七つの門と一つの裏口
ロゼさんの経過を見るためRACAへ行く日は、予定帳の同じ頁に仕事の印が増やさない。
必要だから見る。料金を取るつもりもない。
ただ、ルミナリスに留まる日が増えるなら、ほかの仕事まで細らせる理由はなかった。
貯えはある。けれど、日々の食事を賄うために崩すものとして数えたことはない。
錆びた剣亭へ着いたころには、夕食には少し遅く、酒だけを目当てに来るには少し早かった。
「今日は話すのか」
ギルバートさんが訊いた。
「ええ。お邪魔でなければ」
「邪魔になるくらい客が静かな店に見えるか?」
見えない。
入口に近い卓では四人組が肩当てを椅子の背へ掛け、まだ泥の残る靴を互いに蹴り合うようにして座っている。奥では二人が骰子を振っていた。カウンターには一人客が三人。
五卓のうち、三卓は食事の途中だった。
「もう少し後にいたします」
「そうしろ」
先に食事を頼んだ。
肉と黒いパン、それに赤ワイン。錆びた剣亭で水を頼むより、その方が舌にはまだ扱いやすい。
肉を半分ほど食べたところで、入口近くの四人組が二皿目を空にした。
装備を見る限り、探索帰りだろう。盾の縁に新しい削れがある。弓手らしい男の外套にも乾ききっていない泥が残っていた。
よく食べる。その割に酒の減りは遅い。
疲れているのだろう。聞かせるなら、難しい話を長く積む相手ではない。
奥のダイスはまだ転がり続いていた。
そちらは捨ててもいい。
開演
杯を置いた。
「皆さま、『七つの門』のお話はご存じですか?」
近い卓から二人がこちらを向いた。
奥はダイスを振った。チップが机をこする音がする。
「七つの門を越えて、古城へ攻め込む話ですわ。英雄七人、敵地の最奥まで正面から」
「馬鹿だな」
入口側の男が言った。早い。
「まあ。まだ何も始まっておりませんのに」
「門が七つあるって分かってるなら裏を探すだろ」
隣の女が笑った。パンを持っていた手が止まった。
隣の男も、噛みながらこちらを見る。
原典では、最初の数節を使って王統と遠征の理由を説明する。そこから始めれば、この卓は二節目で食事へ戻る。
「奇遇ですこと。七人のうち一人だけ、あなたと同じことを考えます」
「そいつが主人公か?」
「いいえ。世間では臆病者ですわ」
四人がこちらを向いた。これなら入れる。
一つ目の門には青銅の守人がいた。
二つ目には火を吐く獣。
三つ目では、城壁の上から矢が降った。
その程度でよい。
何本の槍を受け、どう斬り込んだかまで語れば、英雄の偉大さは伝わる。だが、私は歴史の授業をしたいわけではない。
最初の門を破ったところでは、前の卓の剣士がまだパンをちぎっていた。
二つ目で酒の杯を置いた。
三つ目の話へ入るころには、奥のダイスが一度止まった。
そこで、敵の数を一つ削った。代わりに、治療薬の残りを言う。
「三つ目を抜けたところで、治療薬はあと四本。門は残り四つです」
「足りねえだろ」
ダイスの卓から声が飛んできた。
「英雄たちも、そう考えればよろしかったのですけれど」
笑いが広がった。
先ほどまでこちらを見ていなかった男が、椅子ごと半分こちらへ向いている。
怪物の大きさより、薬の本数。
四つ目の門では、一行の盾が割れた。
原典では、盾の由来とその愛着から嘆き悲しむ。そこは切った。
「なお、新しい盾を買う金は、出発前の宴で使っております」
また笑いが起きる。
原典では宴の費用まで記録されていない。
けれど、後世の版では英雄が豪奢な送別宴を催したことになっている。ならば、盾を余分に砕いてしまっても、大勢に影響はない。そもそも今もっとも流布している版も、最古の本文から見れば相当に自由だ。
わたくしだけ原典に忠実に従っても仕方がない。
四つ目を越えても、例の一人だけは戦いの後に、荷運び口や排水路、崩れた階段を調べている。
英雄たちが次の門を見ている間に、一人だけ別のものを見ていた。
「戦いたくないだけじゃねえの?」
入口側の女が言った。
「その通りです」
「本当に臆病者じゃないか」
「ですから、そう申し上げております」
ここでは褒めない方がいい。彼を最初から冷静な知略家にしてしまえば、最後の意味が一つに決まる。
男は実際によく愚痴を言う。第五の門の前では鳴きながら帰りたいとも言う。
その方が面白い。
「待て」
今度はカウンターからだった。
「俺が知ってる話じゃ、そいつ五つ目で逃げるぞ」
ようやく来た。
「ええ。その版もございますわ」
「ございますわ、じゃねえよ。話違うじゃねえか」
「五百年も千年も人の口を渡れば、英雄の一人くらい逃げたり戻ったり、仲間が増えたり減ったりします」
「適当だな」
「とんでもない」
間を置く。
「どこがどう適当になったかは、かなり正確に存じております」
カウンターの男が笑った。
「じゃあ今のが本当なのか?」
