公演予定表

三枚の券は、舞台に向いた三つの席になった。
わたくしの右にロザリンさんが座り、その向こうに従者がいる。

席へ着いてから開演まで、まだ少し時間があった。

鞄から案内を取り出す。
前に読んだときと、書いてあることは変わらない。
演目名。脚本家の名。原典とはかなり異なる筋の紹介。
その下に、小さな文字で参照本文についての注記がある。成立時期の違う写本が、いくつか。どれを基準にしたとも書いていない。
原典では早い段階で説明される事情が、案内に載った筋では後ろへ動いている。あれを外せば、後の人物の判断に根拠が足りなくなる。

それから、異本によって展開が大きく違う箇所。どちらを採るのか。
あるいは、一つにはしないのか。

「まだ読んでるの?」

顔を上げると、ロザリンさんが案内を見ていた。

「確認しているだけです」
「前にも読んでなかった?」
「読みました」
「じゃあ同じじゃない?」
「書いてあることは」
「そっか」

納得したらしい。

案内を畳んだところで、客席の話し声が少しずつ減っていった。
舞台へ目を戻す。幕が開いた。

第一幕

最初のうちは、筋よりも欠けているものの方が目についた。原典なら、このあたりまでには触れているはずのことがある。
主人公が故郷を離れた夜のことだ。
舞台では出てこない。
一場面進んだ。まだ出ない。
人物が増え、現在の事情だけが先へ進んでいく。

削ったのだろうか。それなら、その後をどう繋ぐのか。

舞台の奥を、一人の役者が無言で横切った。隣の視線は動かない。
少しして左側から台詞が始まると、そこでロザリンさんの目が向いた。
声の位置が変わるたび、視線もそちらへ移る。舞台へ戻った。

探していた説明は、次の場面で出てきた。ただし、原典とは違う人物の口からだった。
言い回しにも覚えがある。なくしたのではなく、置き場所を変えた。それなら、ほかにも同じものがあるかもしれない。
何がないかではなく、どこへ行ったかを見る。

舞台では、主人公が城を去った昔の話へ触れていた。一人が、命令を受けて去ったのだと話す。

知っている記述だった。古い脚本家の演出だったはず。
今回はこちらを採ったのか。


場面が変わる。

先ほど話していた人物は舞台に残り、別の人物が入ってきた。二人はしばらく現在の話をしていたが、やがて同じ夜のことへ戻った。
今度は違った。本人が前夜から去るつもりだった、と語る。

こちらも知っている。これは破天荒で有名な作家のものだ。

一人が話しているあいだ、もう一人は黙っていた。顔が上がる。そのまま相手の話を聞いている。
相手が去ってから、机の上に残された地図へ一度触れた。台詞はなかった。

右隣で、ロザリンさんの視線が動いた。
舞台の端へ歩いていく役者を、目だけが追っている。そのまま、机へ戻るところまで。
こちらを見てはいない。
わたくしも舞台へ戻った。

どちらの本文を採ったのか、という問いは使えなくなった。両方ある。
では、なぜ。答えが出ないまま、第一幕が終わった。


幕が下りると、客席の音が戻った。

椅子を立つ者がいる。
近くでは、公演案内を開き直している人もいた。

「面白い?」
ロザリンさんが訊いた。

前にも訊かれた。
今度は少し考える。
「ええ。ただ、まだ一つ分かりません」
「どこ?」
「昔の話です。二人で内容が違ったでしょう」
「ああ。違ったね」

ロザリンさんの気になったところは、そこではなかったらしい。

「でも、私、あの人の方が気になった」
「どちらですか」
「後から喋らなかった方」
顔を上げ言葉を聞いていた方か。

「もう一人が話してるとき、びっくりしてたでしょう」
「……そう見えましたか」
「うん。手、止まってたし」

同じところを見ていたはずだった。
わたくしが二つの本文を照合しているあいだ、ロザリンさんが見ていたのは、そのどちらにも言葉を持たない人物だった。

「だから、嘘をついてるって感じじゃなかったんだよね。知らなかったのかなって」
「可能性はあります」
「妹ちゃんもそこ気になってる?」
「ええ。わたくしも、そこが気になっています」
「そっか」

ロザリンさんは閉じた幕へ目を戻した。

しばらくして、
「台詞がないときも、結構いろいろしてるんだね」
と呟いた。

「舞台ですから」
「うん」

それだけだった。
やがて人が席へ戻り始めた。第二幕が始まる。

二幕

二つの説明のうち、どちらかが崩れるのだと思っていた。
けれど、そうならない。一方を誤りとすると、前の場面が合わなくなる。
逆も同じだった。
それでも二人の記憶は一致しない。

第三の説明が出てくることもなかった。

代わりに、前半と似たことが起きた。
一人が昔のことを話し、もう一人は黙って聞いている。
前とは逆だった。喋っていない人物が舞台の奥の椅子から立った。相手へ近づきかけ、途中で止まる。何も言わない。
少し間を置いて、元の場所へ戻った。
写本の上では食い違いとして並ぶ二つを、舞台では二人に持たせている。

そういう使い方か。

では、原典を知らない者にはどう見える。
隣を見る。ロザリンさんは舞台を見ていた。声を出している人物ではない。その向かいで黙っている方へ目が向いている。
役者が動く。視線がついていく。
別の位置から台詞が始まっても、すぐにはそちらへ移らなかった。
前半とは違う。
少し前まで手元の案内を見ていた斜め前の客も、もう紙を閉じている。
台詞が途切れても、顔は舞台へ向いたままだった。


最後まで観た。
幕が下り、拍手が始まった。

手を叩いた。

隣ではロザリンさんが、少し長く拍手をしていた。

退席

三人で客席を出る。


通路へ出たところで、ロザリンさんがこちらを見た。

「面白かった」
「そうですか」
「うん。昔の話が違ってたところ」

やはりそこらしい。

「最初、どっちかが嘘ついてると思ったんだけど」

人の流れを避けて、壁際へ少し寄る。

「途中から、違う気がした。二人とも本当にそう思ってるみたいだったから」
「原典でも違うのです」
「え?」
「あの出来事は、本文によって記述が違います。先ほど二人が話していた内容は、どちらも残っています」
「元から?」
「ええ」
「じゃあ、どっちかに直さなかったんだ」
「そうですね」

それだけでは少し違う。

「むしろ、使ったのでしょう」
「違ってるところを?」
「ええ」
「へえ」

ロザリンさんは劇場の入口を振り返った。
「そういうのもできるんだね」
「舞台ならではでしょう」

紙の上では注記になる違いを、人に持たせる。


「で」
ロザリンさんがこちらへ顔を戻した。

「妹ちゃんは面白かった?」
「ええ」
「かなり」
「よかった」


そのまま出口へ向かう。

従者が少し先で、人の流れからこちらの通る幅を残していた。
劇場を出る手前に、紙を並べた台がある。
今日の演目の案内とは違う。今後の公演予定らしい。

通り過ぎかけて、足を止めた。一枚取る。
月ごとに演目名が並んでいる。
知っている題がいくつかあった。知らないものもある。

「何か気になるのあった?」
ロザリンさんが隣から覗き込んだ。

「いくつか」
「どれ?」
「まだ決めていません」
「そっか」

予定表を折り目に沿って畳む。
鞄を開いた。中には本が入っている。
その上へ、畳んだ予定表を置いた。