12分前

約束の15分前に建物へ入る。

早すぎる必要はない。

30分も前から待っていれば、相手をせかしているように思われる。反対に、時刻ちょうどでは余裕がない。
受付に到着して、署名、案内と数分かかる。
受付が作業を終えて書面に時間を書く頃には、10分前程度、キリよくして10分前。

それくらいがよい。


実際に遅れないための余裕でもある。
午後1時15分、RACAの玄関を通った。

受付では、前回とほとんど同じ紙を渡された。
氏名。訪問先。用件。
ペンを取り、「ミセリコルデ」と書く。
受付の職員は隣の欄を埋めながら、一度だけ壁の時計を見た。わたくしも署名の最後で視線を上げる。
1時18分。悪くない。
こちらが1時15分に来たことまで、記録には残らないだろう。時刻の欄も印字されるものではなく、担当した方が手で書いている。
数分ほどの差なら、13時20分の来訪として収まる。

「お待たせしました」
声をかけられて振り向く。
前回も廊下ですれ違った覚えがある。向こうにもこちらの顔くらいは残っているらしく、名乗り直す必要はなかった。
「こちらです」
「ありがとうございます」

従者と並んで、その後ろを歩く。一階だけでも広い建物だった。
けれど今日、わたくしが使うのはその手前にある面会室だけだ。
治療した患者の状態を見る。終われば帰る。それだけでよい。

廊下の曲がり角を一つ越えたところで、また時計があった。1時19分を少し過ぎている。
11分前。想定通りだった。

「こちらです」
職員が一枚の扉を示した。
ここで待てば、ロザリンさんへ到着を知らせに行くのだろう。

そう考えたところで、
「部門長なら、もう中にいますよ」
「そうなのですね。ありがとうございます」
先に返事が出た。

職員は笑って一礼し、来た廊下を戻っていった。二、三歩ぶん遠ざかる背を見送る。

もういる、とは。時計は十二分前だった。

面会

「こちらで待っていてください」
「了解」
従者を扉の脇へ残して、中へ入る。

小さな面会室だった。
窓から午後の光が入り、机の半分ほどを白くしている。机と椅子が数脚。壁際に棚。
その光の中へ、何枚もの紙が並べられていた。

「あ、来たね。妹ちゃん」
ロザリンさんが顔を上げる。

「こんにちは、ロザリンさん。お待たせしました」
「待ってないよ。仕事してたから」

机の上を見る。なるほど、仕事はしていた。
書類を束のまま手に持っているのではない。
一枚ずつ机へ広げ、離れた位置から順に眺めている。読み終えたらしいものは右。右側の紙には署名や短い書き込みがある。
まだのものは左。
読むというより、陳列された品を順に確かめているようだった。

治療後、右眼は光を受け取っているはずだ。
それでも、九年間使ったやり方まで同時に消えるとは限らない。

紙の奥には茶が一杯置かれている。半分ほど減っていた。
湯気はない。

「では、始めましょうか」
「うん」

向かいへ座る。
まず顔色を見る。前回より悪くない。
目の焦点も合っている。こちらへ顔を向けたとき、右眼は遅れずについてくる。

「以前の景色が、重なって見えたことは?」
「ないよ」
答えはすぐだった。

「目を覚ましたとき、自分がどこにいるか分からなかったことは?」
「それもないかな」
今度は一拍だけある。

しかし問いの意味を考えた時間として自然な範囲だった。

「ご自分でも理由の分からないことを、気づいたらしていたことは?」
「うーん」
ロザリンさんは上を見た。考えている。
思い出せないのではなく、該当するものがあるか順に確かめている目だった。
「ないと思う」
「そうですか」

そこからは、問い方を変えた。
同じことを何度も訊いていると悟られない程度に、時間をずらす。起床直後。仕事中。食事のあと。人と話しているとき。一人のとき。
問いの形を変えるたび、返事までの時間も見る。
答える前に目が動くか。言葉を探すか、出来事を探すか。
昔の景色へ触れたときだけ、呼吸が変わらないか。

