ちょうど休憩だから

最後の確認にも、引っかかるものはなかった。
前回から増えた症状がないことを確かめ、記録帳へ一行書き足した。

インクが乾くのを待ってから閉じる。

「今日はこれで結構です」
「うん。ありがとう、妹ちゃん」

その呼び方は、訂正しても次には戻る。今はもう、そのためだけに話を止めない。

ペンを拭いて鞄へ戻し、椅子の脇に立てていた杖を取った。
今日の用事は終わった。


「あ」
立ち上がったところで、ロザリンさんが時刻を確かめた。

「私もちょうど休憩。座ってて」
「……診察は終わりましたが」
「うん。だから休憩」

返事になっているのだろうか。
少なくともロザリンさんの中では、なっているらしい。
こちらが立ったのを見ても何か付け加える様子はなく、机の端へ寄せていた書類を重ね、食事の包みを取り出した。

急いで帰る理由はない。

杖を元の場所へ戻し、もう一度座った。

ロザリンさんは食事を始めた。こちらへ話題を振るでもない。
わたくしも、何かする必要があるらしい。鞄から本を取り出し、開いた。

ロザリンさんは食べる。わたくしは読む。


しばらくして、紙の擦れる音に目を上げた。
食事を終えたロザリンさんが、机の上の書類を二つの束に分けている。表紙を一瞥しては、片方を左へ、もう片方を右へ重ねていた。

「お仕事ですか」
「これは午後の分。順番だけ」
「休憩中では?」
「読むのは休憩が終わってから」

そう言って、また一冊を右へ置いた。
なるほど。本へ戻った。

何ページか進んだころ、
「それ、仕事の本?」
と訊かれた。

「いいえ。私物です」
「面白い?」

少し考える。

「今のところは」
「そっか」

会話はそこで終わった。

ページを送る。
向こうで紙が重なる。
ページをまた送る。
今度は食事の包みが畳まれた。

どちらが先だったか、途中から気にしなくなった。

再稼働

次の章へ入ったところで、椅子が動いた。

「さて」

顔を上げる。
ロザリンさんが書類を手元へ引き寄せていた。時刻を確かめる。休憩が終わったらしい。

本を閉じた。

「では、わたくしも失礼します」
「うん。またね、妹ちゃん」

今度こそ杖を取る。従者も待機を解いた。

「あ、そうだ」

また呼び止められた。

「妹ちゃん、今度の休み、これ行かない?」
差し出されたのは、三枚の券と二つ折りの案内だった。RACA劇場の公演らしい。

「三枚あるのですね」
「従者さんも一緒にね」

日付を見る。
次の診察日ではない。ほかにRACAへ来る予定もない日だった。
三枚の券を揃えて、演目名へ目を移す。
知っている古い作品だった。
知らない者の方が少ない、というほどではないが、原典を辿ろうと思えば注釈にも事欠かない。その分、何を採り、何を捨てるかで作り手の解釈が露骨に出る種類の作品でもある。
古く、それなりに有名だからこそ、脚本家の腕が試される類の作品だ。

「……なぜ、こちらを?」
「ん?」
「この演目を選んだ理由です」
「ああ。ミルちゃんがね、妹ちゃんは『ちゃんとした話を面白くして話す人』だって言ってたから。こういうの好きかなって」

ミルさん。
思い当たる公演はいくつかある。

「でも私、そのへん詳しくないでしょ。だから、こういうのに詳しい同僚に、どれがいいと思うって聞いたの」
「同僚の方に」
「うん」

同僚にまで訊いたらしい。そこまで、と続きかけたところで、案内を開いた。
短い演目紹介と脚本家の名。その下に、今回の上演についての説明が小さな文字で載っている。一度、最初まで戻って読み直した。

「……これは」
「どうしたの?」
「いえ」

紹介されている筋は、原典とはかなり違う。少し整理しました、という程度の翻案ではない。話の骨組みそのものへ手を入れている。

「……随分、大きく変えていますね」
「そうなの?」
「ええ。ですが、原典を知らないわけではありません。むしろ逆でしょう」

紹介文だけでは分からない箇所が増えた。ここを動かすなら、別の場面はどうする。あちらを残すなら、この人物はどう扱う。
どの演出家の筋書きを基準にしたのか。

案内の上部にある、RACA劇場の名へ目が戻った。
王立機関の劇場で、これをやるのか。この、挑戦的な脚本を?

「……これを、ここで上演するのですか」
「うん。ここの劇場」
「それは分かっています」

分かっているから訊いた。
古典を丁寧に保存する場所ではないということか。その舞台で、名前の通った原典をここまで組み替える。

「面白そう?」

問われて、顔を上げた。
「ええ」
これは即答できる。
「かなり」

ロザリンさんが笑った。
「よかった。じゃあ三人で行こうね」
「はい」

日付をもう一度確かめた。

「その日は空いています」
「じゃあ決まり」


三枚の券を案内へ挟み、折らないように鞄へ入れた。さっきまで読んでいた本の上へ重ねる。

「では、失礼します」
「うん。気をつけて帰ってね」

従者と一緒に部屋を出る。
廊下へ出ても、案内の数行が頭に残っていた。

原典のどこから手を入れるつもりなのか。その注記なら、少なくとも無造作には変えないはずだ。
王立機関の劇場で、あれをやる。

階段へ向かいながら、鞄へ手を添えた。
本の上には、三枚の券を挟んだ案内が入っている。