同じ時刻

「今日は、当たりですね」

四階分の階段を降りきり、杖先が最後の段から一階の平らな床へ移ったところで、フロントのノエルさんが言った。
右手に持っていたペンが止まっている。帳簿から上げた目はこちらを見ていた。

「何のお話でしょう?」
歩行杖を持ち直して、フロントの前で足を止める。後ろでは従者も止まった。

ノエルさんは間を置いた。
「この時間にお出かけになるかどうかです。前回のお出かけから三日後にも、同じ頃に降りていらっしゃると思っていたのですが」
「まあ」
「外しました」

外した。
何を、と考える必要はなかった。401号室を月ごとに借りるようになってから、ノエルさんとは何度もこのフロントを挟んで顔を合わせている。
出るときも、戻るときも、たいてい彼女はここにいる。

「銀月亭では、宿泊客の外出まで賭け事の対象になりますの?」
「賭けてはいません。主任が勤務中にお客様を賭け札にしていたら、支配人に叱られます」
「予想はなさっていたのでしょう?」
「覚えていただけです」
「便利な言い換えですこと」
「ホテルでは重宝します」
ノエルさんの返事は早かった。

こちらも急いでいない。

「けれど、業務上は少々問題がありません?」
「問題になるほどは存じませんので」
「と、申しますと?」
「どちらへ行かれるかも、お戻りが何時になるかも存じません。お客様がこの時間に玄関をお通りになることが多かった。それだけです」

なるほど。
見えるものは覚える。見えないものを訊かない。

「それなら結構ですわ。サービスの調整に余念がない、と受け取っておきます」
「褒めていただいたことにしても?」
「そこまで都合よく解釈なさるの?」
「接客業ですので」
「今度は、それを理由になさるのね」

ノエルさんが笑った。

いつもの接客用とは違う。もう、それくらいは分かる。

杖に両手を重ねたまま、フロントの時計を見る。
前回、ここを通ったのも同じ頃だった。

その三日後。以前なら、確かにまたこの時間に階段を降りていた。
RACAでの状態確認は、前回までは三日ほどの間隔だった。
時刻はほとんど変えていない。
401号室を出て、四階分の階段を降り、フロントの前を通って外へ出る。同じ順序を何度も使ったのだから、覚えられていて不思議はない。

「そういえば、そうでしたわね」
「お気づきではなかったんですか?」
「自分が何時に出たかは覚えています。ノエルさんが覚えていることを、数えてはいませんでした」
「それは安心しました」
「なぜ?」
「数えられていたら、こちらが観察されているようですから」
「まあ。それをノエルさんがおっしゃるの?」
「ですから、安心しました」

返しの意味を拾うまで、一拍かかった。

「ずいぶん厚かましい理屈ですこと」
「お客様にだけは言われたくありません」
「わたくし、何かいたしました?」
「何も。ですから長くお泊まりいただけています」

これも、たぶん褒めている。たぶんで構わない。
少なくとも、この人は必要のないことを訊かない。
長く泊まっていても、仕事の内容を尋ねられたことはなかった。外から訪ねてくる者がいても、必要な手続きを済ませればそれ以上には踏み込まない。
その一方で、わたくしが何時頃に出るかは覚えている。

悪くない。
客ではない者が一人増えても、この人なら気づくだろう。昨日までなかったものとして。
家にいた頃も、自分の所在を周囲が把握していること自体は珍しくなかった。

ノエルさんは見ている。
そして、訊かない。

「しばらくは、以前と同じ間隔にはなりませんわ」

そこまで言うと、ノエルさんが一度まばたきをした。
「そうなんですね」

理由は訊かなかった。

「次は一週間ほど先です」
「では、今度は当てられそうです」
「正式な業務になさらないでくださいね」
「承知しました。記録にも残しません」
「記録に残す可能性があったの?」
「ございません」
「間が早すぎましたわ」
「失礼しました」

今度は二人とも笑った。

従者が後ろで待っている。そろそろ出た方がよい。

「では、行ってまいります」
「はい。いってらっしゃいませ」

一歩進んで、扉へ向かう。

「ああ、お客様」

振り返る。

ノエルさんはもうペンを帳簿へ戻していた。
「もし次も外したら、そのときは黙っておきます」
「そうなさって。受付の信用に関わりますもの」
「お気遣い、ありがとうございます」
「どういたしまして」

扉を開ける。

外の明るさに目が慣れるまで、庇の下で足を止めた。
扉が閉じる前に、フロントの時計が一度だけ見えた。前回と同じところに、針がある。

三日後、この床に杖先を置く予定はない。