質問が増えるにつれて、むしろ揃っていった。

一度だけ、窓の方へ視線が移った。外で人が通っただけだった。
また戻る。その戻り方にも引っ掛かりはない。

以前なら、妙なところがあれば、そこから問いを細くしていく。
今日は細くする場所がない。質問を重ねるほど、外れを探せる場所が減っていく。

「前と同じように、目を見せてください」
「はいはい」

ロザリンさんは椅子をこちらへ寄せた。

手袋を外す。
片方ずつ、机の端へ置いた。
首の後ろへ片手を添え、もう一方で顎を支える。

「少し上を」

顔が上がる。近い距離で目を見る。
人の精神へ働きかけるとき、わたくしにはこの姿勢がいちばん扱いやすい。それだけだった。
何かを置くつもりはない。何かを変えるつもりもない。ただ、もう少し深く見る。
返事として表へ出てきた言葉より奥へ。反応が始まる場所、その流れ方へ注意を移す。
異物らしい抵抗はない。
外から押し込まれたものも感じない。古い固定が戻っている気配もない。

治療前に触れたあの異常とは違う。

そこまではよかった。

その奥で、こちらの注意に対する返り方だけが違うところがあった。
精神へ触れれば、まったく動かないものでも、こちらが押したぶんだけは何かが返る。硬ければ硬いなりに、揺らげば揺らぐなりに、そこにあるものの形が抵抗として残る。
そこだけは、押し返してこない。置いた圧が、奥へ逃げる。
道、と考えるのが近かった。
何かのために作られた思考の通路ではない。何度も同じところを通ったように、そこだけ踏み均されている。
初めからそうだったのか、通るうちにそうなったのかは分からない。ただ、次も同じ場所へ進みやすいような、妙な通りのよさがある。
記憶へ繋がるものか。判断の癖か。単に考えやすい順序が出来ただけなのか。
触れた感触だけでは決められない。ただ、深い。

治療を終えた直後にも、同じように状態を確かめている。
あのとき、これはあっただろうか。
記憶は完全ではない。摘出の前後には見るべきものが多かったし、ロザリンさん自身の状態も今ほど落ち着いてはいなかった。見落とした可能性はある。

けれど、これほど目につくものを見て、何も覚えていないだろうか。
……答えは出ない。

手を離した。椅子との間に、元の距離を戻す。

「今日は大丈夫そう?」
「少なくとも、前回から悪くなった様子はありません」
「よかった」

ロザリンさんは肩を落とした。それから、こちらの手元を見た。
「妹ちゃん、今日はちゃんとお昼食べた?」
「まだですね」

答えながら、右手へ手袋を戻す。指を入れ、布を引く。
左も同じように戻した。

指先が覆われても、先ほど触れた感触だけは消えなかった。

「やっぱり。もうこんな時間だよ」
「ええ」
「帰る前に何か食べていきなよ」
「そういたします」
「本当に?」
「善処いたします」
「それ、食べない人の言い方じゃない?」
「では、食事を取ってから戻ります」
「うん。それならいい」

満足したらしい。
机の端に置いた手袋の跡が消えると、また書類が目に入った。
右側の束は、入室したときより増えている。診察の前から、かなり進んでいた。
茶はそのままだった。

追加問

「一つ、伺っても?」
「なに?」
「今日は、いつ頃からこちらに?」

ロザリンさんは壁の時計を見る。
「ええと、1時前だったかな。12時50分くらい」
「そうでしたか」

40分前。早い。ただ、早すぎるとは言えない。
わたくし自身、重要な依頼なら30分前に現地へ着くことはある。

「早かった?」
「少々」
「でも仕事はここでもできるから」
ロザリンさんは机の紙を一枚持ち上げ、すぐに戻した。
「部屋で待ってても同じでしょ」
「なるほど」

筋は通っている。40分を待つためだけに費やしたわけではない。
鞄を閉じる。

「では、次は三日ほど空けましょう」
「三日?」
「はい。今回と同じく、何か変化があればその前でも構いません」
「分かった。じゃあ三日後ね」
「はい」

結果として同じなので、訂正はしなかった。


三日後。
また十五分前に玄関を通った。

受付で名前を書き、案内を受ける。
今度は部屋の前まで来る前に、警備部門の方から声がかかった。

「部門長なら、もういらっしゃいます」
「そうなのですね。ありがとうございます」

扉を開ける。
机の上には、また紙が並んでいた。