一行足りない

ロゼさんと一度ここへ来てから、劇場の演目表を確認することが増えた。

よく知られた物語ほど扱いに困る。筋を大きく変えれば別の話になり、変えなければ、知っているものにとっては新鮮味がない。
これは古典を演じるなら逃げられない道。もちろん語りの技術で魅せてもいいが、それができるなら苦労はしない。新鮮さは最も簡単かつ効果的な技術だ。
前に観た芝居では、残すところと捨てるところが思っていたより大胆だった。
それでも物語の形は崩れていなかった。

それ以来、この劇団なら、有名すぎる作品をどう扱うのだろうと思っていた。
演目表に『亡王の子』を見つけたとき、確かめるにはちょうどよいと思った。
知らない者を探す方が難しい悲劇である。亡き父王の面影を追うアルメル王子の物語。

筋を確かめに来たわけではない。問題は、そこへ何を足し、何を抜くかだった。


二人用の一等桟敷を取った。
普通席より値は張るが、前の人間の頭を避けて舞台を見る必要がなく、隣席の袖が触れることもない。中央から外れる代わりに、役者の顔も舞台全体も見える。
条件としては悪くない。

係の人が扉を開けると、従者は先に中を見てから脇へ退いた。
わたくしが舞台寄りの椅子へ座るまで立ったまま待ち、それから扉に近い方へ腰を下ろす。
舞台を見るには、わたくしの席の方がよい。出入口を見るなら、従者の席の方がよい。
いつもの選び方だった。

膝の上で番付を開く。

出演者の名を追っていると、開演前の口上が一つ加わった。
本日のホラント役は、都合により代演となる。

客席のあちこちで声が動いた。
無理もない。
ホラントは主役ではないが、アルメルが自分の見たものを最初に打ち明ける相手である。終盤まで残り、王子の言葉を受け続ける。立っているだけの役ではない。

ただ、代役そのものは珍しいことでもない。


番付を閉じた。

幕が上がる。

開幕

最初に気になったのは、代役が下手だったからではなかった。
むしろ逆だった。
動き出しが半拍ほど遅い。
相手が台詞を言い終えてから身体の向きを変えるところがある。舞台の中央へ入る際にも、本役なら歩きながら相手へ視線を渡すであろうところを、一度位置についてから顔を上げていた。
それくらいだった。

台詞は出る。次に誰が話すかも分かっている。
群臣が並ぶ場面では、他の役者が動く前にきちんと場所を空けた。舞台袖へ下がる順も迷わない。大道具が入る転換では、振り返ることなく邪魔にならない位置へ移った。
代役としては、かなりよくやっている。

一幕が終わる頃には、そちらを見る必要もなくなっていた。


劇の方が面白かった。
原典では二つに分かれている宮廷の場面を一つにまとめ、その代わり、アルメルが父王の肖像を避けて歩く動作で語る。台詞を削った分を、舞台上の位置で補っているらしい。

なるほど。
前の公演でもそうだった。
ここの人たちは、本文を短くするのが好きなのではない。別の場所へ移すのが好きなのだ。

そこまで考えたところで、ホラントが再び出てきた。
アルメルと二人だけだった。
石壁を模した背景の奥に細い窓があり、夜を示す暗い布がその向こうへ垂れている。舞台上には椅子が一脚。アルメルは座らず、その背へ片手を置いていた。

父の亡霊を見たことを、アルメルが初めてホラントにだけ明かす場面だ。
ここから北塔へ向かうまで、ほとんど二人しか話さない。

ホラントが入ってきた。先ほどまでにも遅れはあった。
歩幅が一定すぎる。立ち止まったあとも両腕の位置が決まったままで、相手の言葉を待ちながら姿勢を変えない。
この時点のホラントは、アルメルが何を言い出すのか知らない。
親友に夜更けに呼び出され、しかもその理由を教えてもらえない。暗殺を疑い、常に剣を抜けるように歩くのも面白い解釈だ。

「昨夜、父を見た」
アルメルが言った。
「亡き父を」

ホラントは、すぐには返さなかった。


原典より長い。

「……本当に、見たのか」

原典なら、ここでは父王その人だったのかを問う。
もっとも、改変としては不自然ではない。

「顔を見誤るはずがない。けれど、あれが父だったのかは分からない」

アルメルが椅子から手を離した。
「何をした?」
今度は短かすぎる。
ただし、ホラントが顔を上げたのは、アルメルが完全にこちらを向いてからだった。

先ほどまでと違う。
相手の台詞を受けながら次へ移るのではなく、渡されてから、その先を探している。

「何も言わなかった」
アルメルは舞台の奥を見た。
「北塔を指した。それから」
自分の口元へ指を立てる。

沈黙。

ホラントがアルメルを見る。
本来なら、ここで一行ある。誰にも悟られず、北塔へ来いというのか。
だが、ホラントは言わなかった。

アルメルも待った。


一拍。
もう一拍。

悪くない間だった。

亡き王に似たものが、夜の城で北塔を指し、口を閉ざせと命じた。
それを聞いた友人が、絶句して言葉を返せずに悩みこむ。
十分に成立する。

むしろ先ほどからの硬さまで、この場面へ来てようやく意味を持ったようにも見える。
父が不審な死を遂げ、奇行が目立つようになった親友を見る人物。今は、その狂った親友が「父の亡霊を見た」と言い出すのだ。その緊張を全身で表現する、脚本も役者も素晴らしい。

