錆びた剣亭
最後の問いにも、ロゼさんは前回と同じ答えを返した。
眠りに変化はない。頭痛もない。視界について、新しく気になるものもない。
手元の紙に印をつける。
一週間空けても、確認する項目は増えなかった。
「では、次も一週間後でよさそうですね」
「うん。分かった」
ロザリンさんは頷いた。
書類を重ね、筆記具を鞄へ戻す。今日の用件はこれで終わりだ。
椅子から立ち上がったところで、扉が二度叩かれた。
「ロゼちゃん、いるっすか」
「いるよ」
入ってきたミルさんは、こちらへ声をかける前にロザリンさんへ言った。
「言われてたところ、問題なかったっすよ」
「分かった。ありがとう」
「了解っす」
報告はそれで終わった。
こちらも鞄の留め具を閉じる。
「あ、ミセリコルデさん」
そこでミルさんがこちらに気づいた。
「はい」
「帰りっすか?」
「そのつもりです」
「じゃあ飯行きません?」
前置きはなかった。
時刻を確かめる。ほかに予定はない。
「構いませんよ」
「どこ行くの?」
ロザリンさんが訊いた。
「錆びた剣亭っす」
「ああ。ミルがよく行ってるところだよね」
「そうっす」
「妹ちゃんも行くの?」
「ええ」
「じゃあ、私も行っていい?」
「いいっすよ」
ミルさんが答えた。
こちらにも断る理由はない。
「わたくしも構いません」
「よかった。行こう」
ロザリンさんが先に扉へ向かった。
錆びた剣亭
錆びた剣亭は、夕食には少し早い時間から席が埋まり始める。
扉を開けると、いくつもの話し声の下で皿と杯が鳴っていた。
壁際には外套と一緒に剣帯が掛かり、椅子の脇には旅用の荷が寄せられている。奥では鎧姿の二人が、一枚の皿を挟んで何か話していた。
ロザリンさんは入口で足を止めた。
「思ってたより賑やかだね」
「まだ早い時間っすよ」
「これで?」
「夜はもうちょい増えるっす」
「へえ」
奥の席までゆっくり目を走らせてから、ミルさんについて歩き出した。空いていた卓に座る。
ミルさんは置かれていた献立を開いて、すぐ閉じた。
「骨付き肉にするっす」
「早いね」
「悩むところあります?」
「肉にも種類があるでしょう」
「ありますけど、骨付き肉あるんで」
「そういう決め方なんだ」
ロザリンさんは献立を開いたまま、ページを一枚めくった。
「シチューもある。じゃあ、これとパン。それから青菜にしようかな」
「ちゃんと一食にするっすね」
「夕飯なんだから食べるよ」
ロザリンさんの指が献立の上を少し戻る。
「妹ちゃんは?」
「燻製肉と豆の煮込みを。黒パンもお願いします」
「またそれっすか」
ミルさんが言った。
ロゼさんが顔を上げた。
「よく頼むの?」
「ここでは、わりと」
「好きなの?」
「燻した肉の塩気が豆へ移りきらないので、一皿の中に複数の味が同居しています。黒パンにも発酵の酸味がありますし」
ロゼさんは煮込みの名前をもう一度確かめた。
「……思ってたより理由があった」
「選ぶ以上は、何かあります」
「ミルは?」
「食べたいからっす」
「急に単純だね」
注文を済ませる。
料理を待つあいだ、ロザリンさんは献立を閉じて卓の端へ戻した。
「ここ、二人ともよく来るの?」
「ミルは来るっすよ」
「それは知ってる。妹ちゃんは?」
「公演のあとに寄ることがあります。ほかにも、こちらで人と会うことはありますね」
「公演って、酒場でやってるやつ?」
「ええ」
ロゼさんは店内へ目をやった。
「ここでも?」
「何度か」
「ミルも見たことある?」
「あるっすよ。途中からなら」
「途中から?」
「飯食いに来たらやってたんで」
「それ、見たって言っていいの?」
「見たところは全部見たっす」
ロゼさんが笑った。
「強い理屈だね」
「事実っすよ」
顔なじみ
そのとき、卓の横で杖の先が止まった。
「あら。今日は多いねえ」
「マグダさん」
「こんばんはっす」
マグダさんはミルさんとわたくしへ挨拶を返し、そのままロゼさんへ向き直った。
「おチビちゃん、今日は連れが増えたのかい」
「食事をご一緒することになりまして」
「そうかい」
「あ、ロゼっす」
ミルさんが言った。名前だけだった。
一拍、誰も続けない。
ミルさんはそのまま椅子へ座っている。
「ロザリンさん、こちらはマグダさんです。この店の常連の方で、よくお会いします」
「はじめまして。ロザリンです」
ロザリンさんは座ったまま、きちんと頭を下げた。
「どうも」
今度はマグダさんへ向き直る。
「こちらはロザリンさんです。RACAでお勤めです」
