休みの日

本当に、何もなかった。

朝食を終えて410号室へ戻り、鞄から予定を書いた紙を出して、念のためもう一度確かめた。
公演はない。
依頼も入っていない。
ロゼさんの状態を確認する日でもない。
買わなければならないものも、今日中に返事をする相手もいなかった。

紙を裏返す必要もなかった。今日は休める。
予定表を畳み、鞄へ収める。

そこで、昨日読んだ本が小さなテーブルの端に残っていることに気づいた。あとでよい。
そう考えて椅子を引き、それから本を取った。挟まっていた紙片を引き抜く。
公演で使うつもりだった覚え書きだった。もう終わった演目のものなので、取っておく理由はない。
破棄する紙の方へ分ける。これでよい。

立ったついでに、テーブルの上の筆記具も揃えた。ペン先に乾いたインクが残っていたので、布で拭う。

布をしまうためにトランクを開けると、畳んだ衣服の端が重なっていた。使用に支障はない。
閉めてもよかったが、一枚を持ち上げて下へ収め直した。
袖口から糸が一本出ている。引けば悪化する。切るだけならすぐに済むので、ハサミを取って切った。


そこまでしてから、何をしていたのだったかと考えた。休むところだった。

椅子へ腰を下ろす。脚が重い。
たいしたことではない。この部屋の中を何度か往復しただけだ。
それでも、四階まで上がってきた直後より軽くなっていたはずの疲れが、もう一度ふくらはぎへ戻っている。

しばらくここにいればよい。

そう決めて、テーブルに残っていた破棄する紙を手に取った。
裏はまだ使える。小さく切れば、覚え書きには十分だった。ハサミは出したままなので、四つに分け、端を揃えて机上の紙束へ重ねる。

何か読むか。本を読むなら休息ではある。
少なくとも仕事ではない。
けれど、おそらく途中で別の本を参照する。その本に見覚えのない記述があれば出典を調べる。
調べているうちに手元へ紙が増える。
本を取るのはやめた。

ベッドへ移った。靴を脱いで横になり、枕の位置を確かめる。
掛物は要らない。
身体から力を抜けば、気になっていた脚の重さも寝台へ預けることができた。

北側の小窓が見える。外から入る光は弱い。
この部屋ではいつものことだった。

目を閉じる。
昨日の公演で、一箇所だけ変えた言い回しを思い出した。あちらの方がよかっただろうか。
いや、客席の反応だけを見るなら、前より通っていた。問題は次の段落との接続で……
考えるのをやめる。
今日は公演がない。次の公演も今日ではない。

目を閉じ直す。

今度は、昨日の本の一節が浮かんだ。年代が合わなかったのが気になっていた。
記述された王の治世と、使われていた貨幣の呼び名に十数年ほどずれがあったはずだ。写本の誤りか、後代の加筆なら説明できる。

……明日、確かめればいい。明日でよい。
そう決めると、今度は決めたこと自体が頭に残った。
起きて一行だけ書いておけば忘れない。

起き上がる。

紙は切ったばかりなので、すぐに見つかった。
貨幣名だけ書く。それだけで終える。

ペンを置いたところで、指先が冷えていることに気づいた。
室温のせいもあるだろう。もともと日当たりのよい部屋ではない。

手を組んで温めながら、テーブルを見る。
紙は片づいた。本は鞄に入れた。衣服も問題なく、筆記具の手入れも終わっている。
ほかに何かあっただろうか。探せばある。

立ち上がろうとしたところへ、従者が動いた。いつから準備していたのかは分からなかった。
湯気の立つカップが、テーブルの空いた場所へ置かれた。

色の深い茶だった。華やかな香りはない。
発酵した葉の渋みと、燻した木に近い香りが先に立つ。

ちょうどよい。カップを取る。
熱い。
両手で包むと、冷えていた指へ熱が移ってくる。
すぐに飲むにはまだ早かったので、そのまま椅子へ身体を預けた。

テーブルの端に、書いた紙片がある。貨幣名が一語だけ書かれていた。

明日でよい。

今度は紙を裏返さなかった。
窓へ目を向ける。北側には見るほどのものもない。西側の小窓には、隣家の屋根が近い。
景色として優れているとは思わない。
けれど、調べる必要もなかった。

茶を一口飲む。
まだ熱が舌に残る。
カップを置かず、そのまま持っておく。


しばらくすると、表面に立っていた湯気が細くなった。
もう一口。今度は縁の近くへ指を移しても熱くない。

何かをしようと思えば、一度これを置かなければならない。
その手間をかけてまで今すぐ片づけるべきものは、見当たらなかった。

隣家の屋根は変わらずそこにある。
部屋の中では、従者がいつもの位置に立っている。

もう一口飲む。
茶は飲み始めより、苦味が分かりやすくなっていた。それを確かめたあと、次に考えることがなかった。

もう一口飲む。
カップは軽くなっていた。
飲み終えれば、本を開いてもいい。貨幣名を確かめてもいい。衣服の点検を続けてもいい。

どれも今日でなくてよい。


最後の一口を飲む。
空になったカップをテーブルへ置いた。

手が空いた。
立とうと思えば立てる。鞄も、トランクも、すぐそこにある。
次にすることを考えた。
急ぐものはなかった。

椅子の背へ身体を預ける。

もう少し、このままでよい。