「いいえ」
今度は、先ほどより大きく笑われた。
「今夜のわたくしも、相当に変えておりますわ」
「駄目じゃねえか」
「すでに違っている話を、もう少し面白くしただけです。大きな問題ではございませんでしょう?」
「学者が聞いたら怒るぞ」
「学校の先生の前ではいたしません」
奥のダイスは、もう動いていなかった。
ここから先は、門の数だけ覚えていれば足りる。
第五を越えたころには、英雄たちの装備も薬もずいぶん減った。
第六の前で、臆病者はいなくなった。
「ほら逃げた」
「はい。皆さまがお待ちかねのところです」
第六の門。
第七の門。
英雄たちは勝つ。目的も果たす。
そして帰り道が潰れる。
前の卓の男が、結末より先に眉を寄せた。行きに使った道が、帰りにも使える保証はない。
冒険者なら、英雄より先に気づくらしい。
「で、裏口か」
弓手の男が言った。
「まあ。先に仰らないでくださいませ」
「分かるだろ」
「千年近く前の詩人は、分からない方もいらっしゃると思ったのでしょう」
あとは短くてよい。
臆病者が探していた細い道が、英雄たちのいる場所へ繋がる。七つの門を破った一行は、最後には一つの門も通らずに外へ出る。
「結局、そいつが一番役に立ってるじゃねえか」
カウンターの男が言った。
「では、彼こそ真の英雄だった、と?」
「そういう話だろ」
「いいえ。普通に臆病だっただけですわ」
「なんだよ」
「第五の門では帰ろうとしておりますし、戦いも嫌がります。勇敢な七人目に書き換える必要はないでしょう」
「でも助けた」
「ええ」
そこはそのまま置く。英雄たちは正面から門を破った。
あの男は、できれば門を通らずに済ませたかった。
「もっとも」
杯を取り上げる。
「七つの門を勇ましく越える叙事詩に、事あるごとに抜け道を調べる男を出し続けるのは……詩人も困ったのでしょうね。後の版ほど扱いが短くなるのは、多少は同情いたします」
「だから逃がしたのか」
「話が早くなりますもの」
そこで終えた。
何人かが手を叩き、誰かが「ひでえ話だ」と言った。
ダイスがまた動き始める。注文を呼ぶ声も戻った。
こちらへ向いていた椅子が一つずつ元へ戻っていく。
最後まで場を抱えている必要はない。
閉幕
席へ戻ると、肉は冷めていた。薄く固まった脂が舌に残り、ワインを一口飲んで流す。
従者が何も言わず、取り分けてあったパンをこちらへ寄せる。
もう一口飲んだところで、入口側にいた四人組の一人が立った。
先ほど、最初に「裏を探す」と言った男だった。
「あのさ」
「はい」
「あんた、鑑定もやるんだよな?」
背後で仲間の一人が止めた。
「おい、やめとけって。あれ、鑑定代かけるほどの物か分からんだろ」
「だから聞くんだよ」
男はこちらへ向き直った。
「今日、地下で変なの拾ってさ。売れそうにも見えないんだけど、なんか捨てるのも気味悪くて」
「触りました?」
「革手袋で」
「持ち帰ってから、何か起きましたか」
「いや。たぶん」
「たぶん?」
「俺ら全員まだ生きてる」
判断基準としては粗い。
「それは何よりです」
鞄へ手を伸ばしかけたので、止める。
「ここでは出さないでください」
「そんなにまずい?」
「分かりません。分からない物を、酒場で開ける理由がございませんでしょう?」
「ああ。それはそうか」
一度で手が鞄から離れた。追加の説明はいらない。
仲間の女がこちらを覗き込んだ。
「で、いくら?」
値段を訊いた女だけが身を乗り出している。残りの三人は口を挟まず、こちらを見ていた。
「まず拝見して、魔法的な意味がない、あるいは害のない品だと分かるところまででしたら」
卓上には、食べかけの皿とパン、それにワインがある。
「今日のわたくしの食事代で結構ですわ」
「飯代?」
「ええ。詳しい効果や来歴までお知りになりたいなら、正式な鑑定料を頂きます。調査と処置は別のお話です。解除まで必要なら、難しさを見てご相談いたしましょう」
四人が顔を見合わせた。
「飯代ならいいんじゃない?」
「それで変なもんじゃないって分かるならな」
「変なものではない、とは申し上げておりません」
「そこは言ってくれよ」
「まだ見ておりませんもの」
男が笑って、ギルバートさんを呼んだ。
「親父、この人の今日の分、俺らにつけて」
「先に物を見せろ」
「明日だってさ」
ギルバートさんはこちらを見た。
「また拾ったのか」
「わたくしが拾ったわけではございません」
「お前のところには拾い物が寄ってくるんだよ」
否定する材料が、すぐには出てこなかった。
四人はまた席へ戻った。
怪しい品の話は、それ以上しない。明日になれば、素面の持ち主から入手場所を聞けばよい。
手帳を開く。明日のページに、一行だけ書き足した。
顔を上げると、皿にはまだパンが残っていた。