アルメルが息を取った。
「北塔へ」
原典にはない言葉。

「誰にも知らせず、一人で来い。……そういう意味だったのだろう」
ああ。台詞を移した。
ホラントの問いに含まれていたものを、アルメル側へ渡している。

演出の変更か。この劇団は、それくらいの改変なら最初からする。


ホラントの口が動いた。何も聞こえなかった。
もう一度、開く。
肩が上がっている。首の付け根まで力が入っていた。息を入れようとするたび、胸の上だけが持ち上がる。

そこで分かった。
あれでは通る声は出ない。少なくとも、今の無音は演技ではない。
では、ひとつ前は。

ホラントが立った。速すぎたのか、椅子の脚が床を擦った。

アルメルが北塔へ向かおうとする、その正面へ出る。
両手でアルメルを押し返すような、止める動作だった。
けれど弱い。一歩が足りない。
腕も上がりきらず、手はアルメルの胸へ届くより前に止まった。

それなのに。
舞台の上では、違うものに見えた。

亡き王に呼ばれた友人を止めたい。
だが、自分も怖い。近づくことさえためらわれ、それでも身体だけは前へ出た。
ホラントの役としてなら、筋が通っている。

アルメルも、もう台詞を待たなかった。
「……止めるつもりなのだな」
問いではなかった。

ホラントが立ったことを、そのまま言葉にした。

「だが、確かめなければならない」
横へ抜けようとする。

ホラントも動いた。
また遮ろうとする。今度も半歩だった。
上げた腕が途中で止まり、すぐには下ろせない。
役者としては、動きが弱い。友人としては、先ほどより切実に見える。
でも言葉は出てこない。

アルメルが言葉で拾う。
ホラントは動く。

アルメルが一度、北塔の方を見た。それからホラントへ向き直る。
「……ついてきてくれないだろうか」
知っている台詞だった。ここには戻れた。

本来なら、ホラントには返事がある。
この場面では大切な一行だ。
お前を一人で行かせるものか。
言葉は版によって違う。それでも、どの本文でも意味は変わらない。

ホラントが口を開いた。
やはり声は出なかった。一度閉じる。
アルメルを見る。舞台奥を見る。
それから、彼の前を塞いでいた位置から退いた。
退いただけではなかった。横へ一歩、アルメルの隣へ立つ。

アルメルは何も言わなかった。先に歩く。

ホラントは動かなかった。
一瞬だけ、北塔へ続く暗い幕の方へ顔を向けたまま残る。
それから追った。

二人の間には一歩ぶんの距離があった。その距離のまま、幕の向こうへ消えた。


暗転した。


拍手は起きなかった。
まだ幕間ではない。

次の場面のために舞台が組み替えられ、別の人物が現れる。
物語はそのまま進んだ。

膝の上の番付へ目を落とす。
ホラント役の名は、最初から印刷されている。本役の名前だった。代役については、開演前の口上で知らされただけである。

さきほどの役者が、この演目で以前何をしていたのかは分からない。
ただ、ほかの場面では台詞が出た。舞台の動きも知っていた。
あの二人だけの場面へ入ったところから、受け方が変わった。以前の役では、あそこにいなかったのかもしれない。
舞台の上から何度も聞いた言葉と、袖の向こうで聞いた言葉とでは、残り方が違う。

顔を上げた。

芝居はもう、別の場面へ移っている。
しばらくしてホラントは再び登場した。
声は戻っていた。先ほどより慎重ではあったが、台詞は通る。
誰も先ほどのことには触れない。

アルメルも、ほかの役者も、何もなかったように次の言葉を渡していく。
なら、こちらも見るものを戻せばよい。


終幕まで、舞台は崩れなかった。

最後の台詞が終わり、幕が降りる。
拍手が広がった。

終劇

従者はすぐには立たなかった。わたくしが番付を閉じ、膝から下ろすのを待っている。
客席が明るくなる。


桟敷の外へ出ると、前を歩いていた二人連れが話していた。

「北塔へ行く前のところ、良かったな」
「ああ。ホラントが何も言えなくなるところ」
「本当に怖くなったみたいだった」

二人はそのまま階段を下りていった。

訂正する理由はない。
本当に怖くなったように見えた。そして、あの場面のどこまでが役で、どこからが役者だったのか、わたくしにも全部は分からない。
分かるのは、声を出そうとして出なかったところだけだ。

従者が扉の脇へ立ち、こちらが通れるだけ身体を引いた。

劇場を出る前に、番付をもう一度だけ開いた。
ホラント役の横には、開演前と同じ名前が印刷されている。

指で押さえても、そこに訂正はない。
代役の名もない。

止まった声も、届かなかった一歩もない。

紙の上では、何も欠けていなかった。