そこで言葉が切れた。
ミルさんの上司。警備部門長。
どちらも正しい。ただ、今この卓にいる理由として添えるには、少し違う。
患者、と説明するものでもない。
「妹ちゃん、こちらでもお世話になってるんですね」
ロゼさんが言った。訂正するところはない。
マグダさんの視線がこちらへ来て、次にロゼさんの制服の襟元から、卓上に揃えられた手へ一度下りた。
「まあ、顔は見るね」
それだけだった。
「この子は妙なところで律儀だから」
「妙なところは余計では?」
「余計なところまで言うのが年寄りだよ」
ロゼさんが笑った。
「仲がいいんですね」
「長く顔を合わせてるだけさ」
マグダさんはそう言って、空いていた椅子を引いた。
店内はさきほどより人が増えている。四人で一卓を使う方が都合はよい。
上膳
最初に来たのはミルさんの皿だった。
「大きいね」
ロゼさんが言う。
「骨付きなんで」
「骨がある分、大きく見えるだけじゃない?」
「肉も大きいっすよ」
骨付きの肉は、皿の縁から少しはみ出している。
次にロゼさんのシチューとパン、青菜が届いた。
最後にわたくしの煮込みが置かれる。燻した肉の香りが、豆の湯気と一緒に上がった。
黒パンをちぎる。縁は硬く、内側にはまだ酸味が残っている。
「妹ちゃん、それで足りる?」
ロゼさんが自分の皿とこちらを比べた。
「充分です」
「そう?」
「ええ」
ロゼさんはしばらくこちらの皿に目を置いていたが、それ以上は言わず、自分のシチューへ戻った。
一口目から量を控える食べ方ではない。
パンも青菜も同じように減っていく。
「そういえば」
マグダさんがパンを割りながら言った。
「美術館、展示替えしたんだって?」
「公開区域の方ですね」
ロゼさんが答えた。
「私はまだ見てないんですけど」
「おチビちゃんは?」
「わたくしもまだです」
「武器あるっすか?」
ミルさんが骨から顔を上げた。
「美術館の話をすると毎回それだね」
「見るところそこなんで」
「工芸品が中心だと聞いています」
「武器も工芸品っすよ」
「否定はしませんが」
「じゃああるかもしれないっすね」
「その理屈なら食器もあります」
「食器も作りは見るっすよ」
「用途が違います」
「そこは分けて見るっす」
マグダさんが喉の奥で笑った。
「劇場の方も、次の公演の準備をしてるみたいだね」
ロゼさんが話を移した。
「今日、裏口の方に什器を運び込んでたよ」
「長いやつっすか?」
「見たの?」
「巡回で。武器箱かと思ったら違ったっす」
「舞台の柱じゃない?」
「たぶんそれっす。軽そうだった」
「持ってないよね?」
「持ってないっす」
答えが早い。
「触ってもないっす」
「そこまでは訊いてないよ」
「補足っす」
話は、展示品から舞台道具へ移った。
マグダさんが昔見た公演の話を一つ出し、ロゼさんが衣装の刺繍について訊いた。舞台に近い席と遠い席では衣装の見え方が違う気がする、と。わたくしが知っている範囲を足していく。
ミルさんはしばらく肉を食べていた。
「つまり、遠くから見た方がいいってことっすか」
「そういう話ではないよ」
「じゃあ近くで見るっす」
「どうして二択なの」
「見るならどっちかなんで」
「真ん中もあるよ」
「いい席っすね」
ロゼさんが笑う。マグダさんも笑った。
そのあとは、何を次の公演へ持ち込むのか、舞台の柱はどこまで作りこむ必要があるのか、そんな話へ移った。
ミルさんは肉を追加した。ロゼさんはパンをもう一つ頼んだ。
わたくしは最初の皿を食べ終えた。
下膳
外へ出る頃には、入ったときより店内の声が増えていた。
「ごちそうさまでした」
ロゼさんがマグダさんへ頭を下げる。
「あたしが作ったわけじゃないよ」
「それもそうですね」
「気に入ったなら、またおいで」
「はい。また来ます」
マグダさんは杖を持ち直した。
ミルさんはもう扉を開けている。
「寒くなってきたっすよ」
「ミル、上着の前閉めなよ」
「歩けば平気っす」
「そういう問題じゃないよ」
三人で通りへ出た。
「思ってたより賑やかだったけど、いいところだね」
ロゼさんが言った。
「飯うまいっすよ」
「そこは分かった」
「肉食えばもっと分かるっす」
「今日はシチューで充分」
ロゼさんはこちらを向いた。
「妹ちゃんの煮込みは、ちょっと気になるけど」
「次に機会があれば頼めばよいかと」
「そうだね」
道の分かれるところでミルさんと別れ、その少し先でロゼさんとも別れる。
「じゃあ、またね。妹ちゃん」
「ええ。また」
次の問診は一週間後。