなっていませんでしたわ。むしろ、最後の一歩は以前よりアルメル自身のものに見えました」

ゴールドマンさんは一度、舞台を見る。城門も王冠もすでにない。

「じゃあ」
こちらへ向き直る。
「エルネは最初からいらなかった?」

「今回の役者さんなら、ですわ」

一拍置かれた。

「素晴らしい!」
両手が上がる。
「そこまで言ってくれるなら、切った甲斐があった!」

「やはり、途中で削られたのですか」
「稽古では残してたよ。エルネ役も上手い。でも上手いからこそ、あの長台詞を残すと客がそっちを聞いてしまうんだ」
片手が舞台へ向く。
「あそこはエルネが正しいことを言う場面じゃない。アルメルが決める場面だろう?」
「ええ」
「それで主演に、台詞なしで持つかと聞いた」
「持ちましたわね」
「持った!」
すぐ答えてから、声量が落ちた。
「でも君の言い方なら、役者が違えば戻す?」
「戻すか、別の手段を考えます」
「即答だね」
「台詞を消しただけで観客に分からなくなるなら、それは簡潔になったのではなく、情報がなくなっただけでしょう?」

ゴールドマンさんの笑みが細くなった。
「そうだね」
「今回は、なくなった内容が舞台に残っていました。だから成立したのだと思います」
「脚本だけを見てるんじゃないんだ」
「舞台を見に参りましたので」

ゴールドマンさんが一度瞬いた。そのあと、笑った。
「まったく、その通りだよ」

舞台では、最後に使われた王冠をスタッフが箱へ収めていた。蓋が閉じる。

「それに」
「まだあるの?」
「原典には、エルネはいませんでしょう?」

ゴールドマンさんの顔から、さきほどまでの大きな笑みが一度消えた。
「読んだのかい?」
「翻訳ですけれど」
「十分だよ。劇版は有名でも、あちらまで読む客は少ない」
「古典では、決断は随分短いですわね」
「短いね。舞台でそのままやると驚くほど早い」
「ですから、今回の版は古典へ戻しただけではないように見えました」
「というと?」
「古典の通りにするだけなら、アルメルももっと早く決めれば済みます。でも、それでは後の劇版が足した重さまでなくなる」

ゴールドマンさんの手は動かなかった。

「今日は、その重さを主役へ残したまま、説明する人物だけを外した。構造は古典へ寄っていますけれど、舞台としては後の劇版を通ったままですわ」

間があった。

「面白いね」
今度の声は低かった。
「私は、古典に戻そうとは考えてなかった」
「まあ」
「三幕が長い。それが最初だったよ」
「では、結果として?」
「結果として、君にはそう見えた」

ゴールドマンさんが舞台を見る。
「でも、その読み方は使えるな。少なくとも、何を残せたかはよく分かる」

意図と結果は同じでなくてもよいらしい。

「第二幕の最後の白枝は?どう思った?」
ゴールドマンさんが不意に訊いた。

「第三幕にも残すのかと思いました」
「稽古では残してた」
「外してよかったと思います」
「どうして?」
「エルネを舞台から消すなら、あの枝だけ残すと、まだ別の意思がそこにあるように見えますもの」
「なるほど」

ゴールドマンさんが指を一本上げた。
「私は、アルメルを完全に一人にしたかった。似てるけど、少し違うね」
「ええ」
「面白い」

そこから質問が一つ増えた。
こちらからも一つ返した。
城門の照明を最後まで青く残した理由。王冠を中央から外して置いた理由。第二幕でエルネの衣装から銀糸が減ったこと。
原典の歌を今回の合唱へ戻した箇所。
ゴールドマンさんは、演出として決めたものには理由を答えた。役者が稽古の中で選んだものは、その人の判断だと言った。
分からないものは分からないと言った。


そのうち、舞台から城壁がすべて消えた。
客席の整備も前方まで進んだ。

「部門長」
通路から声がした。

ゴールドマンさんが振り向く。
「何?」
「こちらの列、そろそろよろしいですか」
先ほどとは別の係員が、わたくしたちの足元を示している。

周囲を見る。もう客はいない。
最初に後回しにされた列だけが残っていた。

「あ」
ゴールドマンさんも同じところを見た。
「すまない。すぐ空けるよ」
「お願いします」
係員はそのまま一つ隣の列へ移った。


「これは失礼しましたわ」
「いや、私が引き止めたんだ」

ゴールドマンさんが従者を見る。
「ずっと待たせてしまったね」
「問題なし」
「本当に?」
「待機、通常業務」

ゴールドマンさんがこちらを見る。
「それはそれで、私が反省するところじゃないかな」
「この者は本当に気にしませんわ」
「そういう問題かなあ」


通路へ出る。
杖を置き、一歩進む。もう足元は動かなかった。
ゴールドマンさんも出口まで一緒に歩いた。

「また来るだろう?」
「演目によりますわ」
「厳しいなあ」
「面白ければ参ります」
「それは責任重大じゃないか!」
「劇場の責任者でいらっしゃるのでしょう?」

ゴールドマンさんは一度黙った。
それから笑った。
「違いない」

扉の前で別れる。廊下へ出る前に、一度だけ後ろを見る。
わたくしが座っていた列へ係員が入っていた。
座面を上げる。下を確認する。次の席へ移る。

「主人」
「帰りましょう」
「了解」

杖を置く。
次の一歩は、そのまま出た。